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Channel: 死ぬまで生きよう!
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「それが答えだ!」は答えにあらず

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イメージ 1「『死ぬ』とは何かを考えたが、答えは出せなかった。それが答えだ」。と聞いたようなことを言う奴がいた。「答えは分らない。それが答えだ」の言い方をカッチョいいと思っているのだろう。ウルフルズに、『それが答えだ!』という曲がある。知らない、聴いたこともないが、歌詞の内容は、いかなる問題、いかなる事においても、「それが答えだ」。が、「答えは分らない、それが答えだ」と言ってない。「分からなくても、分らないなりに答えは出るだろ?

答えは分らない。それが答えだ。などと気の利いた言い方をカッチョイイせりふと思ってるんだろうが、カッコよくはないな。どんな答えであれ自分なりの答えは出せると思うけどな」と、言いたくもなる。こういう言い方をする奴ってのは、どことなく気取った奴だし、そういう奴は気の利いたセリフをストックしている。答えを出すとはいえ、正解である必要はない。

それぞれの人が意見し、それぞれの答えは出せばいいのだが、「正解が分らないから答えを出せない」というのは逃げだろう。間違って笑われるくらいなら、言わない方がいいと、こういう性格所有者はいる。なぜに間違いを怖れる?笑われることで自尊心が傷つくとでもいうのか?間違うことが怖いというのは、間違うことで恥ずかしい思いをするのが嫌なのだろう。

「いいではないか!」間違ったところで、それが何だという?間違うことが恥という感覚は理解できないが、誰だったか、「プライドの問題かな?」と言った奴がいた。その程度で傷つくプライドは、腰抜け野郎と言うべし。プライドの正確な意味は、「誇り」、「自尊心」、「自負心」であるが、「うぬぼれ」、「傲慢」、「虚栄心」などと、悪い意味でもしばしば使われることもある。

どちらにしろ人間の大切な心を表す感情で、人には誰しもプライドはある。このプライドが人によって高かったり、低かったり、中程度であったりする。それが人間関係上において、さまざまに影響する。高い場合、低い場合の影響はわかるが、中庸であっても影響はあるらしい。人間にとってプライドは高い方がいいのか、低いほうがいいのか、普通に中庸が無難なのか?

いろいろな人間を思い浮かべて思考するに、「答えは分からない、それが答えだ」。を自らに向けて言って埒があくのか?考えるのは答えを求めるからだが、考えても答えがでない問題はいくらでもある。これを能力と言ってしまえばそういう事だ。ウォーキングをやってるというと、「歩いてるならポケモンGOやったらいいんじゃないですか?」と、言ってきた若い男。

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ポケモンGOの知識はまるでないし、言われても意味がわからない。歩いているときは何かを考えることが楽しい。思考すること以外にすることがない。ヘッドホンで音楽を聴くことはできるが、思考の邪魔だ。トイレでうんちingタイムも同様、考える以外にすることはない。読書にも最適であり、ストーリーを目で追う小説などよりも、哲学書などの方がふさわしい。

「死」についてはさまざま考えるが、死んだ経験のない人間に死が分かるのか?状況はともかく死の実体については分らない。ならば死を経験すれば死が分かるのか?それもないだろう。我々が「死」といっているすべては他人の死であり、自分の死は自分に存在しない。人間は死に、自分も死ぬが、人は誰も自分の死を体験しないし、自分の死というのは他人の体験である。

「死にたかった。だから自殺をした」。まあ、そうであろう。死にたくないものが自らの意思で死ぬことはない。死を科学することは可能で、死を哲学することもできるが、残念なことに死は経験できない。いかなる人間も、他人の死をもって自分の死を想像するしかない。17世紀の哲学は、「実体」を原理とし、18世紀を支配した哲学は、カントに代表される「理性」であった。

19世紀に入って「生」がはじめて哲学的範疇の仲間入りをする。そしてニーチェを経て、20世紀に及ぶ「生の哲学」の要素は、ショーペンハウエルから享受する。「生」はいうまでもない「死」の対極、反対概念である。「生」そのものを理性的に考えたところで、生きるというのは、一般的な人の盲目的に突き進むところの、理性で把握できない非合理な衝動であろう。

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世の中(人間の社会)が非合理ということでもある。だから人間は物事を合理の範疇に押しとどめようとするが、決して押しとどめられるものではなく、だから哲学が必要となる。生は意志であり、生の意志をなくすものは死に至る。したがって意志があれば生があるが、生とは過去や未来ではなく、「現在」という時が生の実態である。よって、主観的な生とは、「今でしょ!」となる。

「現在」が意志から逃げることもなければ、意志が、「現在」から逃げることもない。とならば、意志の表れである生は、「永遠の現在」と同じである。この観点に立てば死など恐れる必要もない。人間は個体として滅びはするが、哲学的な「死」は恐れるものではなく、死の恐怖は錯覚として追い払うべきもの。死は現在を失わせるという考えすらも錯覚とするのが哲学である。

