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最後の一族旅行か?

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『家族』という映画があった。「家族」のことを描いているが、家族は変貌し、流転する。家族が一つの形にとどまっていることはない。家族は生まれ、家族は死ぬ。よって、家族は増え家族は減る。自分が家長であるところの家族だが、子どもたちはみな独立し、もはや家の族となってない。よって家族は減ったが、それぞれ婚姻することで、姻族は増えたことになる。

家族、親族、姻族、血族などの言葉は正しく理解されているのだろうか?とくに家族の定義は、一般的な定義とは別に自動車所有の保険の特約や、携帯電話の家族割引などあって、多岐に渡っている。「家族」とは人間社会の営みの単位であり、世界共通であるべきだが、「家族」にも、英語圏でいう「family」といった言葉にも、いくつかの意味がある。「家族」とは?

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1. 夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態。

2. 民法旧規定において、戸主以外の家の構成員。

「家族」・「family」という言葉は、動物生態学や行動学など一般に広く用いられ、多くは厳密な定義に基づくものではなく、生物学的家族(biological family)として人間家族とは区別することが望ましい。したがって、米国の人類学者マードック(George Peter Murdock、1897年-1985年)の言う、"夫婦と同居する未婚の子どもよりなる核家族"を、家族とするのが一般的である。

Oxford Dictionariesでは、「family」に関して、大きく分けて3つの意味を挙げている。①ふた親とその子たちで、ひとまとまり(ひとつの単位)として一緒に暮らしているものたち(血縁や結婚によって関係づけられた人々)。②共通の先祖を持つ全ての人々。③関連性のあるものごと。大辞泉では、「夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」。

広辞苑では、「夫婦の配偶関係や 親子・兄弟の血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団」とある。婚姻によって生じた夫婦関係、「産み、産まれる」ことによって生じた親と子という血縁関係、血縁関係(など)によって(直接、間接に)繋がっている親族関係、また養子縁組などによって出来た人間関係等を基礎とした小規模共同体も家族である。

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さらには、企業の定義する自動車損害賠償保険の、「運転者家族限定特約」は、運転者の範囲を「家族」に限定することで保険料を抑えることができるが、この特約の、「家族」に含まれない人が運転していたときの事故については保険金が支払われない。その中では、「子ども」の扱いが微妙且つ複雑で、以下のケースのどれが、「運転者家族限定特約」における「家族」に該当する?

① 婚姻歴はないが、別の家で一人暮らしをしている子ども
② 結婚して、同じ家に住んでいる子ども
③ 結婚して、別の家に住んでいる子ども
④ 離婚して、同じ家に住んでいる子ども
⑤ 離婚したが、家には戻らず、別の家に住んでいる子ども

①②④は「運転者家族限定特約」における「家族」に該当するが、③⑤は、「家族」には該当しない。この辺りは保険加入の際に重要説明事項でなされるも、聞き洩らしや思い違いがトラブルの要因となる。補償あっての保険だが、「家族以外の人が運転する機会はあまり無い(=少しはある)」場合は、「運転者家族限定特約」は付けない方が良いということにもなる。

上記のように、ひとくちに「家族」や、「family」と言っても、辞書や保険の説明でも同居していることを家族の要件に挙げている場合もあれば、そうでない場合(つまり、同居は要件でない場合)もある。また、「家族」の指す範囲がかなり広くて人数が数十人以上におよぶ文化圏や国がある。日本においては、「家族団欒」、「家族旅行」などの言葉も生まれた。

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「家族団欒」を広辞苑では、「集まってなごやかに楽しむこと」と説明されているが、いうまでもなく家族で一緒に食事をしたり、談笑するなどして、なごやかに、楽しくすごすことである。「なごやかに」とあるように、喧嘩をしている場合や、険悪な状態や雰囲気では、「家族団欒」とはならない。近年は家族の一部が機能不全状態という意識が広まっているのも事実である。

男と女が夫婦になり、子が生まれ、子が成長して結婚し、また子が生まれる。一つの家族がネズミ算式にどんどん増えていくが、役目を終えた夫婦はその生涯を終えていく。当たり前だが不思議であり、それが生あるものの宿命である。家族も独立して別の家庭を持てば、三世代そろっての家族(親族)旅行もだんだんと予定を合わせるのが難しくなる。それは仕方のないことだ。

「子どもたちと揃って何処かに行けるのは難しくなる。行ける間に行っておかなければ…」というのが、妻の強い気持ちのようで、家族(親族)旅行の立案者はいつも妻。すっかり様相が変わった我が家族、バラバラになった子たちが、伴侶を添え、子どもを添えて一同に会するのは楽しくなければならない。なぜなら、元は寝食を共にした家族という「同士」であるからだ。

結束力を誇る我が家においても、昨今は、それぞれが無理して休暇を取らなければならない情勢であり、よって、今回の夏の旅行が最後になるのではないかと妻の弁。さて、恒例の家族(親族)旅行は、一族旅行としてみた。孫の人数も5人となれば、当主としては、「一族」という感慨もある。小説には、「阿部一族」、「華麗なる一族」などもあり、それに倣った。

