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「息子の犯罪」 高畑淳子

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高畑淳子という女優はイメージだけで言うと、"いい人"っぽく見える。我々が女優や芸能人を判断するにはイメージしかない。会ったことも、口を利いたこともない芸能人は、身近な人間を判断するのとはまるで違う。そういえば国民的女優と言われた吉永小百合も、イメージ的には何ら否のうちどころがない、日本一の清純派女優と言われた。そんな彼女の元親友が暴露本を出版したのが三年前。

読んではいないが、「奔放で多情な彼女の真の姿をみつめるべき」と言うのが、著書の真意であるらしい。女性を、「多情淫奔」と定義する言葉はあるが、吉永は、「多情奔放」であるというが、「多情奔放」が悪いことなのか?我々は彼女の、「奔放で多情な彼女の真の姿をみつめるべき」なのか?であるなら、なぜそうしなければならないのか?著者は中平まみといい、映画監督中平康の娘である。

作家という肩書は、1980年に『ストレイ・シープ』で田中康夫とともに文藝賞を受賞して話題となった以後である。自殺未遂や躁鬱病を体験し、『狂躁の日々』、『囚われた天使』にその体験を描いているといい、2013年には、「1991年当時、猪瀬直樹と不倫関係にあったと、「週刊文春」に暴露している。もちろん、金を貰ってのことだろうが、金のためなら何でもやるという言葉が彼女にはお似合いである。

中平は吉永を多情で奔放といい、吉永のロマンスの相手として、「噂」が報じられた相手は山本學、山本圭、浜田光夫、中尾彬、加藤剛、石坂浩二、渡哲也などであると中平は言う。どの程度の噂か定かでないし、親友の中平に、「○○さんが好き」と言った程度を多情というのか、何をもって多情というのか不明だ。こんなことを独りよがり的に言ったり、書いたりするような女に、ロクなのはいないだろう。

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多情奔放であれ、結婚後は貞淑な妻で、浮いた噂もないなら別に問題はなかろう。中平は吉永ネタでひと稼ぎしたかったのだろう。作家は他人の悪口など書かなくても、もっとイマジネーションを燃やしたら?と思うのだが。吉永小百合のいい人ぶりは、変わることもないが、高畑は今回の息子の事件でどうなるのか?イメージが商売道具の芸能人に、身内の不祥事は個人的にも営業的にも打撃であろう。

息子の犯罪ということで、高畑が問題になるとしたら母親としての彼女の在り方で、今後はこの問題でいろいろ嗅ぎまわれるだろう。親は子の見本であるなら、いい親からいい子ができるのは本当か?「できる」とは産まれるではなく、生まれる(育つ)を意味する。親は子を映す鏡とか、子は親の背中を見て育つとか、とかく子どもの成長における親の存在の大きさについての慣用句や諺はそれこそ腐るほどある。

高畑淳子がいい人であり、いい母親かどうかは知らないが、今回の記者会見の応答姿勢を見ても、いい人のように見えた。いい母親かどうかについては、基準も曖昧で定義が難しい。いい母親が難しいように、いい父親も、いい子どもという定義も難しい。何についても、「良い」、「悪い」ということ自体、難しいといった方がいいし、「善」と「悪」の境目も難しい。

「いいものはいい」、「よくないものはよくない」などと簡単にいうが、「いい」、「悪い」は主観であろう。ならば、「主観的」ということ自体、悪いことなのか?しかし、主観と言うのは人の数ほどあるのではないか?自分は別に主観が悪とは思わない。他人から、「それって主観的だろ?」と言われたら、「当然だろ」という。要は主観の根拠を述べられるかどうかである。

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「何でそう思った?」と問われ、「分からないけど、なんとなく」では答えにならない。「お前の主観はその程度のものか?」と言われても仕方がない。主観には、「その程度のもの」も、「なる程的な説得力あるもの」も、ある。それに対して客観的とは何であろうか?客観とは主観の反語で、主観よりも重視される、評価されることも多いがそれはなぜか?

要はマジョリティってことか?主観がマイノリティ、客観がマジョリティというイメージはある。客観はまた、「社会通念」的なものかもしれない。我々はとりあえず、「社会的通年」を信じていれば社会で生きていける。それが人間社会のマジョリティであるからで、よって、「社会的通年」に反した言動をすると、変わり者、あぶれ者、反逆者などという烙印を押されたりする。

たまに、「世の中なんて信じない」という人間がいるが、そんな人がこの世に生きていけるのか?何かを信じるから安心して生きていけるわけで、何も信じないなら気が狂うだろう。が、「通年」が存在しない場所はある。世間から分断された山奥で暮らす仙人がそうだ。彼には世間という場がない。よって、「社会的通年」もなく、必要もない。もう一つは、「戦場」である。

そこは、「社会的通年」はない。よって、戦場は狂気の世界である。映画『地獄の黙示録』は、ベトナム戦争の狂気を象徴的に描いた作品で、最後にカーツ大佐は、「恐怖だ、地獄の恐怖だ」と言いながら死んでいく。カーツが育った西欧文明とはまるで異なる文明世界に身を置いたカーツが、そこを理解する上においては、人間の原初的感情の、「恐怖」が尺度となる。

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話を戻すが、もし、「いい母親」が存在し、子どもに特化した「いい母親」を定義するなら、世間に顔向けできないような、法も犯さず、誠実のままに育てた子が、親が世を去る暁に「いい親」と定義される。親が85歳で死去したと仮定し、その前年の84歳時に息子が犯罪を起こした場合、世間は84歳まで生きた親をダメ親と烙印を押す。芸能人ならテレビで謝罪もなされよう。

