昨夜は夏掛けにすっぽりくるまって…、そんな気候だったが一気に秋の到来か?「風が涼しい」と、今朝の印象だ。「春を眺める余裕もなく、夏を乗り切る力もなく、秋の枯れ葉に身を包み、冬に骨身をさらけ出す」という歌詞があるが、これって結構文学的では?ふと沸いた言葉か、考え抜いて出た言葉なのか、何かの引用か、いずれにしろ作詞泉谷しげるに感服する。
その泉谷が高畑に、「とにかく男としてダメ。バカ野郎」と声を荒げた。「ニュースで見てびっくりした。これは相当の重罪事件だぞ。歯ブラシくらいてめーで取りに行けよ、バカ野郎!」と喝。泉谷らしいが、「歯ブラシくらいてめーで取りに行けよ!」って、もってこさせたから強姦したというより、強姦するつもりで持ってこさせたわけだから、威勢はいいがちょいとズレている。
この種の事件というか、子どもの不祥事に対する親の対応や、会見での発言について、いろいろな同業者(芸能人)らが参戦し、それぞれの一家言なりを述べている。一家言があるのはいいし、持論をいうのはいいが、昨日はRIKACOが高畑の会見について、「何のための会見だったの?」と苦言を呈した。彼女自身も2人の息子の母親で、長男はすでに成人している。
彼女は言う。「母親として一番やらなきゃいけないのは、自分の息子を本当に叱ること。守ることも大事なんですけど、20歳も超えた自分の息子が犯罪を犯した時に、こういうことを起こしてしまった息子に対してまずは、叱るっていうことです。(今回の)事件は本当にただごとじゃないんです。そのことの重大さを本当に息子に伝えないと。そう簡単な問題ではないですよね」。
こういうバカゲストを呼んではダメ。会見場で息子をどう叱るって?「こんなバカ息子はいない。呆れてものも言えないし、親の顔がみたい」と吊し上げろってか?そもそも会見ってそういうことのために開くのではあるまい。社会的影響力の大きい職業だから、そのことを世間に詫びるのが趣旨であり、局や番組に穴を開けたことは個別に局廻りをすればいいのだろう。
となると、会見と言うのは息子が脱法的不祥事を起こしたことを、親として世間に詫びるのが主旨であって、「どう育てた?」、「親として甘いのでは?」などなどの、鬩ぎを負うことだろう。あんなところで鬩ぎを負う必要があるとも思えないが、マスゴミの奴らは吊し上げなければ気が済まないし、そういう「絵」を撮りたいわけだ。高畑も出てくる以上はその覚悟である。
マスゴミも世間も、罪を犯した息子を母親がケチョンケチョンのボロカスを言えばいいとでも思っているのだろうし、それでこそいい母親だと評価するのだろう。だったら高畑もそういう風に演じればいいわけだが、彼女は正直な人柄のようで、そういったマスゴミ受け、世間受けより自分に正直である人。RIKACOはその辺りが不満のようだし、ゲストに呼ばれたのだから…
そりゃ、粋がるだろうよ。テレビの前で発言を求められれば、聖人君子のようなことも言いたくはなる。タレントや芸能人なんてのは、自分の株を上げればいいわけで、そのために番組に出演するわけだ。人気商売、人気稼業のタレントに学者のようなコメントを期待できるものではなかろう。だから、「呼ぶな!」か、もしくは面白半分に聞いていればいい、ともいえる。
今回のRIKACOの発言に目くじら立てる訳ではないが、そりゃ、親だから不祥事を起こした息子は叱るだろう。RIKACOはそんなこと言わんでよい。ただし、自分の息子が留置されている警察署に、事件後顔を見に行くとするなら、そこでもって、ガヤガヤ、ゴチャゴチャは言わないだろうし、今さら叱るという段階を超えている。厳しい自分だが、警察で叱ることはない。
罪を犯し、事の大きさを感じている息子と、そんな彼の顔をまじかに見る父親としては、「叱る」段階はもはや超えているという状況だ。記者会見はセレモニーである。マスゴミや世間の喜ぶような親の威厳と正義感と演技力とで、息子を詰ることにどれだけの意味があろう。息子を非難してポイントを稼ぐよりも、ひたすら世間様に謝罪する、それが会見の目的だ。
そんな分かり切ったこと以外に何がある?だから自分は見なかった。マスゴミの興味本位ともいえるくだらない質問に、答えの出ない問題の答えをその場で絞り出さなければならない母は憐れである。気丈な性格の女性もいれば、高畑さんは、適宜な答えも、上手くはぐらかすような利発さもないように思える。しかし、マスゴミはそんなことは容赦しない。相手は舛添じゃないんだ。
か弱い女性である。記者会見以降、この件にアレコレ発言するタレントにはほとほとうんざりする。やったことはやったこととし、後は罪に服し、被害者への謝罪をすればいいこと。躾がどうだのと終わった子育てを蒸し返して、視聴率を上げようとするマスコミ、タレントを呼んで気の利いたことを言わせて、世間をミスリードするマスゴミは、まあいつものことだ。
