プロゴルファー松山英樹が日本を飛び出してがんばっている。ゴルフはまったくやらないが、彼のPGAトーナメントを朝早く起きて観るそんな自分に、「なぜ?」の疑問をもった。何気ない自分の行動に疑問を抱くことはよくある。時と場所を選ばないほどに頻繁にある。テレビで松山のプレーを見ながら、なぜ彼を応援するのか?と自問したりするのは同じ日本人だからか?
が、同じPGAでプレーする岩田寛には興味がない。ならば、「松山が好きだから」といえば理屈にあうが、なぜ好きなのかという理由があるはずだ。それを知る意味は何なのか、自分に何をもたらすのかというより、単純な動機の解明である。では、動機を解明して何が得れるのか?子どもが親を殺せば、司法が動機の解明をする。その理由は罪の量刑判断という部分もある。
が、世間の人々は「なぜ?」とその動機を知りたがる。動機は、「意図」と「理由」がかみ合わさったものだが、「動機なき殺人」もある。「暑いから人を殺したくなった」、「むしゃくしゃしたから殺した」と、そんなのが動機なのか?と訝ってみはみても、人を殺す動機の軽重というだけであって、動機は動機であろう。それほど簡単に人を殺す人間にとっては立派な動機となる。
動機は、「意図」と「理由」としたが、それを解明すれば本性に辿り着く。「彼はその程度の動機で人を殺せる人間である」という性格であるというのが結論で、なぜそういう性格になったのか?という解明は別の問題であって、殺人の動機とは関係ない。自分はゴルフをやらない、興味もないが、松山を応援する意図とその理由を自ら知りたいと思った。それも自分を知る要素であろう。
話は変わるが、広島カープを応援する自分である。セ・リーグ6球団で唯一カープを応援するのだから、ファンといってもいいが、ファンもいろいろだ。試合の入場券売り出し日をチェックし、並んで買うファンもいる。自分はチケットを買い求めて行くことはない。三女の夫が大のカープファンで、時々自分のチケットを用意してくれ、そういう時は観戦に行くが、本音はテレビ観戦の方が好きだ。
三女夫婦はカープのユニフォームに身をまとい、他にも応援グッズを持参するが、まあこれらはカープ応援の当たり前のスタイルである。ざっと見て球場に行く人間の80%が球団ユニフォーム姿ではないだろうか。もちろん、他球団においても熱烈なファンの応援スタイルであるが、その中でも阪神と広島は特別にユニフォーム姿のファンが多いという。そこにも意図と理由はあるはず。
それについては以前から不思議に思っていた。が、深く考えたことはなく、「着たいから着ているんだろう」、「自分は着たくないから着ないし、着なくても応援できる」であった。が、少し掘り下げると、自分は球場に応援に行っていない。周囲と同じ応援パフォーマンスなど絶対にしないし、その理由はだまってじっと観ていたいからである。つまり観戦に行くが応援に行っていない。
もちろん、心の中では勝つことを望むが、応援しても勝つときは勝つし、負ける時は負けるんだし、それでも必死に応援するファンのエネルギーは凄いものだと敬服する。自分にはなぜかそれができない。コンサートやライブでも絶対に席を立たないが、立てないのか立たないのか、どちらであろうか?(立ちたいけど)立てないではなく、立ちたくないから立たないのは自分で分かる。
野球の応援と同じ理由であるのは自分で分かっている。その理由とは、無理やりそれを強いられるというのが嫌なのだ。みんなが立つからお前も立てと言われてる気がするし、その圧に負けまい、自分はしたくないことはしないと意志を通す。おそらく周囲から見れば変わった人間に見えるだろうが、そんなことは問題でない。他人がどう思ったところで、したくないことはしない。
自分はアーチストを応援に来てるのではなく、全身で音楽を聴き入っていたい。だから、雑音のないレコードやCDが断然いい。こういう疑問は前からあった。「生を聴きたい」、「生を聴かなきゃ」という友人に対し、高価なオーデオ装置を備えれば、好きな時に聴けるだろう。そんな合理的な考えが優先した。確かに生の音は違う。音の大きさだけではない迫力は圧倒される。
武道館ライブ、後楽園球場ライブに足を運んだことも何度かある。PAで増幅された音圧は体に突き刺さり、脳を揺らす。それでも周囲の騒がしさが、音楽の雑音となる。「それでこそライブだよ」と友人は当前のようにいうが、聴き方が人と自分とでは違う。「クラシックを聴くようにロックを聴くのか?」、「そう、ロックをクラシックのように目を閉じて聴きたい」と自分。
X japanのライブには、X japanもどき格好の若者がたくさん出現する。そういう光景を恥ずかしくないのか?我こそは、と皆がそういう格好をすること自体を羞恥に感じる自分にそれはないが、観る側として羞恥感を抱く。同じように、球団のユニフォームを着て球場に行くことは、大勢がそうであることからして自分的には羞恥の光景である。最近は観るのも慣れたようだ。
