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逆転、なぜ起こる?

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昨日25日は二つの逆転劇に遭遇した。まずは一つ目だが、中3の孫が部活でバスケットボールをやっているのはここにも書いた。7月23日から始まった区対抗に優勝し、西区第1位として市大会に臨んだ。相手は前年ベストエイトで安佐南区優勝の強豪祇園中学校。やる前から孫の母は、「多分、勝てない」という。朝9時半開始に孫の両親に叔父(母の弟)、祖父母で観戦に臨む。

バスケットの試合はクォーター制で行われ、1クォーターは10分間とし、第1から第4クォーターまで執り行うため、クォーターが4つで計40分間がバスケの基本的試合時間となるが、中学生は1クォーター8分の計32分。クォーター(quarter)は四分の一という意味がある。例えば日本では、父または母のどちらかが他民族、他人種、他国籍の人の場合をハーフと言う。

祖父または祖母がそうである人のことをクォーターという言い方をするが、これはは民族や人種の異なる血が四分の一流れている人という意味合いがある。バスケットにおいてのクォーターは、一試合を四分割した試合区分のことを指す。試合は第1クォーターからスリーポインとがどんどん決まり、終わってみれば18対12という意外な展開であった。これは応援も力が入る。

娘の他の母親と話が弾んでいる様子で、母親連中は声援もどんどん飛んでいる。父親というのは熱い人もいるにはいるが、大体が声を荒げることもなく寡黙に観戦するようだ。第2クォーターは6対8と、どちらも加点の少ないゲームであり、同じく第3クォーターも11対10と接戦となる。これは互いにディフェンスが出来ているということで、なかなかシュートが打てない。

この時点で、孫の観音中は35対30とリードしていた。選手たちはどういう気持ちかは分からないが、思わぬ善戦にあわよくば…、という意識はあったろう。むろん相手チームは負けるなど考えてもいないし、応援の声援でいうなら相手チームの方が声の大きさやまとまり加減も勝っている。加点されたときの一体となった応援の質からして、我が孫の中学には精彩がない。

運命の第4クォーターだが、始まる前までは誰も結果を知る者はいないし、観音中学の保護者は(自分も含めて)勝ちを疑っていなかった。が、こうして書いているということは予測ではなく結果を書いているわけで、結果をどのように書くかはライターの資質である。プロ野球にしろサッカーにしろ、ゴルフにしろ、今回のオリンピックの様々な競技においても結果は存在する。

それらは各々ライターにとっての異なる主観で報じられる。結果は一つだが、様々な見方や感想があるのが人間的だ。10年近いブログでこのような記事を書くのは初めての自分であり、一つのプレー、一つの加点に一喜一憂したその過程を結果でどう現すかについては、当たり前に主観的になる。すべてのスポーツ解説者は、個々の主観を述べるが、中継アナウンサーは客観的?

職業的にそうあるべきだが、区分なくなされるのは、NHKのアナウンサーのみといえる。NHKのアナウンサーといえども、相撲にしたって野球にしたって、贔屓の相手はいるだろうが、それをおくびにも出さずに客観的に放送する職業精神は見事であり、さすが公正中立をうたうNHKである。思い出されるのは、1936年、ベルリンオリンピックの「前畑がんばれ!」である。

実況の主は河西三省というアナウンサーで、昭和初期におけるラジオのスポーツ中継番組の実況アナウンスで広く知られていた。女子競泳200M平泳ぎ決勝における河西アナの中継は、まさに放送史に残る歴史的偉業である。なぜなら、オリンピックがナショナリズムを背負い、それをあえて隠すことなく、ほとんど無意識に、また、人間としての人間性が現れていた中継であった。

河西アナは「がんばれ」を13回、「勝った」(含勝ちました)が18回を没我の絶叫として残したのだが、そうはいっても当時NHK東京中央放送局勤務であった。ベルリンオリンピックに派遣されたが、彼は非常に有能で、例えば野球放送中継においても、「河西アナの放送を聴けば、そのままスコアブックをつけられる」と評されるほどの豊富かつ克明な描写で知られた。

公正中立大原則の当時のアナウンサーの立場とはいえ、それでなくとも普段は冷静な河西アナが、なぜあのような放送をしたかには理由がある。海外での長期にわたる中継における疲労の蓄積や、日本の前畑秀子とドイツのゲネンゲルによる凄絶なレース展開などが影響し、普段の冷静さとは一転した、我を忘れんばかりの白熱したアナウンスとなったというのだ。

後に河西は以下の懐述をしている。「「放送席のそばにいた陸上の西田、大江ら(いずれも選手)が、『そーれ、ガンバレ、そーれ、ガンバレ』と声援を送っていたので、俺も一緒になって『がんばれ、がんばれ』とやってしまった」。彼の放送について翌日の読売新聞朝刊においては、「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞されている。

が、「あれでは“応援放送”で、客観的な実況放送とは言えない」、「第三位以下の選手の順位が不明で、スポーツ中継としては“欠陥商品”だ」といった批判も少なくはなかった。いつの時代も世の中は一筋縄ではあり得ないし、すべては個々の価値観、主観の違いである。日本人のアナウンサーが、日本人向けに、日本人を応援して何が悪い?という時代でもなかった。

