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「息子は犯罪」 高畑祐太 ②

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母親について書く、「息子の犯罪 高畑淳子」という表題を、祐太容疑者について同じ書式で、「息子は犯罪 高畑祐太」としたのを、いまいち変と感じるのは国語力の問題か?「息子が」、「息子も」、など考えたが、「は」としたのは逆読みなら、「高畑淳子の息子」に対し、「高畑祐太は息子」となる。「息子の犯罪 高畑祐太」とするなら、「高畑祐太の息子」となる。

「悪い親」からも、「いい子」が現れるように、「いい親」から、「悪い子」も生まれ育つ。「いい親からだけいい子が育つ」というのは否定はしないが怪しさもある。悪い親の勧めというわけにもいかないので、「いい子はいい親から生ず」はマジョリティとして実践すべき事。「子は親を映す鏡」というのは、正しくもあり、正しくもなし。その意味はひとつだけではない気もする。

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確かに、子を見ればどんな親かをある程度知ることができるのは、子への親の情愛や躾が子に反映するからだが、この慣用句は親の子に対する躾をちゃんとするようにとの戒めでもある。が、「子は親を映す鏡」には、別の要素、別の解釈もある。例えば、親が子を叱ったときの子どもの反抗態度や素振りだが、これは親の言動がそのまま子に映っているのかも知れない。

つまり、親は子どもの態度・素振りを見ながら、まるで自分にソックリと感じることもあるだろう。鈍くて感じない親もいようが、周囲が客観的に見れば、なんと、「似たもの親子であろうか」と感じたりもする。「クソばばぁ!」と子どもに言われた母親が、「何ですかそんな言葉、そんな子どもに躾けた覚えはないですよ」と、子どもを責めたり叱ったりは、実は間違っている。

そういう子どもに親がしたのは疑いのない事実として、自らを責めるのが正しい親の在り方である。そういう言葉を子どもが発するほどに、親が子を追い詰めたことに親は気づいてない。だから今、気づかなければならない。親が子を叱るとき、叱ろうとするとき、叱る側の視点でしか見ないが、叱られる側の子どもの視点で眺めてみる。そうするとバカな親だったりする。

見えないものが見えてくるのは、見ようとするからだ。見ようとしなければ子どもの視点から見る親の存在など見えてはこない。そこを見る必要がある。躾の最中に、親自身が改めるべくことは多いが、そういう感受性を持った親こそ良き親であろう。「叱る」というのは、それほどに難しいことだし、感情にかまけてヒステリックに子どもを怒鳴る親が、子どもを心の病にする。


成人後もちょっとした大きな声に反応し、怒鳴られた昔を思い出すという、びくびくした人がいる。注意欠陥・多動性障害(ADHD)は人生を台無しにするが、それは親の責任である。東大生4人に一人はアスペルガー症候群といわれて何ら驚かなかった。特に最高偏差値の理Ⅲ(医学部)に多いという。常識的に、普通におおらかに育って理Ⅲに行けたのか?

無理だろう。それを示している数字だが、熱心な仕込みなくして理Ⅲに入れるわけがない。ならばどこか歪が生じる。どう育ててもどこかに問題が生じるなら、早くから塾に押し込み、ひっぱたいて勉強させた方がいいということだろうが、この考えの誤謬はルソーの『エミール』を読めば分かる。子どもを親の所有物として親の価値観に封じ込め、勝手に夢を抱き、ケツを叩く。

まあ、そういう親ばかりではないから、スポーツ、芸能などの各分野で秀でた人間が存在している。何にしても、子どもは親から大いに影響を受けるのが一般的親子関係だが、犯罪といわれる善悪紙一重など、親は予見できない。どういう親が子どもにいい親か、どうすればいい子に育つのか、自分は文字に起こせない。締めれば荒れ、緩めれば甘える。どうすればいいのかね~?

親がふつうに抱く子育ての苦悩だが、近年は核家族もあってか、同居の年寄りから子育ての知恵も授からず、どう育てていいか分からないと嘆く若き母親。まずはどういう子どもを望むか?との理想を持つことだが、頭のいい子にだけを目論む親が多い。たびたび引用するが、坂口安吾は、「親があっても子は育つ」といった。これは「親がなくても子は育つ」を言い替えたもの。

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前者は物がない時代にあって、貧乏で食うコメもない、学用品さえ満足に与えられない、そんな親に対し心配は無用とする。子どもは草の根をかじり、ボロ服着ても育つものと、そんなエールである。対して安吾の、「親があっても」の大意は、「与えすぎる親、子どもを甘やかせるなど親の弊害はあっても、子はちゃんとまともに育つ」という彼一流の皮肉で、原文は以下。

