オリンピックが終わった。「祭りの後の淋しさ」という表現がいかにも相応しいが、いつまでも浮かれていては何事も成り立たない。オリンピックの度に4歳年を重ねるのは誰も同じだが、その間に生を終える人もいることを思えば、4歳年を重ねたことは喜ばしい。命が湯水のように感じられたころには、5年先、10年先に命が長らえているかどうかなど、考えたことすらない。
子どものころの記憶だが、それは小学校の図書室だった。皆が昼の休みに校庭にでるが、自分は図書室に直行した。そこは知識の宝庫であったのは言うまでもない。図書室では図鑑をみるが、図鑑の種類の多いこと。図鑑が子どもの好奇心を高めないわけがない。ある図鑑を見ながら指折り数えると、その日は30年も先のことだったが、「早く年を取りたい」と願った。
自分が待ったその年は1986年だった。「早く1986年がこないか」と念じたところで、子どもにとって一年は長い。同じ一年でも大人と子どもの一年は違う。これほど一年が早いと、誰もが大人になって感じること。子どもにとって、クリスマスやお正月が来るのがどれほどゆっくりであったか…。今の子どもと違って昔の子どもは、お正月にならないとまとまった金は手にできない。
そのお正月が来るまで、何年かかるかというほど長かった。じっとしてれば時は経ち、慌てたところで早くは来ない。そして遂に、待ちに待った1986年が来たが、なんとも子どもの夢を壊した1986年だった。こんなのが自分の描いたハレー彗星であるはずがない。図鑑で見た1910年に撮られた「ハレー彗星」、あれは何だったのか?それほどに失望したハレー彗星であった。
待って損をした、年を取って損をした。そんな思いと閉ざされ気味の心をよそに、早朝子どもたち全員を起こし、海岸まで観測にいったが、1986年2月9日の大接近は、有史以降のハレー彗星の出現の中で、観測に最も不向きといわれていた。どんな風に見えるかは日毎の接近情報から事前に分かっていたが、子どものころの思いを実現するための行動だった。
正直見えなかったといっていい。見えないものをがんばって観に行った。自分たちの子どものころの星空はいまはない。文明の公害は光害となって星を消した。今の子どもたち、特に都市部の子どもたちは夜空を見上げることはないだろう。最も、光学望遠鏡から電波望遠鏡に進化したが、それは国家的なプロジェクトで、アマチュア天文ファンにとって光学望遠鏡は必須である。
見えないハレー彗星を追って帰り道、「それでも76年周期の中に生を受けたことは幸せだった」と慰めもした。1910年大接近の前は1835年だった。この年に生を受けた小説家マーク・トウェインは、「私はハレー彗星が空に掛かる頃この世に生まれた。だから私は、ハレー彗星と共に旅立つのだ」と言葉を残し、その通り彼は、1910年の回帰時にこの世を去っている。
人間は自分の死を予見できないばかりか、トウェインのこの言葉は早くからの予見であれば、なんとも不思議である。さて、東京オリンピックまでは生きているような予感もあるが、それなら楽しみでもある。1964年の東京五輪よりも、数段と楽しみである。あの頃はオリンピック後に、ヘイズ、円谷、三宅、遠藤などの名前を知ったが、今回は次回のホープの名を数人知っている。
北京もリオも閉会式は見事であったし、さぞや東京はさらなりであろう。閉会式で安倍首相がスーパーマリオに扮して登場した。マリオでもポケモンでも別に日本のキャラということだったのだろうが、アトムは古いし、ゴジラの着ぐるみというわけにもいかないし、マリオなら無難だろう。それに対して口幅ったいマツコが、「恥ずかしいんだったらやるんじゃないよ」と言ったようだ。
くだらん発言をメディアは伝えなくていい。羞恥心の欠片もないバカが、当たり前に羞恥心を醸す人間を批判するのをなぜメディアは批判しない?ヘンてこ衣装でCMにでるタレントが、一国の首相を同列に見るバカさに腹も立たぬが、即チャンネルを変えるほど彼はCMが多い。今の日本は普通の人間より、イロモノ尽くしが主流のようだ。彼が愛される理由がよくわからない。
分からぬ物もあっていいし、恥ずかしいけどやってみることも必要だろう。「恥の文化」の日本にあって、羞恥の無さ、羞恥の消滅こそ問題である。さてと、例によってメダルを取れなかった、あるいはメダルの色が違ったことで、謝る日本人の姿は目立ち、それに対し元アスリートの為末大が、「日本選手はなぜ謝るのか」と異議を唱えたが、このことは一考に値する。
彼はこのように分析する。「負けた原因を分析したら言い訳と批判され、純粋な感覚を表現すれば負けたのにヘラヘラしていると言われる」。今回はマラソンの福士加代子が競技後の応対を批判された。「選手にとっては競技をすることが一番大事だから、変なことで社会から反感を買いたくない。結局、一番問題が起きにくい謝罪一辺倒の受け答えになる」と為末はいう。
「変なことで社会からの反感」の意味はよく分かる。その暗黙の「圧」が日本人を謝罪好きな国民にしているのではないかと。自分のための競技、自分のための練習、自分のための目的であるはずなのに、常に他人を念頭に置いている日本人。為末もこのように言う。「一体どの程度の割合で批判をしている人がいるかというと、私はごく少数ではないかと考えている。
