先月26日、ピアニストの中村紘子が亡くなった。彼女が夫の庄司薫氏とともに、大腸がんの治療に専念するとして、演奏活動の休止を事務所が伝えたの昨年8月。中村は2014年に腸閉塞の手術を受けており、その時の内視鏡検査で大腸がんが見つかり、この時点の進行度合いはステージ2だったが、手術はせず、抗がん剤治療を受けながら演奏活動を続けていたという。
しかし、抗がん剤の副作用は大きく、体に力が入らない、暗譜が飛ぶ、楽譜通りに鍵盤を追えないなど、とてもピアノを弾ける状態ではなくなり、本年2月から演奏活動を休止していた。大腸がんの宣告を受けた時の中村は、「そんなの全然平気」と、どこか他人事のような大きな気持ちでいたといい、ただひとつ、「ピアノを弾きたい」という思いだけが頭にあったそうだ。
アーチストが創作活動を中止するのは、病気よりも身を切られる思いがあるという。中村は手術をしなかったのはおそらくスケジュールに穴を開けたくなかったと見受けるが、抗がん剤の副作用によってできた血栓のせいで血流が妨げられ、一時は腕が飛行船のように腫れ上がったという。中村はそんな苦しみをも乗り越え、3月6日には一度ステージに戻っている。
今回の活動全面休止と療養は、将来的にもピアノが弾けなければ意味がないとの意思で決定されたという。事務所側は当初、「8月29日から11月末まで予定されていた演奏活動を休止する」とし、その後2016年3月末まで休止期間延長を発表した。活動再開予定は、「中村紘子の体調の経過をみながら」と、実質的な復帰時期は未定であったが、帰らぬ人となった。
いうまでもない、彼女は日本を代表するピアニストで、1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクールにおいて、日本人として初の4位入賞を果たす。それまでは田中希代子の10位入賞(第5回)が最高位であった。この成績は彼女にとって非常に不本意な結果であった。この時の優勝者はマルタ・アルゲリッチである。後で述べるが、彼女は18歳でジュリアード音楽院に留学する。
そこで彼女を奈落の底に落としたのは、それまでの自分の奏法ばかりか、ピアノに関する一切を捨てるに等しい状況に遭遇し、虚脱状態になったという。ピアノにも触れることができないという精神状態が半年も続いたというから、その度合いが想像できる。彼女は日本の音楽界を牛耳っていた井口門下生であり、子どものころから井口愛子の壮絶なレッスンと幻影に怯えていた。
中村が一人たりとも弟子を取らなかった理由が、彼女自身が体験した決して消し去れない師弟のトラウマだったともいわれている。彼女は当時を回想してこのように言う。「あの頃、怖い事では日本一いや世界一と言われた愛子先生のレッスンを週1回受けていましてネ。もう毎日が地獄でしたヨ。毎日5~6時間家で練習でしょ。(レッスンが水曜か木曜)金曜、土曜は幸せ、青空なの…。
でも、日曜ぐらいから曇りはじめて、月曜は雨雲、火曜日はどしゃぶり、火曜の夜から発熱、レッスンの日はだいたい熱だしてました。(愛子先生の雷鳴が轟く)のは、30歳を過ぎても時々夢を見るんです」。どんな親でも親は親、どんな師であっても師匠は師匠。といった日本社会の閉鎖性が、ダメな親、ダメな師を相手を非難も批判もできかねる状況で、批判しようものなら吊し上げである。
中村も恩師井口愛子についての本心を打ち明けない状況は長らくあったが、是々非々という観点から後年、師についての批判を述べるようになった。それははかならずも、師から享受されたピアノ奏法が、屁にもならない無意味で徒労であったことを、留学先のジュリアード音楽院で思い知らされたことも発端となった。中村は一般人と結婚後に大きく価値観が変わったという。
上記したように弟子はとらなかったが、自身の演奏活動もさることながら、指導者として若手の育成にその情熱を注いできたのは、NHKの「ピアノと共に」出演などでもその片鱗を見せている。それまでNHKのピアノ番組は「ピアノのおけいこ」であったが、中村はそのタイトルには不満であったようだ。生徒が教師に学ぶのではなく、共に対するというのが、彼女の教育観であった。
外国人ピアニストが、「○○を教えた」といわず、「○○とは共に学んだ」、「良い時間を過ごした」などというが、謙虚でも謙遜でもなく、教師⇒生徒という一方通行的なレッスン形式を勉強と思わない。中村は弟子や生徒に大先生という恐怖心を払拭することを最重要視しているように見える。子どもを虐待する親は、同じ体験を持つというが、虐待されたからこそ知る苦しみを生かす親もいる。
まさに自分はそうであった。「こんな親には絶対にならない!」という強烈な反面教師という支えがあった。また、「エレキは不良だ」、「ビートルズなんて音楽じゃない」と言った大人たちにも、「(若者の価値観を否定するような)大人には絶対にならない」と誓ったものだが、自分が親になり、大人になると、世代断絶に直面し、かつての誓いがいかに難しいかを知る。
それでも、あの日、あの頃を思い出して、傲慢な親、傲慢な大人の自分を見下げるのだった。自分を苦しめた大人にならないことが、最大の復讐と考えたからである。同じことをやる自分は絶対に許すことができない。それほどに己を客観視したのだった。さて、中村がジュリアード音楽院でどれほど苦しい思いをしたか、それは井口門下生として身に着けた奏法の悪癖であったという。