「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ」。安吾の言葉には驚いた。

さらに安吾は「家」の制度を、子育てにおける「邪」であると批判する。「家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。…中略…

家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、家の子供にはないものである。人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。」安吾を読むと、心が洗われる。人は自由に、何かに頼らず、自己の責任で生きて行くべしと突き刺さる。


高畑母子の一件おいて、当分の間はいろいろな言葉が耳に入ってくるだろう。別のめぼしい事件が起こるまでは…。口を開くメンバーは、尾木直樹、長谷川豊、森永卓郎、坂上忍、マツコ、ミッツマン、ホリエモン、テリー伊藤、松本人志、オリラジ中田、東国原らが常連か?彼らは人のことをアレコレ言うが、それが本業なのか?昨日は高橋真麻までが高畑敦子を批判した。

裕太容疑者に、「どんなことがあってもお母さんだから」と呼びかけた母淳子について、「犯罪の内容が内容。一生お母さんはお母さんだよと言ってあげられることに、優しすぎるなと。うちだったらあり得ない」と、父の高橋英樹なら「絶対優しい言葉をかけない」という意味のコメントしたようだ。父を持ち上げるのはいいが、父親と母親を一緒にしたコメントは筋違い。

「物言えば唇寒し秋の空」ではないが、「芸能人は黙っていることの価値はないのか?」である。犯罪当事者批判ならともかく、今回の母親批判は真に目にあまる。所詮は、「目糞・鼻糞を笑う」程度の批判であって、自分も同じようなものだが、鼻糞を笑う目糞になりたくはない。つまらん批判をするよりせめて、「人糞、鼻糞を笑う」くらいに昇華はしたいものだが…。

高畑裕太容疑者はまだ22歳という。22歳はもう大人だ、いやいやまだ子どもだ、などの考えもあろうが、どちらにしても愚かな行為に変わりない。「強姦罪」という犯罪は少なく、近年の多くは、「強制わいせつ罪」である。言葉も違えば意味も大きく違い、「強制わいせつ」は、下着の中に手を入れたり、服を脱がしたりで、女性の部分を相手の意思に反して故意に触った場合。

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「強姦」は、相手の意思に反して無理やり性交した場合であって、「強姦致傷」は重罪だからこのまま起訴となる。刑法181条の規定で、「無期または5年以上の懲役に処する」とある。短くても、「5年以上」であるため、通常、執行猶予は付かない。量刑で重要な点は、被害者への真摯な謝罪と誠意ある示談である。慰謝料の支払いを含む心からの謝罪が大事である。

被害者の加害者への処罰感情が消滅する、もしくは減少し、示談が成立することがなにより大切である。さらにもう一点は、その状況だ。裁判で明らかにされるが、高畑容疑者がどのような暴行を加えたのか。また、その暴行行為は被害者の抵抗にあってもさらに暴行を加えたのか。あるいは被害者が観念し、すぐに抵抗を諦めたのか、そのあたりが争点となる。

犯行内容の詳細は報道されておらず、強姦致傷という行為は、強姦行為そのものはどうであれ、身体のどこかにケガを発生させた時点で既遂となる。よって、性器挿入という強姦行為そのものについて、未遂の可能性は排除できない。群馬県警による逮捕容疑は、「強姦致傷」としているが、今後は公判において、「未遂」と変更されることは十分考えられる。

県警発表によると、高畑祐太容疑者が、「歯ブラシを持って来て」と女性を部屋に呼び出したのが、午前2時から同2時25分ごろで、同3時32分には女性の知人から110番があったことからしても、犯行時間は長いものではなかったと推察する。また、被害者のケガも加療1週間程度の打撲で軽傷であることを考えると、強姦行為そのものは未遂の可能性もある。

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祐太容疑者に限らず、罪を起こした直後に動転したり、反省と改悛に襲われてか、警察の取り調べ段階で、言われるままに、「強姦」を認めたことも考えられる。今後は、弁護人が祐太容疑者から詳しく事情を聞き、「強制わいせつ致傷」として罪状を争うことになろうか。あるマスコミ関係者は、「高畑容疑者の酒癖の悪さは業界では有名だった」などの批判を持ち上げる。

全ては一事が万事か、「ああいう事件を起こしても仕方ないな」のレッテルを貼りたいのよ。過去があんなだからこんな事件を起こしたと、寄って集って言いたいのだろうが、事件を起こしたからアレコレ言える。他人を、「どうの、こうの」いえば自分は立派だ、みたいな姑息な民族。自分はテレビ断食であるが、時代はネット論客が、「どうの、こうの」の時代である。


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