子どもは甘いものが好きだ。チョコレートにクッキー、アイスクリームにケーキ、といった甘いお菓子にジュース類などで、それにはちゃんとした理由がある。食品の旨味は舌にあるといわれ、確かに味覚神経は舌にある。が、味覚神経は舌以外にも喉や頬の内側など、口の中全体に存在する。よって、食べ物は舌で味わうのではなく、口の中全体で味わうのが正解のようだ。
「喉越し(のどごし)」という言葉がある。ビールのCMによく使われるが、言葉の意味は、「飲食物がのどを通っていくときの感じ頃」と、キリンの研究員さんの発言は飲料に限定されていない。「酒が飲めない人間には、あの喉ごし加減は分からないだろうな」とビール好きはいうが、確かにビールのイッキ飲みはゴクンゴクンと、その音からしていかにも喉で飲んでいる。
「バカいっちゃいかんよ」、ビールでなくても自分は日々その喉ごし加減とやらを味わっている。炎天下のウォーキングで、自宅まであと数kmくらいになったときは、頭の中は愛しの炭酸飲料の喉ごし加減を想像しただけで至福感に満たされる。途中、コンビニや自販機がオアシスになることもあるが、常用の炭酸飲料はどこにもないので、余計に至福感が増すことになる。
せっかちな自分は、玄関から小走りに冷蔵庫に向かい、それを立て続けに二本を一気に飲む。炭酸が喉をチクチクと刺すその痛さが、ウォーキング後の何よりのご褒美である。仕事の後のビールが美味いように、また、ささやかな支えであるように、炎天下のウォーキングにもご褒美・支えはあった方がいい。歩きながらふと、「何でこんなことしてるんだ?」と思うことがある。
快適な室内でオリンピックでも観戦すればいいものを、何をすき好んで外を歩くのか?人は苦しい時にネガティブなことを考えてしまう。熱中症で倒れてもシャレにならないので、気くばりはするけれども、それでも灼熱の太陽に照らされるのは防ぎようがない。数日前、久々に50000歩に挑戦してみた。2月に尿路結石が排出されて以降、歩く距離がダウンしたようだ。
アザミの時節も過ぎ、夏ともなれば暑さに無理はよくない。4月19日に52763歩という数字を出して以降、20000歩台に落ち着いているが、久々、体が50000歩を要求した。地元の人間なら分かる50000歩ルートを気分を変えて逆走したが、途中で頭クラクラで、靴を脱いで川に入り、足を冷やし、腕を冷やし、さらには頭から水をかぶり、西広島駅までが限度と悟る。
西広島から電車を利用して帰路についたが、歩数は42452歩、走行距離28.867kmで、歩行時間は335分であった。多少の無理は若さゆえのバカさであり、己を熟知する年代となれば、無理が無意味であるくらい分かっている。50000歩を達成できなくて電車に乗るなど、かつての自分なら敗北であったが、今はそんな考えにならない。「一言」より「柔軟」を優先させている。
無理をする人間は、責任感が強い。責任感は大事だが、無理をして体を壊しても言っていくところはないのだ。仕事で無理がたたって過労死や自殺の報に触れるが、今の日本には精神論よりも、自己責任、自己管理の重要性を説くべきであろう。己の痛みは他人には分からないから無理を要求されるが、痛みが他人に分からない以上、自分がキチンと管理すべきという考えに修正すべき。
自分を偽ってまで他人にいい顔をしたり、他人に尽くすこともない。これも新しい日本人を造る「自己責任」の考えである。「無理」は度合であるから、他人の無理と自分の無理は必然的に異なる。無理を無理と思わないがんばりが破綻をきたすようだ。無理か無理でないかを自らに照らして判断するのは、気持ちの兼ね合いもあって難しいが、素直に判断するしかない。
過去を振り返れば、"あの時はかなり無理をしたな"もあれば、自分的には何ら無理をしていないのに、"そんなに無理をしなくていいよ"と他人から言われたこともある。それはまあ、仕方がない。他人のことを自分の主観で判断するわけだから…。自分は以前から自分の事は自分で判断するとしたこともあってか、他人から「無理するな」を余計なことと捉えていた。
「優しい言葉」、「気づかう言葉」かもしれぬから、「大丈夫」などと返すが、腹の中では、「自分の事は自分で判断するよ」。余計なお世話とまでは思わないが、男同士にこんな言葉は無用である。「無理しないで」、「気をつけてね」というのは女に多い。女は、女同士の淡い人間関係だからこそ、この手の言葉をよく掛け合うし、それをそのまま男に持ってくる。
男には必要ない。こんな言葉をかけられて喜ぶ男は少ない、男には黙っていればいいし、母親の小言ではないんだから。あまりにそういう言葉を言う女がいた。いちいち、「気をつけてね」、「がんばってね」などというので、「気をつけない」、「がんばらない」と返すようにしたら言わなくなった。男の天邪鬼気質を理解したのだろう。まあ、自分がさせたのだが…。
