10月 425974歩 291133m
11月 468475歩 322635m
12月 458508歩 311674m
1月 427959歩 295002m
2月 396480歩 269597m
3月 441295歩 300095m
4月 549318歩 373403m
5月 567095歩 381612m
6月 453428歩 308253m
7月 481400歩 327338m
8月 488053歩 331877m
11月 468475歩 322635m
12月 458508歩 311674m
1月 427959歩 295002m
2月 396480歩 269597m
3月 441295歩 300095m
4月 549318歩 373403m
5月 567095歩 381612m
6月 453428歩 308253m
7月 481400歩 327338m
8月 488053歩 331877m
8月は一族旅行もあって月間300kmを下回ると思っていたが、集計してビックリ。なんと、歩数・距離数ともに過去3番目の記録なのが意外だった。休んだ日が多かったので、あらかじめ歩数を伸ばそうと日々意識したことが数字に表れたのだろう。途中集計は一切しないで月末に計算するようにしている。その方が楽しみが増す。かつ丼のかつを最後に食べるようなもの。
ウォーキングも結構マメにやるが、何かにつけてそうなのが自分の長所であり短所でもある。決して真面目一途な性格ではなく、行為を遊びに代えて楽しむところが何においても継続の要因か。真面目な人間がどんなかは、真面目な人間でないのでよく判らないが、真面目さとは自分に強いることか?それとも強いることナシに真面目に考え、真面目に行動する人なのか?
その辺はよくわからない。真面目の定義もいろいろあると思うが、一般的に言われるところの真面目さ、真面目人間と言うのは、ある程度共通した定義があるようだ。例えば女に交際を求めるときに、「真面目に付き合ってください」という言い方があるが、この言い方は自分的には嘲笑もの。「よくもあんなこと言えるよ」と、白々し過ぎてケツが痒くなりそうだわい。
が、そういう言い方が似合う奴はいる。似合わない奴も言るが、それでも言ったりする。これを女たらしの友人が、「口説き言葉に結構使える」と言っていた。女が喜びそうな言葉だという。意味は分かるが、死んでも言えない、こんな言葉。というより、絶対に言いたくない言葉。そもそも「真面目に付き合う」という意味がワカラン。中学生の男女交際じゃあるめ~。
人間社会には様々な言葉があるが、その中でいくつか好ましい、あるいは好まれる言葉がある。「真面目」はその筆頭だろう。お見合いの釣書の定番として、「お酒も煙草も博打もやらない真面目人間です」などと書いたりする。自分を真面目と言えるのが凄い。だいたい「釣書」という言葉、釣るために書いた「釣書」なら、魚を釣るみたいに餌を撒いて相手を釣るのか?
といいつつ、実は「釣書」は以前調べたことがある。お見合いの身上書をなぜ「釣書」というのか疑問を抱いた。しかるに「釣書」の由来は、魚を釣る(ように相手を釣る)といった不届きなものではなかった。「釣る」は「吊るした」との意味で、本来は血縁関係などを示す「系図」を意味し、氏名と氏名を線で結んだ様が文字を吊るしたように見えることから「釣書」となる。
したがって、「吊書」ともいうが、本来は「衡書」が正しい。両家の釣りあいが取れているかどうかを、系図にして見るためのものであった。封建時代に武家同士の縁談に用いられた。現代では学歴・職歴の他に身長・体重や、資格、趣味、特技、宗教なども書いたりする。さらに備考欄にも希望女性の要点や、自己アピールなども盛り込まれるが、「真面目」もアピールなのか。
結婚は家庭をつくるためであり、家庭を作る能力という意味でいろいろ書くのだろうが、近年の離婚の多さの要因は、家庭を維持する能力に欠けた人間が多いからと推察する。「作る」というのは意志であり、意志は強さに由来するとするなら、「作る」能力は積極的な強さであり、「維持する」能力とは消極的な強さであって、「強さ」をなくした人間が家庭を維持できない。
家庭崩壊は浮気の露呈で一気に終焉することもある。が、昨日「暮らしニスタ」というサイトが、離婚申し立て理由のベスト10を掲載していた。結婚は簡単だが、離婚が簡単でないのはその理由云々よりも、離婚に踏み切れない精神的要素が多いからで、確かに離婚申し立て理由なるものはあるが、それはあくまで書式であって、そこに至る苦悩や迷いは誰にでもある。
離婚については幾度もここに書いた。離婚は決して悪いことばかりではないし、離婚原因の第一位は、不貞行為を超えて男女ともに性格の不一致となっている。性格の不一致とは抽象的だが、離婚申し立てにおいては便利な言葉である。考えてみれば性格が一致するなんてことがあり得るだろうか?同じ性格傾向よりも、真逆の性格の方が互いを埋めあっていい場合がある。
