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「老い」と断捨離

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断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のことで、この言葉が新語・流行語大賞にノミネートされたのが2010年であった。やましたひでこの著書が発表されて話題になり、この考え方が人々に広く知られるようになったのだが、基本的にはヨガの行法、「断行」、「捨行」、「離行」という考え方を応用したに過ぎない。

  断=入ってくる要らない物を断つ
  捨=家にずっとある要らない物を捨てる
  離=物への執着から離れる

やましたの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになった。さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかた、人との関係にも断捨離を実践することをすすめる書物なども出版されるようになった。『ビジネスパーソンのための断捨離思考のすすめ』(田崎正巳著)、『50歳からの人断捨離』(向谷匡史著)、『断捨離で「母の呪縛」を解く』婦人公論編。
 
当初、「断捨離」とはただモノを捨てたり、片づけを上手くやる方法のようなイメージであったが、家の中にあるたくさんのモノのうちから、「何を残し、何を捨てるか?」を思考することで、モノを通じて自分と向き合う事ができる。即ち、自分自身を深く知ることができる。もっと言えば、「自分が人生で何をしたいのか?」を教えてくれるものであるとやましたは断捨離による新しい生き方を提唱する。
 
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「このまま老いていくだけの人生は嫌だ…」という人は多いのかも知れない。ジェーン・フォンダも「老い」を「人生の第三幕」と提唱し、自身の考えを広めている。主体性や独創性のない女性をターゲットにした考えのようで、自分らのようなマニュアル嫌いで、自らで思考・行動する人間にとっては興味の対象とならない。この手のビジネスにはいささか大げさすぎるきらいがあり、それでこそビジネスである。
 
世間は商業主義にまみれ、あらゆるものの利点が大げさに強調されたり、クローズアップされたりは仕方がない。そんなに素晴らしいものなら無償で広めればいいと思うが、商売にするところが胡散臭い。「イイこと教えてあげるからお金出しなさい」的な商売というのを自分は信用しない。小金を儲けたいという人間と、一級のセレブ人間であるジェーン・フォンダとの格の違いとでもいっておこう。
 
この考えに飛びついた女性には、「宗教じみている」、「大げさすぎる」などのの不満や批判から、「断捨離卒業宣言!」というサイトで、いろいろ書いている。「気をつけよう、甘い言葉と暗い道」という標語を思い出すまでもなく、真に自己変革を望むなら、自らとの孤独の闘いであると記しておきたい。世の中にはセミナーと銘打った様々なものがあるが、大事なのは「継続は力」という一語。
 
 
新しいもの、新しいこと、そういった新しいもの好きの女性が陥るのは、新しいものこそ実は流行おくれである。『賢明に世俗的であれ、世俗的に賢明であれ』と言ったのは、フランシス・クォールズである。彼の生きた1600年代初頭のヨーロッパ人の平均寿命は35歳にも満たなかった。こんにちの平均寿命は当時の倍以上に延びたが、それはたんに医学や薬品の進歩と言うだけではない。
 
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我々は日々の生活の改善に確かな考察をくわえてきた結果であろう。人生の継続を長引かせるために積み重ねてきた幾多の注意や行いなどは人生を質の良いものに改善した。癌や循環器系の疾病に対する予防医学の発達も、医療は病を治すから病を防止するに移行している。それでも不治の病は存在するし、世界中の科学者や医師や研究機関がそれらと闘い続けている。
 
最悪の老いは心の老いであろう。つまり心の若さといえるようなものが、年齢と言う避けがたい精神の後退を遅らせている。老化のプロセスってのはその結果が単一であろうはずがない。年とともに弱くなるものはあるだろうが、強くなる特質のものもある。記憶力や反射神経は減退するが、理解力、判断力は増す。
 
情報処理能力衰えても、知識の蓄積は増えている。老化で増えるものは何があるか?シミやシワも増えるな。これは老化現象といえる。知性は経年で劣化すると思われがちだが、以下指摘する科学者もいる。「知性とは、個々人が自分と自分をとりまく文化の中で、自ら意味があり重要と思ったものを見、使い、適用し、結びつけ、結びなおす能力のことである。
 
この能力は、最終的な死による以外に低下する事はない」。知識と知性の違いを説明しながら、経年によって知識量は減衰しても、知性は低下しないものだという。老化と脳と行動の関係についてなされた実験データや研究によれば、成熟後の脳細胞の効率は、徐々に低下の傾向が見られることがわかった。機能上からいえば脳細胞の効率低下は一細胞あたりの情報容量の喪失として現れる。
 
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が、必ずしも情報処理能力や分析力の低下とはいえない。後者のプロセスは確かに老人の速度は遅いといえども、正確さは若者と何ら変わりはない老人もいる。とりわけ活動的な生活を続け、精神が硬直化したりで保守的にならないような日常訓練を怠らない老齢者に関しては、むしろ若者を越えていたりする。まあ、自分もそのようにならないように、書き物をしているというわけだ。
 