が、球団ユニフォームが市販され、3割~5割のファンがそれを着て球場に行くのを羞恥と感じていた。理由は、「なぜ人がしてることをするのだろう?」である。彼らには「人がしているからする」という観念はなく、「自分がやっていることを人がやる」と感じているのか?それとも、同士的な共感にひたれているのか?そういう想像はする。自分も球場に行けば周囲は同士と感じる。
別段、ユニフォーム姿ではなく、会社帰りのスーツ姿のサラリーマンにも同じように同士感を抱く。最近はユニフォーム姿を、"これみよがしのファン"とは思わなくなったが、以前はそのように感じていた。批判というより人マネ、物マネ的羞恥である。生れたのはユニフォーム姿が当たり前のご時世だからであるが、したいとは思わないし、少数派にもファンはいるのを知っている。
「人マネは最大の羞恥」、「付和雷同のみっともなさ」、「多数派より少数派」などの考えに組するようになった理由は分からない。何かあるハズだが、人が人のマネをしてるのは早い時期からおかしいと感じていた。確かに自分も、ビートルズを真似た時期はあった。圧倒的な影響力を持った彼らを真似るのは、時代の必然だった。そのことを自問するに、「熱き時代」だったと結論す。
ベンチャーズの楽曲をコピーし、ビートルズの風貌を真似た若き熱い時代。それが答えだ。ゴム長をサイドジッパーのブーツに作り直したり、学生ズボンを手縫いで細く直したり、それはもう、少しでも彼らに近づきたいとの思いだった。ビートルズグッズなんか、何ひとつ売ってる時代ではない。サイドゴアのブーツは流行ったが、せいぜいグループサウンズのメンバーが履いたりと。
高校生の自分たちには無縁の代物だ。高校3年間は丸坊主頭だから、卒業と同時に長髪にあこがれたが、街の男の子はみんな長髪だった。ならば、なぜあのころ人と同じ長髪頭を羞恥と思わなかったのか?ライブで総立ちや、球場へ球団ユニフォーム姿で羞恥がないのと同じ理由ではないか?分からぬことを解明するためには、あのころを思い出してみる。それがヒントであろう。
違うことといえば、昨今のスポーツ観戦者の行動を理解するうえで、観戦者の観戦動機をスポーツマーケターが的確にとらえ、集客戦略に生かしていることではないか。つまり、球団が観戦者をグッズ販売などの商売に利用しているのは明白だ。利用といっても押し付けではないが、人が意志を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因を動機というなら、動機を煽っている。
プロスポーツ経営とマーケティングの一体は昨今の趨勢である。企業スポーツがバブル経済崩壊と共に衰退、プロスポーツのリーグ運営やチームマネジメントは地域に根付いた運営なしには成り立たなくなっている。プロスポーツチーム運営にチケット収入は貴重な収入源で、そのためには安定した集客が不可欠だが、近年の地域密着型運営による、関連商品販売は相当な利益収入である。
入場料収入と放映権、グッズといえば選手のブロマイドかサインボール、あとは球団の野球帽の時代と比べて雲泥の差のこんにちである。もっとも、自分が子どものころに野球帽は全国区である巨人の帽子しかなかった。関西には阪神や野村や杉浦を擁した人気球団南海ホークスの帽子はあったろう。野球帽は主に子どものアイテムであったし、だからカープの帽子はなかった。
広島の子どもだからといって、カープが人気球団などとんでもない。やはり、長嶋・王のジャイアンツであった。カープファンだった父も、自分が子どものころは必ず巨人ファンの三塁側の席だった。三塁側スタンドから、ファンだったサード長嶋が目に前に見えたし、あれも親の愛情だ。あれほど欲しかった長嶋のサインやサインボールは、終ぞ手にすることはできなかった。
今の子どもは恵まれている。が、子どもにすれば当たり前だ。例えばバスケットシューズ…、ハイカットのバッシューは自分たちが高校時代に7~800円だったと記憶する。今は中学生が軒並みナイキのエアジョーダン20000~30000円が当たり前の時代。巷に物が溢れるのは、ない時代に比べて幸せだ。ゴム長靴のサイドにチャックをつけ、ズボンの中に入れて履いたのが懐かしい。
あるものは買うが、無いなら仕方がない。で、終わっては能がない。無いものは作るという発想こそが人間の原点。裁縫などまったくダメだった自分が、ゴム長の上部を広く、下部を狭くⅤ字に切り、そこにチャックを縫い付ける。よくやったものかと感心するが、ビートルズに近づきたい一心だった。「一念は岩をも通す」というが、ズボンも手縫いで細くしたのも立派である。