毎日毎日、犯罪が繰り返されている。世界の各国で、昨日も犯罪、今日も犯罪、明日も同じように犯罪は繰り返されるだろう。軽微な犯罪から重大な犯罪、個人の犯罪から国家ぐるみの犯罪、人のいるところに犯罪のない場所はない。イエスは天上に犯罪はないとした。釈迦の仏教にも、「浄土」という言葉がある。嘘か真か、「ある」というものを、「ない」と覆す明確な根拠がない以上、否定はできない。
「なぜ犯罪者になるのか?」というより、「(人は)なぜ罪を犯すのか?」というべきかもしれない。人が罪を犯せば自然と犯罪者であるし、すき好んで犯罪者になるというより、必然的の問題だ。「すべての犯罪は人間が孤独でいられないというところから起こる」といい、E・H・フロムも、「人間のもっとも根源にあるものは、孤独を避けたいという欲求である」とした。
広大な砂漠を延々と一人で歩き続けるという孤独感を想像してみる。その砂漠にいる人間にとって、何の関わりあいのない人間であれ、人がいることを望むであろう。たとえ自分の心がその人たちの心につながっていないにしろ、その人たちの中に受け入れられたいと思うのではないか。どんなに気疲れしても、ただ一人生き残るよりも、仲間のいることを望む。
人間は本質的に受け入れられないとしても、表面上だけでもいい、社会に受け入れられることを望む。それほど人間は孤独に耐えられない。心理学者は人間の多くの欲求リストを作ったが、その中の一つに「人間の人格性の要求」というリストがあり、次の項目がある。「集団に属していたい」、「人から認められたい」である。この二つは決して別のものではない。
いづれも孤独になることを「本質的」に、あるいは「表面的」にだけでも、逃れたいという要求である。人間にとって、すべてから分離されるほど怖くて不安なものはない。一切から分離された人間が、孤独の不安から逃れるために、たとえ表面的であれ他人に受け入れられようとする現代人。人生の儚さを感じながら、絶望に陥ることを避けようと、表面を繕う現代人。
精神分裂病の初期症状は、他人とともに生きる欲求を次第になくすることだと言われている。「鬱」という症状もそうではないか。「愛と憎しみ」は人間が生きる上での共生であり、後天的な必要性である。愛情も憎悪も共生の必要によって引き起こされた欲求にほかならないなら、誰が誰を愛そうと、その愛に罪はないし、誰が誰を憎もうとて、その憎悪に罪はない。
「共生」の欲求は後天的なものもあれば、遺伝的・本能的なものも研究的に認められている。ハチの群れ、渡り鳥の群れ、イワシの大群など、多くの動物が「種」に共通の遺伝的・社会的行動をおこなっている。人間も群れる動物である。よって、孤独を避けるためには規範や道徳に対して同調的な態度を示す。規範や道徳に反する行為をした場合には、必ずといって言い訳がつく。
「人のものを盗む」というのは犯罪である。が、人がそれをするとき、必ず正当化する何かの言い訳を自身に課している。それは現代社会の誤りであったり、現在の自身の境遇であったり、生まれ持った環境であったり…。自分は本質的には皆と考えは一致しているが、社会規範や道徳違反は相手から許されるべく範囲内の反乱なのだと…。相手に理解してもらおうとする。
人間は独善的になりやすい。よって、カントのいうように、「人間は教育しうる唯一の動物」であるし、フロイトのいうように、「人間は自らが考えるほど道徳的でない」。よって、問題はそうした自己を解放しながら、なおかつ許される新しい社会を作ること。50年、100年前と社会はまるで変ってしまった。みんなが電話やゲーム機を持ち歩いて余暇を楽しんでいる。
これが人間のつくる新しい社会的価値なのだろう。すべての物は、人間が孤独でいられない、孤独を忌避するために編み出されたツールである。長々書いたが、これが犯罪と孤独の関係だ。犯罪とは、「罪を犯す」こと。「罪」とは何か?と言われても単純すぎて即答できなかったりする。あげく、「罪は罪だ」とありきたりをいう。たしかに、罪は罪で、それ以外のなにものでない。
「法や道徳などの社会規範に反する行為」と答えたいが、ブリタニカ国際大百科事典には、「人間が自己の存在の場の秩序やその緊張関係を破ること。法や道徳に対する違反行為も罪と呼ばれるが、罪とは本来的に宗教的観念であり、たとえば孔子、ソクラテスあるいはモーセの教えも単なる人間生存の規範ではなく、常に天や神との緊張関係において成立している」とある。
「ほへ~?」誰がこんな難しいことを考えるのだろうか?誰かが考えるから辞典に記されているのだろうし、記されているからには正しいだろうし、「罪」についてここまで述べるはさすが辞典である。 深い部分を要約すると、「宗教観念でありながら賢者や哲学者の教えは、人間生存の規範というより天と神との緊張関係にある」だと?「天」とは何だ、「神」とは…?