あくまで客観的使命を請け負うというアナウンサーの制約である。時代は変わったな。NHKはそれほどに変わったとは言えないまでも、それでもこれがNHKの番組?と思わせるものもある。チャンネルを見なければ、まるで民法放送、というような変質。こんにち、ローカル中継放送局のアナウンサーは、プロ野球にしても、それはもう100%地元チーム贔屓である。

つまり、アナウンサーが地元に密着しているのが当然の時代であって、いや、それでこそローカルアナの使命であって、視聴者もアナウンサーの地元チームに対する贔屓的なコメントを聞きたがっている。それほどにテレビ(ラジオ)は今、ローカル主体で成り立っている。全国区もいいが、地方区を主体にした番組作りが、放送そのものを変質し、功をあげている。

孫の試合についての記事が飛んだが、もちろん祖父である自分は孫の学校贔屓である。が、負けには明らかに理由があった。第4クォーターに入ると明らかに孫のチームは委縮し、相手チームの動きが一段と増した。第3と第4のインターバルの間、選手以外に大きく変わったのは、一段と増した声援の大きさと一体感もあった。コーチが授けた激や作戦もあったのだろう。

さまざまな要素が選手にポジティブな何かを与えるものだ。また、選手の声も増した。勝負というのはスポーツに限らず、目に見えない何か大きなものに左右されることがある。それを「流れ」などというが、「流れ」もまた、様々な要素の構築である。将棋を指していて、圧倒的必勝だったものが、気づいたときには差が縮まったどころか、目を疑うほどに覆っている。

その理由として、ハッキリいえるものは、勝っている側の慢心と、負けている側の執着心の差である。分かりやすくいえば、勝っている側は従来の気持ちであったとしても、負けている側に必至感が猛烈にあると、その気持ちに圧倒されることもしばしばある。10:1くらいの差があるにも関わらず、決して諦めることなく、頭に金が乗るまで誘うという姿勢を貫く相手。

そういう相手に接したときにこちらは、「何で投げないんだ?そんな勝ち目のない将棋をなんで執拗に差し継ぐんだ?」と、自分はこういう性格である。だから、その反対に投げるのも早いし、勝ち負けを自分で判断するところがある。いわゆる戦中派という人たちは、恐ろしいほどに勝負を諦めない。一度聞いたことがある。「これはもう逆転はないのではないですか?」

する相手は、「なになに、これからだよ」と、その言葉を耳にした自分は、正直驚いた。その方は76歳だから、1940年生まれの戦中派で、終戦時は多感な10歳の年齢である。当時は鬼畜米英相手に、「欲しがりません!勝つまでは!」のスローガンがこの国に充満していた。そうした戦中派の勝負を投げない加減が将棋にも現れているのだろう。つまり、「絶対に負けませんよ」である。

こういう人たちだから敗戦後の復興がなされたのだろうと、敬意さえ抱いたものだ。「戦後」という言い方をする。「戦後」とは「戦争後」ではなく、「敗戦後」の意味であろう。負けると信じて疑わなかった神国日本が負けたことを、当時の子どもたちも大人も驚きを隠せなかったという。自分たちは皆殺され、焼き捨てられると考えたように、敗戦という未知への不安。

当時の日本国民の心情は推し量る以外にないが、我々戦後生まれにはない頑張りは戦中派にあるのは間違いないし、立派である。が、自分たちが負っている時代観、世代観とでもいうのか、真似はできない。立派と言うからには見習うべきだが、我々はあまりに淡泊である。1:10で勝ち目のない将棋を頑張る気力はないのだ。そんな我々を戦中派は、「ダメだなこいつら」であろう。

先人たちの労苦の賜物である「高度経済成長時代」の恩恵にあやかって、甘えて生きているに違いない。よくも悪くも人はその時代にしか生きられないのだ。戦中派の人たちの粘っこい価値観は、逆立ちしても我々に身につかない。さて、昨日のもう一つの逆転は巨人軍 - 広島カープの試合である。テレビ中継はあったが、前半の3回で4点入れられた時点で自分は見ない。

いつもの如くで、それでもうダメと見切るからで、応援するなどという気持ちはない。勝ってる試合は気持ちよくみるが、負けてる試合は見る気が起きない。こういう性格って自分でもよくわからないが、ファンという気質ではないのだろう。どうせ見るなら気持ちよく見たい、イライラしながら見る意味はないという合理的感情なのか。さて、結果はと10時くらいにネットを開く。

「へ~、勝ってるわ?」とビックリ。なんとなんと、9回2死からの大逆転というから、「観ればよかったぜー」、とちと後悔。観れば感動を味わえただろうに。「スゴイぜ、スゴイ、スゴイ」と、まあそこそこ喜んでいるが、負けても「負けたか!」という程度で人生への影響もない。が、野球結果に一喜一憂する人にも尊敬を抱ける。なぜにあれほど執着できるのか?

今年こそはの優勝を目前に、選手の執着心、粘りが功を奏したのか。ならばそれとて「逆転の論理」である。とはいっても、今回の3連戦の第1戦の、あの残塁の山。ことごとくチャンスをつぶし、延長10回の裏に一発でて逆転だ。野球なんて、まさに徒労の山である。我々は結果に一喜一憂すれば、それで罪はなく、精神衛生上問題ない。艱難辛苦のゲームは観るのが疲れる。


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