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ヒーロー談義

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むかしむかし、パソコンちまちま普及のころ、インターネットなる言葉がちょぼちょぼメディアに出てくる前、マイクロソフトがネット内に「フォーラム」という「場」提供していた。フォーラムとは、古代ローマ時代にあった集会用の広場が語源で、ネット創世記にパソコン通信のネットワーク内に設定された様々なジャンルのフォーラムには夜な夜な人が集まってきた。

正式には、「フォーラムディスカッション」といい、集団討議の形式のひとつで、話題別の部屋に我こそは論客なりを自負する熱き暇人たちが、さっそう自慢の論をぶち上げていた。それぞれのフォーラムは盛況だが、お堅い議論ばかりでなく、話題フリーの「ラウンジ」という世間話専用フォーラムもあって、ここには女性も参入し、にこやかな話題で盛り上がった。

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1993年頃だったから、かれこれ23年前になる。当時の論客たちのIDは記憶から消えない。そこで、「ヒーロー」についての所感を述べあったことがある。喧々諤々な議論というより、半分真面目、半分おフザケ風味の言い合いであって、「熱き」が高じて無様で大人気ない喧嘩同然と見まがう議論を自分は好まなかった。「喧々諤々」とは、こんにち一般用語になっている。

元は、「喧々囂々(けんけんごうごう)」と「侃々諤々(かんかんがくがく)」という別の言葉が合わさって、「喧々諤々(けんけんがくがく)」となった。それぞれの意味は違い、喧々囂々は喧しく騒いでいる、侃々諤々は口角泡を飛ばすような激しい議論のこと。「喧」も「囂」もやかましい、騒がしいの意。「侃」は、(性格)が強い、「諤」は正しいことを遠慮なく言うの意。

これが二つが合わさって、「大勢の人が騒々しくそれぞれ正しいと思うことを堂々と主張しているさま」の意となる。「正しい」ことをではなく、「正しいと思う」ことをであって、自分も正しいと思うなら、他人も正しいと思っているわけだから、そこには節度が必要となる。つまりは、「思う:」と「思う」のぶつかり合いだ。説得する場合もあれば、物別れに終ることもある。

「朝まで生テレビ」が始まったころに、「どうでもいいことをそれぞれが自己主張ばかりして、何にもまとまらないクダラない番組」という奴がいた。男にも女にもいた。彼らがどういう理由であれ、観ない自由はあるし尊重はするが、観てる人間に釘を刺すようなことをいうと言い返した。「学級会じゃないしまとめる必要はないよ。それぞれベストの意見を聞けたらいい」。

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「電波の無駄使い」みたいに言う奴もいて、「お前の好きなバラエティーは無駄ではないんか?」と反論する。人はみな自分が基準になるのは分かるが、反論されて言い返せない事はいうもんじゃない。自分の好みと他人の好みの違いは当然にあるし、他人を貶してまでの自己主張はすべきでない。ナンでもカンでも相手を押し黙らせる必要はないことに気づくことだ。

自分も長いことそこに気づかなかったが、気づいたメリットはある。メリットととは、自分にも相手にもである。我を尊重して欲しいなら、相手を尊重するという簡単なことだが、なかなかそこが分らない。相手は間違っているとどうしても思ってしまうからだが、仮に相手が間違っていても、自分の人生には関係のないこと。遠慮しない意見は、求められていうならいい。

それでも利害が絡み、敵と味方に区分けされるのが日本社会の特質であろう。AとBとCと3人の人間がいる。A(自分)は、BともCとも仲良くしたいが、BとCは反目し合っている。BはAにCの悪口をいい、CもまたAにBのことを悪く言う。こういう人間は70歳になっても80歳になっていてもいる。先日もこういう事があった。将棋の会所で初対面のBとCだった。

最初にBと対局をたが、Bはこの場の主的なCについて小声でこう言った。「Cの将棋だが、あんなのは将棋じゃない。まったく考えもせずに、ポンポン指し、こっちが考えているとせかした物の言い方をする。あんな奴とはやらない」。Bが退所した後にCと対局した。なるほどポンポン指してくる。当然にしてこちらもつられてそのようになるが、自分はじっくりタイプだ。

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が、考え方を変えてみた。「これは30秒将棋だと思えばいい。プロ同士でも直感力を磨くために10秒将棋をやっている。そう思って指せば、何かプラスになるはずだ」。指しながらCはBのことをこういった。「アイツは小さい男よ。負けたらやらないからな」。なるほど、自分を嫌ってる人間のことは分かるものかと、二人は対局どころか口も聞かない。Bは67歳、Cは70歳。

年齢を重ねても人間は人間である。好き嫌いもあれば悪口も言う。数日後にBと会ったが誘われなかったし、自分も誘わなかった。「あの後でCと指したけど、凄いね。考えないでポンポン指してくるので、こっちもつられて…」。「将棋ってそういうもんじゃないよな。考えて手を生み出すのがオモシロイ」。「人はイロイロ、相手が自分に合わせられないなら、こっちが合わせばいい」。

BはCについて自分の同調を得たかったのだろう。スカされて戸惑ったのか何も言わなかった。10秒将棋(早指しの効用)を知らないわけではないし、だから返答に窮したのだろうが、Bにはそういう柔軟性がなかったということだ。批判するのは簡単だが、同調するために自分なりのメリットを探るのも大人の対応だ。それが人間関係の基本だし、できないならできないまで…。

