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「真面目」の未来学

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自分という人間の好きなところは何だろうか?と、まあこういう風に何事も疑問や問題提起をするところかも知れない。そのことに、「事の大小」はなく、どんなことでもひたむきに接することか。接するとは考えることもあれば、行為もある。自分は自分の定義では、「真面目」な人間ではないが、たまに人から、「真面目ですね」と言われると、面白いと感じる。


イメージ 1なぜこの人は自分を真面目と言う(見る)のかの面白さ。について、相手の視点で考えてみたりするところ。人には人の見方があるのだが、人の見方を否定・肯定する前に、「なぜそう思うのか?」を思考するくらい時間や度量はあってもいい。何事もハナっから否定したがる人はいるが、否定の後にその理由を言うならまだしも、言わないで否定だけの性格である。

「安倍総理はダメだな」と切り出し、「なんでだ?」と聞くと、「そう思わないか?」と振る。自分で切り出しておいて相手に同調求めるのか?「そう思わないけど何でだ?」と問い返した後が問題となる。仮に自分が安倍総理はダメだと思っていても、相手が振ったことの意見を言わせるためにあえて、「何でだ?」といわせる場合がある。いや、必要がある。

自分の意見を言わず、人の尻馬にのって批判する人間かどうかを見るためだが、その手の人間は結構いる。批判を言うからには責任をもつべきだし、でなければただの悪口である。男の世界観としてそういうのはつまらない。ちゃんと意見をいってこそ論理であるが、男の世界観に限定はしない。そういう女性は論理的だが、感情的な批判だけでも女性的と容認している。

いちいち突っ込んでも相手は困るだけで、それは女性いじめだと思っている。が、男にはそうは思わない。男女差別なく同じように接するのがいいし、正しいと思うが、差別というより区別と考えるのも、これまでの経験則だ。「男女差」という言葉は差別ではなく区別に使うこともあるのに、区別を「差」というのは適切なのか?もっとも「男女差はない」と言いたがる女性はいる。

本当にないなら男も楽だが、世間は「配慮」という言葉で男女差を承認することが多い。配慮というのは「いたわり」だと思っている。高齢者への配慮、未成年者への配慮と同様に女性に対する配慮は存在する。「配慮なんて面倒くさい、そんなもん必要か?」みたいなことを言いたがる奴はいるが、配慮が面倒という人間は、本質的な優しさが欠けているのだろう。

「配慮」は優しさから出てくるものだと思う。常々「配慮」なる意識は持っているが、「女性に対して配慮がないですね」と言われることもあった。今ではなく過去であって、今では配慮についての認識がかなり高まってきたからであろう。「配慮認識テスト」があれば70点の及第点はとる自信がある。それでもブログに女性観を書きながら、立腹する女性はいるかも?

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と思うことはある。男に比べてよくあることだが、「女性は〇〇なところがある」、「女性は××だしね~」という一般論を言ってる矢先に、「何でそういうこと言われなきゃいけないの?」、「上目線で何を気取ってるの?」など言ったりする。「お前のことを言ってるんじゃないよ」とフォローすると、「そういう言い方むかつくんだよね」と、ご機嫌斜めもいいとこ。

こういう場合は結構腹が立つ。一般論を自身と勝手に曲解し、誤解とフォローしたにもかかわらず、それでも理解できないのか、矛をおっ立てたままでは、怒りも当然であろう。怒りにもいろいろある。声をあらげ態度に出す怒り、成り行きを静かに傍観する怒り、いっぺんに口を利く気をなくす怒り、理路整然の言葉で相手の気持ちを鎮めんとする怒り。最後も一応怒りである。

優しさという怒りだが、それさえ通じないで乱れた情緒が抑えられない。男なら即座に「お前のことを言ってるんではないだろう?耳があるなら穴をほじってよく聞けよ!」と遠慮ナシに通告できる。それで「そっかー、わりい」となるのが男である。こちらの立腹を感じて、自分の不備・勘違いを許すという、謝罪に近い言葉である。が、情緒の荒れた女はそう簡単ではない。

そういう時に女は、相手に「ごめん」を求めている。自分の怒りは相手のせいだから、謝ってもらわなければ収まらないということか。「勝手に思い違いをして、説明しているのに耳を貸さず、俺を罪人扱いするなら、お前みたいなバカとは口を利けんな!」というしかない。こういう外罰型女には徹底的な処罰を与えてこそ、やっと自分の非を責めるようになる一例だ。