最近は学者よりもタレントを呼んでコメントさせる傾向が強いが、それだけタレントの現勢が強いというか、大きいのだろう。「神戸児童殺傷事件」や「秋葉原事件」のような複雑さはなく、学者を呼ぶよりタレントで事足りてるということだろう。自分からすれば、勘弁してほしい自己顕示に満ちたコメントもある。呼ばない方がいいが、それでは番組が成り立たないのだろう。
高畑が甘いとRIKACOは言うが、高畑は高畑であって、急にRIKACOにはなれないのよ。息子を叱れも、今の状況は筋違いもいいとこ。希薄な想像力しかないタレントが、で気の利いたことは言わぬ方がよい。「もっと息子を批判しろ、私ならそうする」というなら、自分が同じ立場になったらすればいい。高畑を非難したからと、誰の人間性も向上はしない。
是非論好きの日本人は是非論を語るといったが、「是非論」の前に、可能かどうかを思考すべきである。局が呼んだコメンテータの自らのお株を上げるだけのパフォーマンス発言に先導されぬよう、視聴者は吟味すべきである。「おもいっきりテレビ」ではないが、近年はNHKまでも「やらせ」をやる時代であって、テレビには情報としての嘘も多いし、影響も大きい。
「テレビなんて本当に見る番組がない」という声はよく聞くが、そんなことならいっそ観ない方がよい。高畑淳子への批判はいくらでも出ようが、高畑は高畑であって、彼女の自己変革はもうないだろうし、あのような質実な人はそっとしてあげることだ。まあ彼女も「育て方を間違えた」と言ってるんだし、以降は高畑が息子に、息子が母にどう関わっていくかである。
終わった事件を手を変え品を変えてくどくどやるのがワイドショー。間違った子育てが原因とそのように結論してもう番組を終えることだ。これから被害者と示談交渉という大事な局面を前に、周囲がゴチャゴチャいうのは止めた方がいいよ。テレビ局も節操を考慮し、ゲストも、「被害者も番組を観るなら、外野が余計なことはいわぬ方がいいでしょう」くらい言えばいいよ。
そんな矢先、一人の外国人女性がこの問題に加わった。キャサリン・ジェーン・フィッシャー。オーストラリア出身女性で、1980年代に来日し、日本に暮らしており、テレビでタレント活動をしていたこともあった。そんな彼女は2002年の4月、神奈川県横須賀市で在日米軍の米兵からレイプ被害に遭う。一部始終を『涙のあとは乾く』(井上里訳/講談社/2015年)にまとめている。
その時彼女は警察からの取り調べで受けたセカンドレイプ体験や、アメリカに帰国した犯人を捜し出して裁判で勝訴したことなどが書かれているという。彼女は会見で流した高畑の涙に怒り、以下ののように述べている。「なぜ彼女は泣いているのですか? 彼女の息子が獣のように被害者をレイプしたせいで、その女性がいま味わっている生き地獄のために泣いているのですか?
もしくは、彼女の息子が逮捕されたせいの涙ですか? 悪いけど、私にはこれが理解できませんでした。 メディアがその母親に被害者女性に対して何を言いたいか聞いたとき、彼女には重大な言うべきことが特になかったのだと私は気づきました。けれども、もしあなたが私をレイプした男の母親だったら、私はあなたの顔を見たりあなたと話したりするのですらいやだったかもわかりません。
レイピストの母の言葉は不適切です」。言ってることはよくわかる。至極当然かもしれない。高畑の会見を評価する人間もいるように、いろいろな人間のいろいろな思いや考えがあるだろう。立場の違う人たちの、一つ一つの意見はそれぞれに意味を持つが、それらを総合した見解や正解を出すのは難しい。東野圭吾は『手紙』で犯罪加害者の苦悩を描いているが、それも見方である。
こちらの考えを聞けばなびき、別の考えを聞けば頷き、一体何が正しいのか?それが世の中である。宗教のようにこれが真理と他を排除するならやぶさかでないが、様々な考えに触れ、自分の考えをまとめて行くのが人生でもある。相反する考えであっても、いずれも正しいとする中で、何かひとつの絶対的な答えを探す意味があるのか?真理とは信じるということだと考える。
高畑淳子が正しいとか間違いとか、いいとか悪いとか思いは個々にあろうし、高畑にも高畑なりの思いがある。息子の起こした犯罪の被害者が存在するとしても、息子の唯一の母も存在すると、高畑は正直に述べた。誤解のある言葉は、「言わぬが花」と知りつつ、母親の心情を現した。偽らざる母の思いを世間に理解を求めたというより、素直な表現は彼女の人間性である。
発しなければ起こらない批判を、発したことで浴びるなら仕方がない。計算ずくというより、彼女は自然の人だ。事前に弁護士と協議し、「これは言わないこと」と釘をさされたか、そうでないか、彼女の様子から判断するしかない。とにかく、一つの事柄に100の意見があるご時世なら、いちいち気にするなとの考えもあろうが、公人は批判にさらされた日常を生きる人たちだ。