私も含め多くの人は挑戦自体が素晴らしいし、一生懸命やってきたのは自分なんだから、自分の気持ちを素直に出せばいいと感じていると思う」。ミッツ・マングローブも少数の批判派なのだろうか。彼は、レスリング女子53キロ級決勝で敗れ号泣した吉田沙保里について番組で、「シラけた」とコメントし、そのことでミッツに対する批判がわいたことを改めて謝罪した。
「これは、非難されてしかるべき発言だと思います。申し訳ありませんでした。」とし、「誤解を生む・生まないとか、真意として、何に対して『シラけた』かを弁解する以前に、表現が稚拙で、無粋で、失礼です」と、真意がどうあろうと言葉として不適切だったと反省の意を示したが、これは違うな。これすら、「とりあえず謝っておけばいい」という安易な謝罪とみる。
発言の真意を言ってないし、言おうとしないし、言わなくても許されるということだろうが、自分は認めない。動機には、「意図」と「理由」があるように、むしろ彼は発言の真意 (意図と理由) を言うべきである。それを言えばさらなる問題が膨らむからか、表面的な謝罪で済まそうとする。これが日本人が容認する社会観であり、いわれるところの、「タテマエ」重視の世界である。
「そんなんじゃダメだ。真意を言えよ。思うところをハッキリ言ってみろよ」とはならず、これで手打ちが可能な人間関係である。人間は誰も善人ではない。ならば、人間は「良心」だけで生きてないし、良心はあったとしても、良心には限度がある。良心を否定するような行動をはじめた人間が、すべて悪人とは限らないし、そういう人の方が一般人よりはるかに良心的だったりする。
つまり、世間で言うところの良心的であろうとし、良心を繕うことに邁進することで、良心の限界を知った人。誰よりも良心的であろうとした人間ほど、良心的であることの苦しみや難しさを感じ、悩む。そうした人間にすれば、良心的なことをぬけぬけという人間は、「何を気取って言ってるんだ?」と感じるかもしれない。口には出さないが、批判は当然にして芽生える。
あえていえば、人の気持ちを踏みにじる人間の中にこそ、人の気持ちを本当に大切にする人間がいる。メダルを取れなかった、期待に答えられなかったことで、ペコペコ頭を下げる理由にはどこか嘘がある。つまり、そういう人の内面に立ち入ってみれば、案外と傲慢なものをもっているのではないか。他人にペコペコして何の主張もしない人間にこそ傲慢人間は多い。
為末は、「謝る必要はない」というが、謝る人間と謝らない人間がいることが問題で、西欧人のように皆が謝らないならともかく、謝る人間が印象がよいなら、謝らない人間は批判される。そこのところが問題で、彼のいう理想は実らない。ストイックに練習に励む人間は、その代償として自らに傲慢であっていいが、外野の人間や、ファンというのは当事者以上に傲慢である。
福士加代子や吉田沙保里が試合に負けて泣こうが、笑おうが、どういう態度を取ろうが、何を言おうが、発露したものが彼女たちのその時の気持ちであって、なぜ選手の気持ちを尊重しないでガタガタいう?それを傲慢と言わずして何だというのか?つまり、くだらないコメンテーターをスタジオに呼ぶから、彼らは何かを言わなければならず、言ったら言ったで問題になる。
日本のテレビのあり方として、芸能人やタレントを呼んで並べてコメントなんかを求め過ぎで、ハッキリいって彼らは無用である。呼ばれて黙っているわけにはいかない以上、くだらんことを言う。視聴者はタレントの主観を聞いてみたいのか?ミッツやマツコに何かを言わせ、局もそんなイロモノ衆に発言させることが視聴率に寄与するというなら、テレビは死んだも同然。
タレントすべてがコメンテータという現象は止めるべきだ。最後にSMAPについて。解散はいいとしても、グループ解散で謝罪するのも日本人の専売特許。解散に至った原因を言うなら言う、言わぬなら言わない。謝罪は無用、それだけでいい。キムタクが自分だけいい顔してるのは、状況から見て明らかで、男の集団で(女でもそうだと聞く)、"自分だけいい子"なんかやってられん。
解散発表後は、それぞれが思うところを述べているが、キムタクがどうのこうのとは誰も口には出さない。周辺はあれこれいうが、中居も香取も稲垣も草も言ってない。そんな中、解散の元凶とされた木村だけが、「自分自身は変わってない」と述べたのは、自己弁護とも取れる。「変わってる」、「変わってない」を自分が言うのは構わんけれど、ちょっと筋違いでは?
なぜかといえば、そんなのは他人が感じることで、自分が自分をどう思ったところで意味はない。当然ながら、木村なりに自己正当化の理由があり、彼から見れば自分の行動は悪くないし、メンバーに不満を抱いているハズ。そういう人間は得てして浮きやすい。メンバー存続に尽力したなどの自負が逆にチームやメンバーと軋轢を生むなどは、社会においていくらでもある。
人間に飼いならされた犬は飼い主に従順である。自らの本性を忘れて飼いならされているに過ぎないが、同じ飼い主が4~5匹の犬を飼えば、犬同士間では不満や軋轢が生まれる。ただ、そのことはさして不幸ではなく、自らの本性の変化に気づいた方が、はるかに不幸であろう。あらゆるものを知らないで済めば、その方が幸せだったりする。だから木村は自身の変化に蓋をする。
さらに昨日は妻の工藤静香が姉さん女房らしさを発揮し、「みなさんの想像とは違うと思いますが…」と、庇った。身内が何をいうのも違反とは言わぬが、まあ身内は身内であって、何をもって、「みなさんの想像とは違う」なのか、身内がそれをいってどうなる?キムタク一人が悪いとは言わないが、メンバーが彼を嫌ってるのは事実だし、好きだ嫌いはメンバーの感情だよ。