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誰が決め、どこに行くのか、場所も行先も分からず、迎えの車に乗るだけの殿様気分の当主である。「水着は用意しておいて」との達しで、8日の9時半に迎えに来るとのことだった。海水浴でもあるらしい。実際問題、何処に行くなどは問題でない。集まって顔を見せあい、何気ないことを話したりする。やむごとなきことなど何もないし、そんなのはない方がよい。

我がfamilyは、集まれば賭け事をする博打家族。賭け事をすることで緊張感をもたらせ、家族・親族という馴れ合いから解放されるオモシロさ。発案者は常に自分で、ボーリング大会は恒例として、宿泊先でのトランプは少し飽き気味になった感もある。それで今回は、「輪投げ」を持参した。大人8人が個々に100円を出し、一番多く輪を入れたものが総取りする。

同点となって2人、3人でのプレイオフもあったりする。一回につき700円の収入となり、家族・肉親といえど、真剣になるところがいい。お金を賭けるから真剣になるのではなく、我が家族は何事も真剣になる性質であり、それら一切はプロセスを楽しむためで、収入も損益も単に結果に過ぎない。たかが、「輪投げ」だが、されど「輪投げ」、それぞれが真剣にやるから楽しい。

もし、中に一人でも不真面目な奴、やる気のない奴がいると、シラけてしまうだろう。高校野球ではないが、一生懸命さは人間の純粋さであり、物事に一生懸命になれない人間は、それなりの見方をすれば憐れ也。親が一生懸命にやる姿勢を、幼少時期から見せておくのがいい。地域の奉仕作業など、文句ばかりで積極的でない親の背中を子どもはちゃんと見ている。

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そういった一切のものが子が育つ環境である。さて、一族旅行の最初の目的地は、「島根県立しまね海洋館 AQUAS」。ここのシロイルカのメス、「アーリャ」が、空気を吐き出して作る泡の輪、「バブルリング」を、一人遊びで勝手に作るようになった。その遊びをトレーナーがパフォーマンスとして、いつでも披露できるようにしたところ、爆発的人気となった。お目当てはこれである。

昨年の日本食研「宮殿工場」もそうだったが、島根にこんなところがあって、こんなイルカがいるのを知らなかった。海洋館を出て向かった先は、大田市温泉津町の宿泊地「輝雲荘」。温泉津町は、「ゆのつまち」と読み、温泉のある港の意味だが、難読地名とされている。、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の石見銀山は、2007年世界遺産に登録された。

高品質で信用度も高いことで世界に知られた石見銀山をはじめとする日本の銀は、16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の産銀量の約3分の1 を占めたといわれている。その銀を世界各国に積み出したのが温泉津港で、温泉津町に2泊し、翌日は出雲大社に向かう。初めての出雲大社詣。縁結びの神様として知られる大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀る出雲大社。

現在60年ぶりとなる、「平成の大遷宮」が行われているが、その意味には諸説あり、①木造建築の建物を維持していくため、②社殿の建築など様々な技術を継承していくため、③神社は清浄であることが必要で遷宮を行う(神の力がリフレッシュ)などと言われている。以前、友人が「あんな凄いものはどこにもない。奈良や京都にもない。一回は見ておくべし」といっていた。

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「芸術は爆発だ!」の岡本太郎は、初めて大社を訪れた時の印象をこう表現した。「真前から、真後から、ぐるぐる周囲を廻ってみると、簡潔な部分々々と、壮大な全体の重さ、その均衡が素晴らしい。日本の過去の建築物で、これほど私をひきつけるものはなかった。この野蛮な迫力。―—恐らく日本建築美の最高の表現だろう」。「野蛮」はさておき、「凄みと迫力」には同意。

出雲大社の大遷宮は、伊勢神宮と違って、「建て替え」にあらず。あくまで、「修造」である。部材を一つ一つバラし、慎重に検討して再利用可能なものは釘一本ですら再使用するという壮大なリサイクル事業。リサイクルばやりのこんにちだからそうするというのではなく、出雲大社は昔からそうしてきた。現在の本殿は、1744年に造営されたもので、以後3回修造された。

1809年、1881年、1953年の大修造の際も、再使用できるものは何度も利用した。今回の修造の最大の特徴は、すべてのプロセスを一般公開の形で公衆の眼にさらしながら行ったこと。修造期間中、祭神オオクニヌシは、本殿の隣に作られた、「御仮殿」に移動し、修造が終わる2013年5月までそこにとどまった。その間、空っぽになった本殿を、「特別昇殿拝観」として40日間公開した。

それを見ようと25万人が押し掛け、5時間待ちの行列ができた。神の御所も情報公開時代に合わせて進化したということか。と、思いきや、遷宮の総事業費80億円のうち、修造費用の30億円は、国から6割5分の補助が出、県や市からも相当の補助が出るが、大社の自己負担金も相当である。大社は早くから、「御遷宮奉賛会」を作って資金集めをしたが、「昇殿拝観」もその一環である。

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出雲大社を後に、浜田の石見海浜公園にて海水浴。ここ数日間の炎天下、日焼けした背中がイタイ。2時間滞在して一路広島に戻り、「一族対抗ボーリング大会」開催後、夕食をとって解散。長女の孫も来年は高校ということで忙しさも増すという。結束力を誇るわれら家族も、長男夫婦も休みを取るのも難しいとやらで、よって、「今年で最後になるかも…」と、妻は言う。


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