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自由と公序良俗

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オリンピックなどの国際的な競技に国家が絡むことは避けられない事情もあるが、個人の人間性を無視してサイボーグを造ることは許されない。が、昨今の情勢はそういう傾向に向かっている。これを監視し、歯止めをかけるべく団体もあるにはあるが、問題はいかにして自制心を働かせるかであろう。選手個人も強くなりたいし、国家も威信をかける。その共依存体質が不正の温床だ。

「国家あっての個人」なのか、「個人あっての国家」なのか。日本国憲法第十三条には以下の条文がある。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。日本国憲法は103条からなるが、実はこの条文こそが我々国民にとって最も大事である。

条文には、「すべて国民は個人として尊重される」と書かれている。「個人が尊重される」ではなく、「個人として」尊重されると書かれている。ここに気づくかどうかが、文の解釈として大きな違いである。たいていにおいて普通の人は、「あなたは個人ですね」と改まって言われても面食らうだろうが、「個人として尊重される」ということには、どういう意味があるのか。

その前に、「個人」という言葉は、実は江戸時代までの日本にはなかった。これは、西洋から来た "Individual" (インディヴィジュアル)という言葉の和訳である。"love"を「御大切」と訳し、その後「愛」に変わったように、明治時代の先人達が四苦八苦して訳として作りだした言葉は多い。「個人」も完全に日本人の価値観に溶け込んでいないせいか、だから分かりにくい。

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とはいってもヨーロッパでも、Individualという言葉の歴史はそれほど古くはない。これらは、いわゆる、「近代」という時代になって登場した価値観を反映した言葉である。したがってこの言葉の意味を深く理解しようとするなら、近代以前の社会、つまり「中世」と呼ばれる時代を勉強するのがよいが、手っ取り早く参考図書を開いて知識を得るという便利なご時世である。

近代になるまで、日本においてもヨーロッパ諸国においても、一人一人の人間は中世的な「掟」、つまり、「身分」や、「家」や、「領地」などに、がんじがらめにされていた。好きな職業についたり、好きな人と結婚したり、好きなところに住むことなどは、様々な、「掟」(制約)もあって許されなかった。そして、この中世的な、「掟」をうち破る人間像こそが、「Individual (個人)」である。

そこには、「自分は自分だ」、「自分が自分の人生の主人公だ」という決意が込められている。そのことを以下のように分かりやすく絵本などで表示したのだった。

 ・「あなたは、あなたであるだけで、大切な人」
 ・「あなたは、誰のものでもない」
 ・「あなたは、どこに住んでもかまわない」
 ・「あなたは、どんな仕事についてもかまわない」
 ・「あなたは、誰と結婚してもかまわない」
 ・「あなたはほかの人にめいわくをかけなければ自分で自分の生きがいを見つけて自分の人生を歩むことができる」
 ・「それが自由です」

こんなことは今の時代なら、「そんなの当たり前」と思うだろうが、歴史的に見ると、今の時代とは事を異にするものは多い。しかるに現代社会にあっても、このような当たり前というべき価値観に反する生き方を余儀なくされている人たちはいるし、そんな個人として尊重されない社会がいかに不自由であるか、と考えてみると、憲法が「自由」を保障することの意味も分かろう。

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13条は、それを、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を、「国政の上で最大の尊重を必要とする」と表現している。誰もが、「個人」として、自分で自分の生きがいを見つけ、自分の人生を歩むことができるような社会をつくることこそが、われわれが日本という国を作っているる最大の目標である。ただし文言には、「公共の福祉に反しない限り」という言葉がある。

「公共の福祉」とは何ぞや?これを問われて即座に答える人は、「賢い」というより、職業的か何かで意味を理解しているであろう。一般人には即答は無理だし、辞書を引いて説明を読んでも理解は難しい。つまり、「公共の福祉」なる言葉も日本には戦前なかった。語源でなる "public welfare" に相応する言葉もなければ、基本的人権の保障すらなされていなかった時代であった。

そんなところに適正な制約について共通の認識がなかったのは当然で、ぴったりあてはまる、「分かりやすい」日本語などあるはずもなかった。public welfareは、そのまま、「公共の福祉」と直訳されるが、これはわが憲法が認める唯一の人権制約原理である。したがって、これを広義に解するか、狭義に解するかで、人権保障のあり方そのものが根本的に左右される大問題といえる。

明治の先人が、「love」や、「Individual」を「御大切⇒のちに愛」、「個人」と訳し、元々なかったこれらの言葉の意味を理解するまで悪戦苦闘したように、戦後のわれわれでさえ、「公共の福祉」という言葉と同時に、その中身を受け入れなければならなかった。とはいえ難しい言葉である、「公共の福祉」について、学者はどのように考えたのか、こんにち通説になっているのは…

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「基本的人権相互の矛盾・衝突を調整する公平の原理である」と解釈する考えである。つまり、人権を制約することはあっても、それは、「個人」相互の調整のレベルにとどまる…という考えで、これは「お国のため」という価値観を排除するという共通理解がある。問答無用の「国益」とか、「そんなことをする奴は非国民だ」という軍国主義的論理は、戦後は認められなくなった。

日本を軍国主義国家から脱却させるというアメリカの強い意図が見える。自由国家には当然にして表現の自由がある。とはいっても、他者のプライバシー権や名誉権を無視してはならない。これが、「個人相互の調整」である。ましてや戦前のように、集会や演説会を憲兵が監視したり、「戦争反対」というだけで逮捕されるようなことがあってはならない。