今さらながらだが、多くの面で男と女は違う。女の優しさとは言葉よりも、黙って心で祈る優しさである。つまり、女は本質的に夜叉かもしれない、だから表面を優しく演じる部分がある。自分の過去の経験において、女の本当の愛、優しさというのは、これ見よがしな言葉を男にかけない女である。愛情や優しさを安売りしない女にこそ、本当のものが存在したようだ。
男は基本は、「leave me alone」だから、ほっとく優しさが大事。最近のマザコンボーイが、女のちやほや言葉にかまけて、女性化しているようだ。放っておけば成長する男の子に、女性的なものをあまり吹き込まぬ方がいいし、男の子は突き放して育てるべきだ。近年の若い母親は理知より、目先の感情を大事にする。ほっといて男になれない男はどこかに問題がある。
表題は最初に決めて書かない。表題に縛られたくないからで、心に浮かぶことを浮かぶままに書く。兼好法師のセリフだが、作為を排すれば本来はそうなろう。学術論文ではないし、読書感想文でもない。いつだか映画のレビューを(ちょっとだけ)書いたら、「これがレビューなんですか?」と叱られた。叱られてこっちも驚いたことがあった。このコメントは記念碑と思っている。
「僕がいままで見たなかでもトップクラスの駄作レビューでした。途中からよくわからない政治の話が出てきたり、最後は謎の命令口調で締められたりと、結局なにをどう伝えタイのかさっぱりでした。」
あまりに率直、あまりに正直、そんなコメントである。これだけ素直に表現された文章には見習うものさえある。修飾したり、嘘の多い中で、斯くの生き生きした言葉に出会う感慨。まあ、大人になるということは汚れることだ。社会が汚れ、人が汚れ、そういう世の中に遭遇するからで、だからか、子どもと話すと洗われる。子どもの遊ぶ姿さえをみていて飽きない。
二度と子どもに戻れないが、子どもに寄り添い、子どもの心に触れるとき、大人の汚い世界から解放される。心ある大人は誰も子どもを愛するだろうし、子どもに関する名言は多い。さまざまあるが、一番好きなのは以下のプラトンの言葉。「真理は子どもの口から出る」と、彼がいうように、子どもの言葉は怖いほどに正確かつ真実である。これを無垢というのだろう。
「母が何かから解放されると、子どもも解放される」。この加藤諦三氏の言葉も現実を捉えている。あまり一つことに執着しない父親は、子どもを広い視点で眺める。あれも大事、これも大事、社会に照らしながら子どもを捉え、実際において社会は多くの大事で成り立っている。自分も昔は子どもであったが、「これだけが大事」という母親の奴隷にならないで正解だった。
昔のことは覚えている。コーラが日本に上陸したのは1919年の大正8年で、本格的に普及したのは1964年の東京オリンピック後であった。はじめて飲んだコーラは何時、何処でだったか記憶にないが、あの不思議な味は記憶に残っている。炭酸飲料と言えば、それまではラムネとサイダーだった。いずれも炭酸ガスに砂糖を加えたものだが、較べてコーラは大人の味だった。
砂糖に飢えていた昔の子どもはジュース大好きで、当時の高価な砂糖に代えて、サッカリンという合成甘味料を代用したが、サッカリンは発がん性物質とされた。1970年代に実験室のネズミで、サッカリンと膀胱がんの関連性が指摘され、米議会はさらに研究するよう命じると共に、1977年には、FDA(米国食品医薬品局)が人工甘味料としてのサッカリン使用を禁止した。
その後の研究で、ネズミでのがん発生は人間に当てはまらないと判明。1991年にFDAサッカリンの安全宣言をした。近年サッカリンは、がん細胞に加えると成長が遅くなることが発見され、抗がん剤を強化する薬につながる可能性が浮上しているというからして毒は薬にである。ラムネを買いに行くとおばちゃんが開けてくれるのはいいが、吹き出す泡が子ども心に悔しかった。
だからか、「自分で開ける~」とねだって、吹き出す泡をすぐに口に含んだものだ。ジュースといえば当時は粉末で、粉をコップに入れて水を加える、「渡辺ジュースの素」が、子どものジュースの定番だった。大人はバヤリースオレンジジュースという瓶入りを飲んでいた。羨ましかったが大人の飲み物と諦めていた。昔の多くは、大人用と子ども用とに分かれていた。
今は大人と子どもの境界がない時代である。表題無視の自分だが、「哲学」シリーズのように決めて書くのも面白い。何を書いても「哲学」なので、哲学こそ自由に書けるが、映画のレビューが頓珍漢であるように、ジュースの表題に拘束されない。長編小説のタイトルが、タイトルもどき中身でないように、世間というものがそもそも雑多であるように人間も雑多である。