したがって「性格の不一致」というのは方便であって、差し障りのない言い方でもある。外に出たい妻と家でゴロゴロ好きの夫、節約妻に浪費夫、清潔好きの夫に自堕落妻など出せばいくらでもあるが、互いが結婚するまでは別の環境に住んでいたわけで、一致する方がどうかしている。まあ、不貞は別にして離婚の大半が、米粒のようなことが一俵だわらになったのだろう。
新聞や雑誌の離婚相談の多くは女性であり、相手の悪いことばかりを気晴らしのように書きなぐっているのが多い。まともに読めば気の毒な部分もあるし、ヒドイ夫だなと言えるが、これは一方的に書いているからである。果たしてけしからんのは夫だけなのか?何事においても一方だけが全面的に悪いということは、停車中のクルマにぶつかって来たを除いてそうそうない。
恋愛し、結婚したが、五年も経って子どももいるのに夫が遊び歩いてるという相談でも、妻に精神的な過失はないのか?いや、それよりもこの男と結婚を決意したのは妻ではないのか?自分で選んだ相手を自分で貶すのは、貶しのあれこれを聞いてくれるところがあるからだ。本来は自己責任であり、言って行くところなどないハズ。よって人生相談とは愚痴や不満のはけ口の場。
結婚が予定通りいかないのも当たり前である。男と女ほど計算通りにいかないものはないだろう。それを前提にどういう解決方法をとるかも能力である。問題解決能力と言う。問題解決能力とは、数学で100点取ることではないのよ。世の中で、今目の前に起こっている答えのない問題に、いかに答えを出すかという能力であって、学問の秀才や才媛など関係ない。
人生相談に名を借りた、腹いせや不満のはけ口に女の情念をみるが、心につっかえたものを吐き出さないと思慮が乱れるのだろう。男は我慢、じっと我慢、我慢を強いられて育ってきた。最近の不抜けた若者は、我慢をさせないように親に育てられた向きが見えるが、「やせ我慢」、「武者震い」なんてのは男の言葉である。男の我慢は男の価値を高めるものだと考える。
だいたいにおいて、他人を攻撃できるうちは、人間は罪の意識を持たないものだ。「私も悪いけど…」と前置きし、その10倍も悪口をいう女がいる。男は人の悪口を嫌う。相手も聞いてくれないし制止させられる。だから、男たちの中で悪口の花は咲かない。女は相手が聞いてくれるし、聞く側も一緒になって三昧する。女は批判型というより同調型、あるいは一緒になって非難型だ。
人間の思考回路は自分に都合よくできていて、攻撃心が外に向くことを許される人間は、なかなかどうして自分を責めることをしない。外罰型傾向は女に多く、悪いことは何でも相手に押し付ける人間には、徹底的な処罰を与えるしかない。それでやっと自分を責めることになる。罪に対する罰の本来的な目的というのは、犯罪を起こした人間を内罰型に誘うことである。
男がよい思いをした時代も確かにあったし、それは女が虐げられた時代でもあった。男と女の性差を考えると、ある意味それでよかった部分もある。女の我慢強さは男の比ではないと知られている。生物学的にも男は脆弱だし、だから母親は男の子に我慢を強いる教育をした。昔の母親は男を強くすることが一義であったが、浮かれた現代は、男の子を賢くしたい母親に変貌する。
女の武器は古今を通じて口である。だから、言い訳や責任転嫁で身を守る。男の一般的な身の守り方は争うこと。格闘であるがそれは知性なき男。松下幸之助は「知性なき男は汗をかけ」と明言を吐いた。肉体労働の勧めである。たしかにこれなくして橋もビルもできない。女がどのように強くなろうとも、そのことは一向に構わないが、言い訳や責任転嫁では困る。
強くなったら強くなっただけの責任を取るべきである。家庭を取り仕切っている妻が、子どもに問題があると夫を責める。他人のせいにして自分の罪を軽くするのだが、そんなことは企業や会社では許されない。家庭の権力者はイコール責任者であって、責任者というのは、責任を取る人をいう。法律で男女平等になり、女性上位と言われながら、よき社会になって行ってるのか?
いかなる社会においても権力者は存在する。為政者という意味での権力者は必要な存在である。が、よき社会というのは、権力者が責任を取ることではないか。そのためには責任感の強い人間が権力者であるべきだ。「男でしょう?」、「男なんだから!」はポジティブな意味で言われるが、「女の子だから」、「女性は特別に」などは、配慮として与えられる場合が多い。
映画『歩いても 歩いても』の恭平の妻とし子だが、夫には反抗しないいわゆる良妻賢母型である。が、よくよく眺めると、威張って君臨するプライド高き町医者の恭平について、、彼の自尊心を歪めることなく夫唱婦随に徹し、精神的に君臨しているのは実はとし子であるのがわかる。男なんていくつになってもガキ大将、威張らせておけばイイ子をしてるものだ。
夫の操縦法に理知的だった昔の女性は、男に従属することで弁証法的にいえば男を隷属させている。男には責任を取らせるべきだし、男は責任を取るべきである。それが家の対外的な「顔」でもある。奥様は「奥」にいるから奥様であって、奥様が前面に出る家庭を否定はしないが、ならば一切合切女が責任者となるべし。都合のいい時だけ夫を表に出すのは見苦しい。