つまり、この世を去るまでは、「よい親」としての油断がならない。自分流の論理に当てはめると、「よい親」というのは、「よい子」を持ったことで得られる称号である。「よい親」から、「よい子」が生まれるのではなく、「よい子」がいて、「よい親」だったとなる。これなら理に適っているが、問われるのが、「よい子」の定義。博士か大臣かになった子どもを、昔は、「よい子」といった。

東大卒の子を、「よい子」というのか?会社を興して社長になった子どもが、「よい子」なのか?世界を股にかけるアスリート、オリンピックのメダリストを、「よい子」というのか?これら「よい子」とは、よい学歴、大出世、お金持ち、有名人、という肩書に当て嵌まるが、そういうものがない、「よい子」もいようし、学歴、出世、金持ち、有名人だけが、「よい子」は間違い。

よい子の定義は人の数ほどある。誰かに問われたとする。「あなたにとってよい子とはどんな子ですか?」それに対して今日の時点で、「自分が心に思うよい子がよい子です」と答える。「それはなんですか?」とさらに問われれば、「自分が心に思うことなので、いいません」という。確かに、自分が思っていればいいことだから、人に言う道理もない、義務もない。

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「よい子」は自分の心に蓋をする。定義は共通のものかも知れぬが、人の数ほど主観があるなら、個人の定義もあってよい。説明できる主観、出来ない主観、説明無用の主観もある。日本人は是非論が好きな国民で、何かにつけて、「是か・非か」を論じる。子ども3人を東大に入れた親は、「よい親」?その子は、「よい子」?そんな定義もない。人それぞれの心に「よい」がある。

基本、他人に関係ない。我が子を東大に入れた親が、我が子をよい子と心に蓋をしておしまい。子どもがその母親をよい親と思ったなら、心に蓋をしておしまい。それでいい。わざわざ本まで書いて人に共感を得ようとの自己顕示欲は無用。同じようにやったら東大行けると本気で思うのか?そのノウハウを知りたい思う人もいるなら本も売れるし、これも情報社会の在り方。

出版を否定はしないが、親子の性格も違う。同じようにできるとは思わないが、やろうとする人はいるのか?とりあえず買うだけ買って、読んでみる親もいるのか?自分なら、「是か・非か」の前に、「可能か・不可能か」を考える。現実の問題として検討すべき事であるのに、ノウハウが大事とは滑稽である。何事も、「可能か・不可能」かを考える姿勢は大事であろう。

思考し、検討し、不可能であるがゆえに諦める、放棄する、あるいは別の手段に移行する、そういう態度こそが重要なのだ。できもしないことをマイナスとし、ノーとするのを自分自身が判断し、納得するという精神の余裕なくして、「可能・不可能」を議論したり、思考はできない。日本人があることを検討し、「それはできないこと」と、相手から指摘されたり、自ら言うのが嫌な民族のようだ。

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これは言葉の文化の問題か?「Yes,I do」、「No,I don't」のように肯定し、否定してその理由をのべる。何よりもまずは先に意思表示し、後で理由を述べる合理的で分かり易い言語体系だ。日本語は最後まで聞いても、意思がハッキリしない場合がある。日本人の曖昧さは言語の問題なのか?生後期から否定、肯定をハッキリいう言語に代えたら違う日本人になる?

さて、高畑淳子の記者会見予定は当初40分だった。約40分が経過したころ、司会者が時間経過したことを告げたが、高畑本人が、「すべての質問にお答えします」と申し出て延長され、64分間、言葉を選びながら謝罪と現状報告をした。高畑はなぜ誠実にカメラに向き合ったのか?おそらく、こうすることが自らに対するケジメと考えたのではないか?隠すことに意味はない。

との自尊心を捨てた。思ったことを言うのはある意味楽だが、遮るものがあるなら、見栄と自己顕示欲。自分を人に良く見せたい、息子を人によく思われたい。かつて曽野綾子はこのように言った。「もし息子が犯罪を犯したとき、世間がなんと言おうと、あたしは、絶対息子がいいと言おうと思っている。子どもが困ったとき、支持できるのは母親だけ。盲目的に支持していい人が他にないでしょう。」

こと子どもについて母親は盲目であるというが、盲目にも節度があろう。曽野の発言は釈然としない。母親とは斯くも盲目的なバカなのか?さらに曽野は、「母親が一番愚かしく、盲目的になってもいい、親は困りものであっていいんじゃないかしら」と肯定する。曽野がどんな親であってもいいが、世間は彼女の独善を認めるのか?曽野にとって、「社会的通年」は存在するのか?

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曽野の言葉を高畑の会見の場にもってくるとどうなる?「息子は悪くありません。相手の女性の方は有名人の息子の行為に、心では了解してたのではないでしょうか?うちの息子が、相手の意思を無視するような、強姦行為などするはずありません。警察はちゃんと調べて欲しい。断じて息子は悪くないことをこの場で申し上げておきますわ。おほほほ…」

「おほほほ」はないにしても、これだけ毅然とできる母親もある意味凄すぎる。母の信念は岩よりも難し。麻縄よりも強し。まともな常識や、社会的通年の所有者では、到底口に出せない言葉を述べる訳だ。が、世間の誰もが曽野綾子を常識のないバカ母と嘆くだろう。彼女はまともな本をイッパイ書いてるが、ああいう持論の所有者の書き物など読む気もおこらない。


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