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何でも相手の非にし、相手に非を押し付ける人間にもっとも効果的な対処法。愚かな罪を犯し、それでも自己の論理で罪を認めない犯罪者は多いが、死刑判決でやっと目覚め、改悛する人間もいる。すべては遅きに失すだが、人間がそうであることは珍しいことではない。自尊心が強く、我がまま放題の女が、男に逃げ去られて、やっと彼がどれほど自分に大切かを知る。

失ってみて分かる女は、失うまでは自分を客観的に見ていない。自分しか見えない、相手のことなど、相手の気持ちなど考えない女だろう。そういう女性は、お灸をすえられてやっと自身の至らなさに気づく。それまでの主観的な行動が嘘のように自分を客観視できるようになった。これはどうにもならない状況にのたうちまわって、自己変革を決心した利口な女の類である。

女を分からせるために男は毅然とすべきである。毅然としなければおそらく分からないままであったろう。相手を許容するにもほどがあり、あまりの害悪を許容するのは、相手の世界にっもうひとつ別の世界をプラスすることになる。これは真実とはいえない。真実は一つであって、相手のもつ世界をガタガタに壊して、はじめて真実である。だから、男は女に厳しくあるべきだ。

逆もある。働かないでヒモのように依存し、女に尽くさせて色男ぶってる男を、惚れた女の弱みというのは演歌の世界だ。そういう男を立ち上がらせ、真の男にするには男の甘えを許さぬこと。厳しい言葉で真実を女に突き付けるのが賢い男であるように、グータラ男を甘やかせる女は賢い女とは言えない。相手がバカならどちらかが賢くあるべきだが。

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相手がバカなら自分もバカは平和であるが、弱者の共同体である。人間は不思議なもので、相手が弱いと手加減する。自分も将棋を指すとき、なぜかそうなる。が、心を鬼にして負かしに行くのは、例えば自分の子どもであったりするが、それを本当の愛情と考える。相手が弱いと手加減するのは、相手が弱いと思えばこその手加減であり、それを蔑みという。

逆に、相手が強いと思えば人間はどんなことでもできる。だからか、そうした意味で、互いがどんなことでもできる人間関係こそが、人の目指す関係であろう。「何も言わず、見て見ぬふりや、心地いい同情や加減であるより、どんな冷酷な真似さえできる間柄こそ、もっとも理想的な関係かも知れない。真の誠実さとは何か?相手にも自分にも嘘をつかないことであろう。

それに耐えるだけの強い精神の持ち主がどれほどいるだろうか。曖昧で欺瞞に満ちた人の世にあっては、真に心やさしい者が、時には冷酷と断罪される。いうまでもない誤解であるが、善悪を超えて物を言うことが許されない場合は結構ある。昨日、遅ばせながら『シン・ゴジラ』を観にいった。7月29日公開だから一か月以上になるが、観ない理由は観たいと思わなかった。

日本で生まれたゴジラは今やアメリカに出没するが、日本に帰ってこられてもね~。予想に反せず、感想はつまらなかった。ゴジラ映画に名を借りた、官僚の意思決定におけるドタバタ喜劇であった。規則や制約にがんじがらめの日本にあって、首相でさえ内閣の一員であって、善くも悪くも日本的合議制である。「公務員的」という言葉を改めてこの映画で実感させられた。

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そうした閉塞的な日本的美意識にあって、新しい形の官僚が今後の日本をリードしていくべきとの、観測が見えた。内閣官房副長官矢口蘭堂の奮闘ぶりが際立っていた。新しい時代の指導者は、日本的な「和」、「因習」、「旧態依然」に縛られていてはダメということ。降って沸いたパニックに苦悩する国のトップ。が、もっとも苦しいのは、苦しむ側でなく、見ている者。

小説『ジャン・クリストフ』のなかにそれと同じ箇所があった。見る側の苦しみに耐えることのできる人間こそが何かをなし得る。マキャベリーも政治の世界から宗教や道徳を切り離したが、その理由というのが、政治の世界にはそれらとは違った法則があることを見抜いていたからだ。あらゆる仕事の世界とは、感情的なものとは違った法則に従って生きるしかないのだろう。

漱石は、「真面目とは行動すること」といったが、その点でいえば自分は真面目かもだが、真面目を保守的とするなら自分は大変に不真面目であり、真面目とは古いものを壊すことにも当てはめられるべきと考える。未開社会研究のある学者がいった言葉。「古代社会というのは、あまりに我々と違いに驚くが、またあまりに我々と同じであるのに驚く」。なるほど…


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