話は前後するが、フォーラムでヒーローについて論じ合ったとき、自分の「ヒーローは架空の人物がいい。現実のヒーローに裏切られることしばしばで…」に対してEという男は真向反論した。「ヒーローは現実の人物でなきゃ意味ないね。架空というのは脚色されており、どんな風にも作ることは可能。そういうヒーローに実在感なんかを感じない」という論旨だった。

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いろいろ話して分かったことだが、彼は実の父を心のヒーローと仰いでいるのが分かった。自分も父親は尊敬の対象であったが、ヒーローと崇めるよりも、心の拠り所であった。そこで、「ヒーロー」とは一体何か?ということになるが、双方のヒーロー観に差異があるのは感じていた。彼が父親をヒーロー視する理由を聞いたが、なぜか具体的な思いを述べるのは避けた。

「自分も父親は心の拠り所だが、ヒーローという概念には当てはまらない。君は親父をヒーロー視するが、心の拠り所とは違うのか?」この問いに彼どう答えたか記憶にないが、彼は歯科医で、同じ医師の父親に対し、崇高なヒーロー観を抱いていたのだろう。我々はヒーローを拠り所とするが、「拠り所」というのを具体的にいえば、憧れ、願望、理想、尊敬などであろうか。

ヒーローなどと、正確には固定されていない概念であり、人によって様々に位置づけられている。デジタル大辞泉によるヒーローとは、① 敬慕の的となる人物。英雄。② 劇・小説などの、男の主人公。③ スポーツの試合などで、特に活躍した人。なるほど、①「国民的ヒーロー」、②「歴史上のヒーロー」、③「試合終了後のヒーローインタビュー」などからして言葉の意味は頷ける。

自分が、「ヒーローは架空人物に限る」としたのは、人間には欠点があって、したがってどんなヒーローにも欠点はある。欠点のないヒーローが成功することもないだろうから、そんなヒーローたちにわれわれが重視すべくは、彼らの欠点ではなく、彼らが何をしたかである。ヒーローに限らず他人の欠点ばかりあげつらう人間がいるが、ヒーローとて人間ならそこは目をつぶる。

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自分が現実のヒーローを拠り所にできない大きな理由は、これまでヒーローと言われた人たちの現実が暴かれ、ヒーローの虚像に残念な思いを抱いた。昨今の情報化社会はヒーローを逐一監視しているようでもある。北里柴三郎がペスト菌を発見し、湯川秀樹が中間子理論でノーベル賞を取ったなど、随分あとに報道で知るしかなかった時代と現代ではまるで違う。

小保方氏の「STAP細胞」だが、あれが事実であったとしたら、あのような壮大な発表セレモニーは別としても、昔のような隔離された情報が、ある日突然新聞紙面に発表される時代とは訳がちがう。現代のヒーローであるイチローとて、その偉業は毎日情報(報道)で更新されている。我々はイチローのヒーロー観を、更新される業績とともに歩み、実感していくそんな時代に生きている。

昨日のヒーローが今日は奈落の底に落とされる…、そんな恐ろしい時代である。「壁に耳あり、障子に目あり」といったのは過去の話で、今は週刊誌が目も耳を持ち、密かに個人を駆逐する。数十年前、数百年前、呪術師、予言者などともてはやされた多くのインチキ詐欺師が暴かれることもあったが、そのためには大学教授といった権威がいったし、時間もかかった。

今の時代は一般人がコミュニティーで寄って集ってアレコレ情報を交換し、共有する時代。だから、佐村河内も小保方もひとたまりもなかった。数十年前なら、当分の間ヒーローを名乗れただろう。松下幸之助の松下電器はパナソニックと社名変更をし、幸之助のカリスマ性は消滅した。子どものころに彼を仰いだ自分は、情報として出てくる彼の真実に、裏切られた思いであった。

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ヒーローなんていない。所詮はずる賢い人間である。田中角栄も一時期ヒーロー宰相と言われたが、総理大臣の犯罪という汚名とともに地に落ちてしまった。麻原彰晃をヒーローと片棒担いだインテリたちもいたが、獄舎につながれた信者たちはどういう思いであろう。人間である以上、対象を見誤ることはあったとしても、それにしても麻原彰晃という人物は、あまりにも虚飾の権化である。

角栄は近年見直されてはいるが、確かにあれほど個性的な人物は排出されていないし、今後もあのような人物が生まれる社会的土壌はもはやない。その意味で彼は時代が生んだヒーローであろう。学閥が牛耳る政界など、所詮は「無間地獄」であったが、学歴社会と言われた政界にあって、安倍総理は微妙な大学である。角栄の娘真紀子が安倍の大学をバカにしたのは解せないが…。

スポーツにしろ、将棋にしろ、負けた者が勝った者を罵ったところで、自分が強くなる訳ではあるまい。田中真紀子が安倍の大学をいかに見下げようとも、彼女はあれまでの人間であった。学歴のない父を高学歴の娘が見習う要素はたくさんあったが、それもないままに真紀子は地に落ちた。学歴のない人間は「頑張る」。学歴のある人間は「威張る」。同じ「張る」でも大違い。


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