人的交流ブログもいいが、矍鑠とした精神の鍛錬に書き物ほど有意義なものはない。老人はいかにも保守的であり、当人すら気づいてない場合が多い。保守的とは思考の硬直化を言う。カルフォルニア大バークレー校のM・ダイアモンド教授は、ラットの老化した脳についての研究で、「病気や貧困な環境や栄養不良がなければ、神経系は老化の退行に抵抗する潜在能力を持つ」と結論づけた。
 
老齢期は人間の最大の後退期というのは現実から遠く、実際は我々のすべてで進行している現実的な後退が最少の時期であるという事実に驚かされるが、ダイアモンド教授も、「脳が刺激ある環境にさらされる限りこれは事実である」としている。刺激ある環境とは黙って何もしないでいて、周囲が与えてくれるものではない。真に若さを必要とするのは、何においても努力が必要である。
 
イメージ 5ジムに通ったり、地道なトレーニングで肉体を鍛えることが若さの堅持と励む人もいる。でっぷり・ぶよぶよ土左衛門の身体にくらべて美的であるのは間違いない。が、精神の若さは筋トレでは敵わず、脳トレで鍛えるしかない。人々の誤解は、老化における機能上の後退、あるいは社会的後退は、脳そのものの後退であるという間違った考えにあった。若さは肉体よりも脳である。老人が美しい肉体を誇示してみたところで、脳が棺桶状態では何をか云わんや。細胞の損失は年とともに起こるのは間違いのない事実であるが、それらは個人個人でさまぁまであり、冒された脳の諸領域や諸部分において、速さは異なっているし、先に述べたように、活発な精神と刺激のある環境によって補われる。活発な精神は自分にとって最良の環境をつくりだすことができるのだ。
 
刺激のある外的環境は、不活発な脳に活動を起こさせる。使わないことで起こる機能の減退は、内からも外からも起こるし、それは充分に刺激を受けなかった脳に、より顕著に現れる。最もいいとされるのは、二種類の「刺激」の利点を受けること。過去の経験による刺激と、新しく挑戦するような刺激である。恋は女性をキレイにする媚薬であるのか?それは科学的な立証の元に言われているのか?
 
彼に愛されたいがゆえに、お化粧やスタイル、着衣に気を配るからというのも事実だが、恋をすることで体の内側から、キレイになる仕組みがあるのは事実のようだ。俗に"恋愛ホルモン"と呼ばれる4つのホルモンが、フェニルエチルアミン、エストロゲン、ドーパミン、オキシトシンである。フェニルエチルアミン(PEA)は、チョコレートやココア、チーズなどに含まれる香り成分である。
 
チョコレートを口の中で溶かすと、高揚感を感じるのは、このPEAによる。「やる気物質」とも呼ばれ、気持ちを上向きにさせる作用がある。癌治療の鎮痛剤として使われるモルヒネにも含まれる「軽い麻薬」。エストロゲンはキレイホルモンとして有名。女性の第二次成長期に多量に分泌され、更年期に入るとその分泌量が著しく減少する事実からみても女性らしい体をつくるのに不可欠なホルモン。
 
恋愛をするとエストロゲンの分泌が盛んになることがわかっているが、ストレスがかかると分泌が減るのでつらい恋では意味がない。 ドーパミンは別名「快楽ホルモン」。心地いい、うれしいという快楽・快感の動機となる行動は、このドーパミンの分泌で再現されようとする。ただし、このドーパミンは10年歳をとるごとに10%減少してしまう。ドーパミン分泌低下に恋愛は有効な手段と言えなくもない。
 
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オキシトシンは、愛情や信頼を決定づける母性ホルモンである。出産や授乳期に多量に分泌されることから、母が子を思う愛のごとく無条件で相手を守りたいという思いを起こさせる。この分泌がさかんだと、恋の相手を信じる気持ちが高まる。したがって、オキシトシンが分泌されると、優しい気持ちになり、社交性も高まり、彼とのコミュニケーションもより潤滑になる、というわけだ。
 
しかし、このオキシトシンの分泌が多いと無気力になったり、逆に自己中心的な愛に溺れる可能性もある。絶対愛の感情はオキシトシンから生まれるが、夫あり、子どもありの妻に絶対愛の感情が芽生える事はない。常に抑制しながら不満の捌け口、性欲の対象としての衝動を自己暗示的に恋と思い込んでいる。「恋は性欲を隠す方便」というのは、いかにも女性に用意された言葉であろう。
 
「愛する」というのは、互いに見つめ合うことではなく、 いっしょに同じ方向を見つめることである。 大抵の男女は簡単に愛するなどの言葉を使うが、真に難しいのは同じ方向を見つめあおうとする気持ちだ。快楽物質ドーパミンが危険と遊びに機能し、男と女は遊びにふけるが、それは最も危険な遊びであろう。恋愛のもつれから相手を殺めるという愚行は、若い人のみならず老齢者にも見られる。
 