それら、国家のために個人の表現の自由を規制することを憲法が許さない。「公共の福祉」とは、「公益」とか、「公の秩序」のみを押し出さない。そういう言葉は戦前からあったもので、したがって、「公共の福祉」を単に、「公益」、「公の秩序」と言い替えただけなら、その言葉に、「国家あっての個人」という戦前の考えが結びつくと、元の木阿弥に戻ってしまいかねない。

これまで憲法学者が懸命に排除してきた、「お国のため」の論理が憲法に持ち込まれてしまいかねない。となれば、国民は、自分の人生の主人公、つまり、「個人」ではなくなってしまう。戦時中の日本に支配的だったのは、この考えであった。「非国民」という言葉、これは、「お国のために生きる」ことを拒否した個人が、人間として扱われなかったことを意味する。

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「お国のために生きる」とは、裏を返せば、「お国のために死ぬ」ということでもある。おかしな話だ。リベラリストであった故J.F.ケネディの演説には、「自由」の文言が多かった。彼の大統領就任演説は、その格調の高さにおいて、リンカーンのゲティスバーグ演説や、F.ルーズベルトの大統領就任演説に勝るとも劣らぬものと評価されているが、その中にひときわ有名な文言がある。

And so, my fellow Americans: ask not what your countly can do for you―ask what you can do for your countly.

「…ゆえに、わが同胞のアメリカ国民よ、国家があなた方のために何をするかではなく、あなた方が国家のために何ができるかを問うてもらいたい。」

ケネディの言葉は美しく、話し方も素晴らしい。が、それ以上に素晴らしかったのは内容である。これほどの言葉を掲げる日本の総理大臣がいただろうか。安倍総理が2015年4月30日未明(日本時間)、日本の総理大臣として初めて、アメリカ議会上下両院の合同会議で英語で演説した内容は素晴らしく、スタンディングオベーションで喝采をあびた。と、日本のメディアは伝えている。

が、実は失笑の対象だったという。事実、米メディアは、ほとんど関心を示していない。ばかりか、安倍首相が英語で書かれた原稿をひたすら棒読みしただけでなく、原稿に日本語で、「顔を上げ、拍手促す」、「次を強く」などと、あんちょこが書かれていたことを笑いものにした。「ウォールストリート・ジャーナル」などが、そのあんちょこペーパーを大きく報じている。

アメリカ人記者たちは、「まるで中学生の英語スピーチ大会だ」と笑い合っているそうだから、素直に日本語でやればよかったのだろう。国際ジャーナリストの堀田佳男氏は言う。「テレビで見ていましたが、リズムが悪すぎて意味が分かりませんでした。米議員の半分以上がスピーチを聞かずに、紙を見ていた。文節の切り方がおかしいし、リズムもない。

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単語ひとつひとつを明確にしようということなんでしょうが、8割の議員がわからなかったでしょう。安倍首相は演説で自らの留学のエピソードも入れていましたが、ただ恥ずかしいだけです」。途中退席の議員もいたという。米議会では、スタンディングオベーションは習慣で、タイミングもあらかじめ決まっている。喜んでいるのは無知な日本のメディアと、おめでたい安倍首相だけか。

最近言葉で気になったのは、TBS系、「サンデーモーニング」レギュラーの、「喝!」でおなじみ張本勲氏。リオ五輪、卓球男子個人戦で銅メダル獲得の水谷隼が、勝利後に派手なガッツポーズをするのを、「あんなガッツはダメだよ」と述べた。さらに、「ワンちゃん(王貞治氏)なんか、世界記録を達成した時も、決して、相手のこと思ってね、やらない。これエチケットだからね」。

張本氏の持論はいいが、王選手の記録達成の写真は残っており、後方で飛び上がっているのはまぎれもない張本氏。己を棚に上げて何を言うのも自由で、水谷も、「戦場なので理解して欲しい」と応じたが、何か言って理解する張本氏なら、最初から理解して何も言わないハズ。張本氏はいかなることがあっても一言を変えない頑固一徹の昔人間。

このての無益な老害は無視に限る。広いグラウンドでやる野球と、瞬発性と緊張感のある卓球を一緒にするのはミソクソの論理。勝利の瞬間の水谷が、全身で喜びを表現したのは、卓球やテニスプレイヤーにしか理解できない緊張感からの解放であろう。張本氏に黙れとは言わぬが、スポーツの先輩として後輩に換言などと気取っているが、あまりに無知な野球バカである。

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にもかかわらず、スポーツコメンテーター気取りで、アレコレと別のジャンルに口を出す。スポーツ音痴の御仁は、野球のことだけ言っておればいいよ。さらに付け加えるなら、昔のことが基準の老人が若者の足を引っ張ってはダメだ。世に中の変遷に耳を貸し、目をくばせる。ボブ・ディランの、『時代は変わる』には、"黙れ批評家ども"の一節と、以下の一節がある。

  母たちも父たちも来たれ
 国中すべての親たちよ
 非難をするな
 理解のできない
 息子たちと娘たちは
 あなたたちの手から離れて
 あなたたちの道は急速に老いてゆき
 あたらしい道から出ていくのだ
 手をかすことがないならば
 時代は変わるのだ  


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