自分の息子が犯罪を起こしたとき、親はどういう気持ちになるのだろうか?犯罪といっても、その種類も度合もいろいろだから、殺人もあれば窃盗もあり、傷害もあれば誘拐もあり、そして今回のような婦女暴行や強姦致傷もある。さて、高畑淳子の息子の犯罪容疑は、傷害致傷のようだ。確定しないから容疑だが、本人も罪を認めており、あとは被害者との示談と量刑だ。
情報化社会の昨今ともなれば、芸能人や有名人の起こした事件に向けて、各方面からさまざまな発言があるのは当然にして、また人の数だけ意見がある。人の不幸は蜜の味とばかり、知った口を利く人もいれば、相手の不幸を慮って口を閉ざす人もいよう。自分は高畑の謝罪会見を見ていない。見る機会も時間もあったが見なかったし、見る気が起こらなかった。それはなぜ?
息子の犯罪に対して高畑は、ただただカメラの前で頭を下げればいいだけで、それが自分に分かっているならわざわざ見る理由もない。会見場ではさまざまな質問が飛ぶだろうが、質問は高畑淳子と息子という親子に関するプライベートな問題で、それを聞いてどうする?「息子の事件をどう思う?」と聞かれ、「バカなことをしたというしかない」と答える以外、何がある?
芸能人にプライバシーはないというが全ては母子の問題だ。「どう躾た?」、「甘やかせたのでは?」などと言われようと、一切は済んだことである。昔に遡って躾を責められるなら仕方がない。「甘い」と言われるなら詫びるしかない。何を問われ、何を言われようと、それらのことが、息子の起こした犯罪に関係のあるなしは分からないが、可能性は否定できない。
だから謝るしかない。逆に息子が賞を取った、何かの栄誉に輝い場合でも、親は引っ張り出され、称賛の言葉をかけられれば喜ぶしかない。会見とはそういう場である。いずれにしても、あることないことをウジウジ掘り下げられる場なのである。高畑は問われたことについて、的確な答えを出せないこともあろうし、あの場ですぐに即断できないような質問もあろう。
そういう場合は返答しないか、もしくは想像で答えるしかないし、そういうことさえ強いられる人民裁判のような場所であろう。そういうものを見る気が起こらない。おそらく高畑は想像や憶測で口を開くしかないだろうし、そうかどうかは見てはないが、そうであったらしい。誠実な対応だったというが、何が誠実かはともかく、問い・質問に正確に答える場ではない、鬩ぎを受ける場だ。
母と息子と、一蓮托生の関係にあって、だから高畑は息子の罪を詫びに現れた。それが分かっていて、そういう母を見たいものだろうか?だから見なかったし、見たいと思う人は見ればいいよ。こういう質問があったという。「(息子の)性癖に関して気づくことはなかったか?」、「性欲が強いとか、性的嗜好がおかしいとかは?」。これらに高畑は、以下のように答えている。
「男の子というのはこういうものかなあ、というぐらいのことしかない」。それはそうだろう。女である母親は、息子の思春期時期の性衝動や、その後の性衝動や度合いなど分かるはずがない。自分の娘の性衝動について問われても、まったく分からないというのが父親の感想だ。会見場に押し寄せたマスコミ・メディアの業界人は、母親にも分からぬことを聞いたりの図式である。
そういうバカさ加減が想像できる。確かに息子は刑事罰を科せられる犯罪行為をしたが、その原因や理由を母親が知るとでも思うのか?と、それが事実であってもそのように言い返せば、高飛車な物言いといわれるのか?分からないものは分からないし、「兆候は?」などと言わせようとするが、母親が息子の性について、性衝動について分かると思ってるのかボケ!