ショーペンハウエルという人は、釈尊の教えに多大な影響を受けた。彼はすみやかに終点に辿り着くこと、つまり自殺によって生、即ち死の恐怖を超えようとした。これらからショーペンハウエルは自殺肯定論者と見なす人は多く、しかしそれは大きな誤解である。確かに厭世の究極が自殺であるかの考えはあるが、世を最悪視するのと、世を儚んで自殺する厭世主義とは別だ。

インドには「ヴェーダ」という宗教文書がある。紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけて編纂されたものだが、「ヴェーダ」とは元々知識を意味する言葉。そこに以下の教えがある。「人が死ぬとその視力は日と一つになり、嗅覚は地に、味は水に、聴覚は空気に、言語は火に合一する。すなわち、死んで人の力はことごとくその子に伝わり、それによって永続する」。

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対手がどう解釈しようが、なるほど、教えとはこういうものであろう。上手い言い方だなと感心する。人間の占める場所など、宇宙の小さな点に過ぎない。が、個人の真の存在は「現在」のうちにあり、個人の現象としての存在は、時間の流れのなかにある。この現象という次元で見れば、個人の過去の生というのは、現在へと引き継ぐ役目を終えたところで、もはや死以外のなにものでない。

したがって、人の生の過去の内容が苦痛であった、快楽であったは問題とならない。と、ショーペンハウエルはこのように考えるが、人はいろいろだ。それぞれの人はどのように考えるだろうか。確かに、過去は現象を生まない点において死んでいるが、過去は記憶の中に生きている。記憶(過去)にどういう意味があるのか、あるいはないのか、あるいはどう意味づけるのか。

過去を重視する人、過去に見向きもせず、常に未来を生きる人、そうした様々な人間を見て来たが、問題の核心はは自分がどのような考えに至れるかだ。過去という非生産的なものを無意味とする人間は、ある意味偉大かなと…。常に前しか見ない人間は自分の周囲にも大勢いるし、筆頭として浮かぶのはイチローである。最近、驚いたCMがある。

「イチローが嫌いだ」。

「あの人を見ていると、限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」
「あの人を見ていると、自分に嘘がつけなくなるから」
「あの人をみていると、努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」
「あの人を見ていると、どんな逆風もチャンスにみえてくるから」

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これは新しいタイプのCMの形で、世の中の変化ともいえる。なぜ、こういうコピーができたか、イチローを見れば分かるし、イチローを見ていれば自然と思いつく。つまり、イチローは人から嫌われる生き方をしているように見える。どういうことかといえば、他人に媚びない、おもねない、他人の称賛に一喜一憂しない、そうした自己一辺倒主義が、自己中のように見える。

だから、「イチローは嫌いだ」というのは、「和をもって尊しと為す」の日本人気質に背いている。CMはそうしたイチロー的生き方を逆説的にとらえ、そういう人物を嫌うのは間違っている。そういう日本人であることはもう、「およしなさい」と、新たな日本人観を推し進めている。他人に媚びず、おもねず、称賛にも動ぜず、常に自分を見つめて生きていく。

新しい生き方というより、そういう生き方を苦手とする日本人、他人を見て暮らす日本人への警鐘である。イチロー的生き方を非難する理由は何もないどころか、間違っている。「イチローは凄い」、「イチローは素晴らしい」はクズ籠行きの言葉。今やイチローは日本人にとって反面教師として、新たな日本人的価値観を作っている。今の社会に「偉人伝」など無用である。

それほどに情報化社会になった。もはや嘘や虚飾は誰もが見抜ける時代になっている。人に好かれる人間の虚像を追うよりも、人に嫌われる人間の、「嫌い」の部分に、実は素晴らしいエキスがあることを日本人は見抜いていくべきである。それをなされないでは、いつまでも小物的日本人で居続けるしかない。言い訳と理論武装で巧みに生き抜いていける時代ではない。

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他人にちやほやされて生きる人間のなんと脆弱であろう。「勝って奢らず、負けて腐らず、喋らず」は将棋をやることで身に着けようとした生き方である。心の狭い人、人間の小さい人は、負けても自慢する。言い訳ならまだしも、負けて自慢する人は、勝者を認めたくない。あまりの傾向の強い人にはそれとなく言っておく。「言い訳して強くなるわけではないですからね」。

何にしても、言い訳をしたから罪が免れるわけでもあるまい。あまりに見苦しい言い訳だが、言わねば生きていけないなら、それ自体が見苦しい。遅刻の言い訳がくだらないと思った自分は、どんどん昇華し、すべての言い訳が醜く見苦しいと思えるようになった。勝った相手が、満面の笑みを隠し、「暑いから調子悪かったんですね」などと謙遜した言葉をくれることがある。

そんな時は、「とんでもない!力を出し切って負かされました」というようにするが、相手に敬愛心を抱く自分が好きだからやれる。「暑いから調子悪かった?」と謙虚な物言いの相手に対し、「ちょっと体調がね…」などと返す人間は、自分からみてバカである。バカは確かに多い、そんなバカにはなりたくないし、人にバカというのは、自分を戒めるためでしかない。


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