「天」とは天道のことだろ。子どもの頃によく言われた。「悪い事をしたら御天道(おてんと)様のバチがあたる」に、ビビッた子ども時代である。「バチ」とは「罰」。ネットに「『悪いことしたらバチが当たる』を信じるかどうか」の設問で、信じる60%、信じない40%とあるが、10人に聞いたのか100人なのか1000人か、サンプル数の無い適当な数字だが、まあいい。
話を勧めるために妥当としよう。信じない人は、「根拠がない」という答えで簡単明瞭だが、信じる人は、「どういう根拠」をより所にしてなのか?おそらく根拠があるのだろうが、「漠然」というのも信じる人にとっては根拠となる。無神論者の自分にとって、こういうものは勿論、「神」や、「あの世」、「幽霊」や、「生まれ変わり」などと同等の根拠なきものである。
しかし、宗教的根拠も立派な根拠であるから、別段否定はしない。有神論者を批判しないかわりに、無神論者を認めればいい。まあどちらも、「認めてくれなくても別に構わない」というスタンスも結構だ。無益な言い争いやケンカをしないで、共存すればいいのよ。ただ、無神論者は神がいて困ることもない、いなくて困ることもないが、有神論者はいないと困るであろう。
都合の悪い事もでてくるようだが、無神論者にはその手の都合は一切無い。むしろ居てくれたほうが聞きたい疑問はイッパイある。昔、こんな事を言っていた。「神がいるなら、NHKテレビに出てインタビューに答えてくれんかな?『明日夜8:00から神が出演!インタビューに答える』と宣伝すれば超絶視聴率だろ?」に宗教者は、「何をバカげたことを…」と呆れてた。
「神は幽体だから、姿かたちは見えないし、テレビなんかに出るわけがない」というので、「残念だな、そうすると信じる人は倍増どころか、100%神を信じる事になるけどな」、「そうまで無理に信じなくていいよ」という。「いやいや、信じたいんだよ本当は?信じたいから疑ってるんで、だから根拠が欲しいだけ」。さて、バチの当たるを信じる人の根拠は以下のようだ。
・自分に後悔が残ると思うから、それ自体もうバチが当たっている(22歳・大学生)
・悪いことをすればするほどバレる確率は高まるし、悪事は人の敵意を集めやすい。当然、生きているだけで災厄は降りかかるが、悪いことをするとその確率が跳ね上がる(22歳・大学院生)
・神罰かはわかりませんが、因果応報はあるような気がする(23歳・大学院生)
・そう思うと悪いことができないから昔の人の知恵だと思う(32歳・会社員)
ついでに、悪い事をしてもバチなんか当たらないと信じる理由として…
・ずる賢い人間の方が世の中うまく渡っていけるから(23歳・事務職)
・人生はその人の運で、元々決まってると思う(29歳・専業主婦)
・関連性がなく、そう思うのは後付け(36歳・自営業)
・「悪いこと」の定義は人それぞれで、自然はそんなことかまっちゃいない(51歳・ライター)
など、肯定派よりも否定派の意見がオモシロイ。「人生が元々決まっている」という否定派は考え方として肯定派に移動すべきかと。「すべては後付け」は同感。「悪に自然はかまっちゃいない」というからには、バチは自然が与えるものとの考えのようだ。御天道様とは神ではなく、「天地をつかさどり、すべてを見通す超自然の存在」のことだ。神と同様に悪を監視する。
いや、監視しなくとも悪に対する罰は自然摂理に行われる。ということなら、悪の定義には司法的な役割も果たさなくてはならない。「自然はそんなことかまっちゃいない」という考え方は否定派ならではあり、肯定派になると「自然はそんなことにかまうものである」となる。一つの命題に相反する二つの考えが存在するところがいい加減(?)でオモシロイ。