1883年アメリカ・フロリダ州生まれのフロリダ・スコット・マクスウェルは、16歳で舞台女優となり、1910年に結婚してスコットランドに移住、婦人参政権運動に参加。作家、劇作家の後はユング派の心理分析家として活躍し、数々の著作を生んだ。彼女の名著『八十歳、わが日々を生きる』(1968年)は、現在も多くの人に読み継がれているが、年齢のもつ一側面としての印象をつぎのように語っている。
 
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「老人はとても若いと感じている…。ときどき、そうなのである。体が痛んでいて無力な衰弱した身ではあるけれど、ときどき心の中では永遠にすばらしく若かったりする。そうあるべきかどうかは、私には分らない。それは誰がいえようか。たぶん、この奇妙な若さと言う性質は大変に重要である。そして観察によれば、それは変異が大きい。私が確かだといえるのは予期せぬ新鮮さが老いたときに訪れるということだけだ。
 
このわけのわからない新しさは、あまりに心を浮き浮きさせるので、いかにそれを分別をもって放置するかが問題である。思うとおりに説明してみようか…。それは、幸福のようであり、開放感であり、何か許されたような感じすらする。それは大いに尊ぶべきものであるように思う。心の内に湧く期待のはずみは、まさに正真正銘のものなのだから。そして、私がそれを純粋に新鮮なものだというのを、どうか信じて欲しいと思う。」
 
なんと静謐な文章であろう。誇張がないゆえに真実が際立つ。ほとんどの高齢者にとっての問題は、彼らが年をとっていると感じていることではなく、そう感じていないことなのである。我々はみな自分の中に永遠の若い魂の核ともいえるエッセンスを持ち続けており、その内的な光が、我々の人生の日々を暖め、照らしつづけている。くれぐれも保守的な他人から老齢神話を押し付けられないことだ。
 
人生の全行程は、若々しい老年であるべきだ。自己を静観し、愛情に満ち、陽気に振舞い、人生の最高のときである老年に向かう旅ではないだろうか。老人は若い人よりも人生を楽しむことができる。その理由は老人の方が人生により深い理解や造詣をもち、若い人より賢明だからである。老人が社会から見放されている状態は、実は老人にも責任があろう。積極的に社会に関わろうとしない。
 
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社会性とは他者とのかかわりである。このことに対して我々は常に責任を持たねばならない。好きなようにする自由をもつために、我々は好きなようにすることに対する責任を負う。そういった責任感は自然発生しない。教育されなければ決して身につかない。であるなら、無責任な人間は教育されていない人間であろう。自分がした行為の責任を、自分が取らないのなら、誰が責任をとる?
 
組織の中の一員として、別に責任者が置かれているならともかく、それでも自分の行為の一端には自己の責任もある。できることなら責任感は若い時分に教育され、訓練されているべきである。それがなされているなら、「責任感」は決して重荷にならず、むしろ楽しみとなる。なぜなら、自分のする行為は、自分が好きでする行為だからである。自ら考え、自ら行動することに、嘘・偽りは持ち込まない。
 
なぜなら、責任をとらなければならないからだ。責任回避を企む奴、責任放棄でどこ吹く風のような物言いをする奴は、やっていること自体に信憑性がないのだろう。言い換えれば、自分を偽った行為をしている。これでは責任などとれるはずもないし、取りたくもない。若い人に責任感を植付けるには、責任を持たせる何かをやらせること。過保護ですべて親が責任を取るなどどうかと思う。
 
ニートなどという言葉に甘んじているのは、実は本人よりも親なのではないのか?そんな者を囲ってどうなるというのだろう。親が親の責任において子どもを育てなかったからだろうが、それが「自己責任で生きてみろ!」と外に追い出すこともできない要因になっている。「負の連鎖」というのは断ち切ることが難しい。「子どもがこうなったのも親の責任」という言葉が虚しく響く。
 
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「親子の慣れあい」、「負の連鎖」、「親の社会的責任」というところまで考えて子どもに向き合う必要があるが、新米の若い親には難しかろう。核家族が奨励されているかの如く、三世代同居が少ない現代にあって、おじいちゃんの一言が聞かれなくなった。思い起こせば、子どもの頃、祖父の一言は親以上に心えぐられるものだった。祖母の至言もいくつか脳に残っている。
 
今、自分がその役に任ぜられているのを、ハタと感じている。親の言う事を聞かない孫でもおじいちゃんの言う事を聞くのはなぜだろう?親の親だから偉いと思っているのか?孫の心は判らないし謎である。が、下手な事は言えないという責任感が湧いてくる。孫は育てる義務はない。可愛がっていればいいという。だから、「目の中にも入られる」のだと。昨今はそんな暢気な時代ではないのよ。
 
 

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