一から変えさせられたというから、「自分は一体何を学んだのか?」と紘子は思ったという。そんな思いから遡った彼女の師匠批判は、「井口門下」を誇りにさえ感じている多くの門下生の自尊心を汚すことになるばかりか、「井口」という暖簾の権威を貶めることにもなるが、これはある意味会社でいうところの内部告発のようなもので、誰も言わない勇気ある発言と思われる。
桐朋系関係者を敵に回し、自らをも否定することに何の利益があるだろうか?多くの門下生が口を閉ざすのはそこにある。中村はそうした利害より、よき指導者でありたいという崇高な思いからか、事実に蓋をしなかったのだろう。自分はそのように推測する。口を開けば火の粉を振り払わねばならなくなるのは分かり切ったこと。おそらく彼女は夫の庄司氏にも相談したであろう。
元はいえば「井口」という暖簾を背負う彼らも被害者である。井口基成・愛子兄妹が牛耳っていた当時の日本のピアノ界は、彼らの師であるレオニード・クロイツァーというピアニストの奏法が「是」とされ、そのピアノ奏法の指南書も出版されるなど、日本のピアノ奏法黎明期における記述の習得・発展に多大に寄与した。中村がそれを「否」とすることで、間接的に師の非難となった。
中村は井口基成・愛子の実名をあげてはないが、名を挙げなかったということだけで、聞く者には分かること。彼女は間違いを間違いとしただけである。クラシック界という権威主義社会における伝統やオーセンティックなものが間違っていたと勇気をもって告発しただけだ。留学先で幼稚園児扱いを受けた、あまりの不甲斐なさと過酷さの中ででピアノが弾けないほどに苦悩した。
だから言えたし、だから書けたのである。15歳でN響のソリストとしてとヨーロッパを廻り、ショパンの協奏曲を弾いた自信は辛くも消え去った。著書『ピアニストという蛮族がいる』中に、「くる日もくる日も指の形、手首の高さ、指のあげ方さげ方、などということをばかりを中心にやらされる破目になってしまった」と書いているが、悪い癖を修正するのは至難であった。
井口兄妹の功罪は黎明期ゆえに相半ばするものであったが、いつもウィスキー片手にレッスンをし、ミスタッチをしたり、譜読みを間違ったりすると、子供の手の甲を鉛筆で刺すというのは、そんなことは当時は当たり前とはいえ、これは児童虐待である。そんなにピアノ教師は偉いのかといっても、偉かったのだし、生徒にとってレッスンは恐怖だったのは間違いない。
ピアノを弾くということは、大変であったのは間違いない。中村紘子の少女時代をピアノの黎明期というのは、正しいようで正しくないが、黎明期にも一期、二期があるということなら、彼女よりもさらに前の黎明期に、久野久(くのひさ)というピアニストがいた。明治末期から大正期にかけて活躍したピアニストだが、ヨーロッパ留学中に謎の投身自殺を遂げた。享年38歳。
彼女は1917年(大正6年)、31歳の若さで東京音楽学校(現・東京藝術大学)の教授に昇格したが、1923年(大正12年)文部省の命令により、海外研究員として自費で渡欧する。表向きは栄華な留学とはいえ、給費留学でないのを見ても、東京音楽学校の人事における実質左遷であり、現役教授を移動に一か月もかかる遠地に追いやることで、久野と周辺は事情を知っていた可能性もある。
久野については作家の宮本百合子が小説『道標』に、久野を川辺みさ子に見立てて書いている。宮本はこのように書いている。「川辺みさ子は、日本のピアニストである自分の芸術で、すくなくとも自分の弾くベートーヴェンで世界の音楽界を揺すぶってみせる、とインタヴューで語った。」久野のヨーロッパ行きを「世界の音楽界」を揺さぶる野望として宮本百合子は描いたのだった。
だが実際の久野はそんなことは語っていないし、そんな言葉は一言たりとも残していない。問題は、そんな風に思わせる印象を久野が残していることだ。すごい意気込みを新聞記者に語っている(報知新聞 大正12年04月12日)。その頃の「留学」はエリートの道であるだけに、「望んでいたこと」と久野は語っているが、「渡欧留学」について久野久子の不思議な《冷静さ》が窺える。
留学の目的があまりに漠然としており、以下の言葉は何とも言いようがない。「こんな状態の中から向ふへ参りましても特別の奇異の感じなんていふものが起らないとは思つてゐますが、(略)一度は行つてみたいといふ願いが叶つて、(ゐよゐよ)学校から約二年間の暇を頂いて参ることになりました」。実体としての左遷を繕って見せているように受け取れると解釈する人間もいる。
久野は23歳にして日本女子大ピアノ科講師となり、当時日本女子大生であった宮本(旧姓中条)百合子にピアノを教え、二人は師と弟子の関係だった。1925年4月20日、オーストリアのバーデンにて久野久死す。享年39歳。自殺とあるが、遺書もなく、帰国直前にしてなぜ、という疑問もある。中村紘子は著書『ピアニストという蛮族がいる』の中で、久野の奏法について批判し、言及している。
「彼女(久野久)は要するに、それまで最も基本的なピアノの構造自体を知らぬまま、文字通り血の滲む、しかし頓珍漢な努力を重ねてきたことになるのだ」。「世界制覇」という妄想の破綻と、奏法にもとづく芸術失望という冷笑的視点で久野の死を語る中村の著作は、学問的検証のない、いちピアニストのエッセイとして読むべきとの批判もある。素人には名著と思ったが、なるほど…