それら以外においても、親が子の何ほどを知ると思っているのか?浴びせられるであろう愚問を想像するだけで腹が立ってくる。自分のやったことならともかくも、芸能人の母親は、息子のことに問いただされなければならないのか?それが芸能人の母親の社会的責任なのか?子どもの責任は、重々親として責任を感じているだろう。芸能人であってもなくても親は親だ。
自分はこの一件をブログに記したが、その内容は、「息子は愚かなことをしたな?」である。犯罪行為者を、「愚か」は当然として、「愚かな母」の思いはなかった。言及したところで仕方がない。言うまでもないすべての親は、愚かな子どもにしようと育てるのではなく、それでも親は子に間違った言動を与えることもある。後にその子が刑事犯になったときは、「悪い親」となる。
詳細は分からないが、そういうレッテルを貼られるのはしょうがない。意思の疎通が強く、仲のよい素敵な親子であっても、事件一つで、「悪い親」となる。もちろん、「悪い子」となる。レッテルはそういうものだ、と記事に書いた。息子は被害者勤務のビジネスホテルで、被害者の予定表を把握していたというから、計画性はあったろうし、この女とやりたい、と思ったのだろう。
にしても、部屋に用事で呼びつけていきなり覆いかぶさるか?これはあまりに短絡過ぎる。自分はその状況を考えてみた。歯ブラシを所望し、部屋にこさせたとし、下心があったとしても、そんな突飛な行動をせずに、普通ならそこで談笑なりして機会を伺う。が、相手は部屋に長居はできない従業員。一人で切り回しており、すぐさまフロントに戻らねばならない。
だから飛びかかったのか?理解できないが、そういう短絡的な行動をする人間は、そういう性向だというしか言いようがない。後は、従業員が抵抗せず、受け入れるという独善もあったかも知れぬ。そういう男なら前例もあるだろう。「女は押さえつけたらおとなしくなるもの」などと豪語する男はいるが、そういう経験から出た言葉もしくは、書物からの知識の場合もある。
とかく「女は○○」、「男は○○」といった決めつけ論は、例外があることなど頭にない、決めつけバカである。マニュアル世代は得てしてこういう信仰があるようだ。たしかに、そうした「HOW TO」本の蔓延は否めない。否めないが、妄信して実行するのはリスクを考慮しないバカである。事の成り行きが刑事事件に当たる行為なら、"問答無用のバカ"というしかない。
高畑祐太がその種のバカで、淳子はその母親であったに過ぎない。息子がバカなら親も同質のバカといえず、親が賢いから子も賢いと言えない。が、バカを行為した息子の責任を親が感じるなら、子どもに変わって謝罪をするのは自然である。ただしこれは日本的な行為で西欧にはないが、「あんなバカ息子は親として縁切り」という親もいた。女優の淡路恵子がそうだった。
地方公演で不在だった都内の自宅に、窃盗に入った元夫萬家錦之助の忘れ形見の四男を警察に通報した。あげく記者会見の場で、「立ち直らせるため何としても逮捕してほしかった。もう2度と会わない」と、涙の絶縁を宣言をした。警察は家庭内の問題として穏便に済ませる予定だったが、淡路が厳罰を求めて刑事告訴をしていた。息子は事件から6年後に自殺した。
その時の経緯を淡路の事務所社長はこのように言う。「警察から電話が入り、淡路の代わりに私が警察署に行きました。『家庭内の問題だ』という警察に対して、『とにかく逮捕してください』と朝までずっとお願いして…。それが淡路の意向でした。仕事で署に来られない淡路が、電話口から署長に逮捕してほしいとさらにお願いして、ようやく逮捕に至りました。」
その時淡路は事務所社長にこう言ったという。「女優は、子供なんて産むもんじゃないわね…、向こうに(あの世)にいったらサトちゃん(四男)をひっぱたいてやるの」。(どうして親より先に逝く親不孝をするの)、そういう怒りと、今度こそ母親として、子どもをちゃんと叱り、育てたい、そんな淡路の愛情表現だったのか。名は忘れたが、子どもを作らない女優の次の言葉が印象的だ。
「女として、母親として、子育て以上に大事なことがありますか?それがまともにできかねる仕事に従事して、できないと分かっていて、子どもは作れません」。昨今は子どもを他人に預けても女性が働きに出る風潮が定着した。男がだらしなく、ダメになったのもそのことに関係はある。男と言うのは本来依存心の強いダメな生き物である。女が稼げば男は働かない、そんな生き物だ。
男をまっとうな、男らしい男と持ち上げ、繋ぎ止めておくなら、責任を持たせて依存する、あるいは、家族の命運を縛りつけておくのが賢明か。所詮男はヒモになって遊んで楽して暮らしたいというだらしのない性向。男女の違いはさまざまあるが、基本的に女は環境と自分を同一視する。一般的に男はだらしなく、女は部屋をきれいに片づける生き物である。例外もあるが…
「部屋が汚い=こんな乱雑な女だと思われる」という思考が働き、だからキチンと片づけなければいけないと思う、そのことが環境と自分の同一視である。しかし男は、「汚いのは部屋であって、自分ではない、自分と関係はない」と、環境と自分を切り離して考える。だから、部屋が汚れていても平気である。では、部屋が汚くても平気な女性は?答えはただの自堕落女。
なぜ自堕落になった?親が躾をしなかったからである。「あなたは勉強だけしていればいいの」などと育てられた女性は、女としての確たる良い部分が育まれなかった。昔から手さき指さきを使った女の子らしい遊びがあったが、今はそれもない。自室を与えられ、部屋にこもって親が立ち入れば不機嫌で口も利かない。怖くて子どもを叱れない親はそういう態度を容認する。
男女の違いを科学的にみれば脳回路が異なる。女性の思考は男性に比べて、右脳・左脳の交差する回数が格段に多く、一度に多くのことを同時に考えることができるが、男は一つのことに考えがいってしまうと、それに集中して他のことが考えられなくなる。したがって、女性は仕事と家事を同時にこなすことができるが、男は仕事を始めたら仕事にしか思考が及ばない。
テレビ見ながら新聞は読めない自分だが、女性は電話しながら別の細かい作業をやったりする。男の集中力と言えば聞こえはいいが、取りつかれたように一つことに邁進する。よって、天才は男の領域である。天才にもなるし、ズボラにもなるが、女性はやはり、几帳面で身ぎれいで綺麗な部屋にたたずんでいるのがいい。環境の美しさが女性を映えさせる。