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哲学とは「知」を愛する事 ⑬

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哲学とは、哲学者の思索や思考のみならず、生きることで起こるすべての事象。個々の人生観や世界観、何かの問題に対する是か非かの答え、何が正しい、正しくない、というような、正解があるようでないような複雑な人間関係や恋愛や子育てに類するすべてのこと。例えば、「得ようとして求めた愛はいい、求めずして与えられた愛はさらにいい」なども哲学的思考だ。

考えるのは面白い。なぜなら事象は複雑であり、正しいことは直感的に判断できることも多いが、思考は直感の裏付けと考えた方がいい。囲碁や将棋の指し手も多くの場合、も直感が正しいとされるがそれを丹念に精読して指し手を決める。ある局面で同じ指し手であれ、読みの裏付けのある手が高段者、そうでないのが初心者と区別されるが、その意義は責任感であろう。

自分には5人の孫がいるが、中3の孫以外はあまり交流がない。ただ「いる」という程度でしかない。中3の大志は、バスケ部のキャプテンとして部員に信頼されているようだが、彼がキャプテンに推された中2の時、「キャプテンの意義」をこう伝えた。「キャプテンにはいろいろな役割があるが、ここぞというときに皆の信頼に応えられるのがキャプテンだからな」。

M・ジョーダンや本年4月16日に惜しまれて引退した・ブライアントは、さすがのスーパースターだった。当初は強豪校に100点ゲームという惨めなチームだったが、彼もうまくなったし、皆もうまくなったし、チームとしての卒のないプレーができるようになった。先週は区大会で優勝できるほどに上達したが、なによりこの2年間は、観覧者として楽しませてもらった。

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彼の頭の中には寝ても覚めてもバスケのことしかないようだ。社会情勢や国家のことなども少しは考えて欲しい気もするが、押し付けるものでもないし、バスケ少年は恋愛にさえ興味が見られない。14歳の彼に読ませようと買ってある、『14歳からの哲学』という本もまだ渡せないでいるし、タイミングを計ってはいるが、おそらくこのまま渡せないのではないかという気さえする。

常々思うことだが、本というのは自らの意志で読みたいと思わなければ、どんなに優れた本も、「猫に小判」でしかない。目次に目を通してみても、自分が14歳だった時にはまったく読む気がしなかったろう、そんな内容だ。あの当時は、松本清張や江戸川乱歩の推理小説にはまっていた。『14歳からの哲学』の著者池田晶子は、2007年に46歳で死去した哲学者である。


美人でもあった。だから美人薄明だったのか。美人は需要が多くて、「パンツ履くめ~」などと若いころには言った。今はそんなギャグなど笑い者もいない。本のあとがきには、「14歳の人へ」と、「14歳以上のひとへ」と、二つが収められている。「自分とは誰か」、「死とはなにか」、「存在とはなにか」など、「あたりまえ」のことを考える書物であるがゆえに内容は難解だ。

「14歳」にも、「14歳以上」にも難しい。自ら率先して読もうとせねば哲学はとん挫する。例えば次の文。「純粋な有は純粋な抽象、したがって絶対的に否定的なものであり、これは同様に直接的にとれば無である。無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであり、逆にまた有と同じものである。従って有ならびに無の真理は両者の統一で、この統一を生成という」。

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こんな文章は、余程の向学心と忍耐力がない限り、続けて読もうなど思わないだろう。上はヘーゲルの記述であるが、ヘーゲルはニーチェ以上に難しい。ニーチェはアフォリズムの集合であるからまだしも、西洋の歴代哲学者のなかで、もっとも難解なのはヘーゲルであろう。ヘーゲルを、"屁~出る"といったように、頭を抱え込むほどに理解できない哲学者である。

したがってヘーゲルを書くのは躊躇われるが、難しいことを避ければいい。さて、大哲学者で独身が多い中、唯一ヘーゲルは妻を娶ったが、これは哲学者にして大変に珍しいことだ。独身を通したイギリスの哲学者ベーコンは、「最良の仕事、社会に対して最大の価値のある仕事は、 結婚をしなかったり、あるいは子供を持たない人たちから生まれている」と言っている。

ベーコンは1561年生まれ、ヘーゲルは1770年生まれだから、当然にしてヘーゲルはベーコンの言葉を知っている。気にもしなかったろうが、確かに独身でいるのは、家庭を守ることにとらわれず、好きな生き方ができるのができるという利点はある。ニュートン、プラトン、スタンダール、ボードレール、ムンクらも独身で、オタク的に一つのことに没頭できるのかも知れない。

ベーコンの決めつけ言葉とは裏腹に、ヘーゲルは結婚しても立派な仕事ができることを証明して見せた哲学者である。1831年に61歳で死去したヘーゲルだが、21歳も年下の貴族の名門令嬢(名はマリー)と結婚したのは41歳のときであった。これは晩婚といっていい。当時ヘーゲルはギムナジウム(高校)の校長をしていたが、二人は表面上は熱烈なる恋愛だったといわれている。

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20歳も年下の少女に40男がどう近づき、どう口説いたのであろうか?ヘーゲルはこんな手紙を書いている。「私に対するあなたの愛だとか、あなたに対する私の愛だとか、そういう風に分けて言うことは、区別を持ち込むことになって、私たちの愛を分断することになります。愛は私たちの愛でしかありません。区別することはよして、この一体性をかたく守りましょう」。

二人の年齢差は障害でなく、愛は愛であり、二人にとって1+1=2ではなく、答えは「1」だと言っている。結婚してほどなく、ヘーゲルは友人にこう書き送っている。「これで私は地上の目的を達成した。仕事と愛する妻を手に入れれば、この世ではすべて片がついたことになる」。これはもうのろけというのか、若い妻を手に入れてよほど嬉しかったのだろう。

年齢差は問題なく、ヘーゲルは幸せに浸っていた。結婚した彼がまず始めたのは家計簿をつけることだった。当時ヨーロッパで一家の主人が家計簿をつけるのは普通だったのか、特異なことだったのかは不明である。死ぬまで毎日記入し続けた家計簿はこんにち現存しており、定期的に宝くじを購入しているのも興味深い。結婚とは何か?「性行為の社会的認知である」。

昔はこのように言う者が多かった。「ただでやれる相手を所有」などという者もいたが、女遊びの多かった自分にとって、結婚の目的は社会的な承認を得ることだった。言っておくが性行為に社会認知ではない。結婚することで箔がつく、一人前と認められる、それと自分の子どもの顔が見たいというのもあった。自分の子がどういう顔をしているのかという興味は強かった。

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したがって、相手は不細工では困る。そこの点を強く重視したのは間違いない。恋愛と結婚は別であり、結婚は日々の日常である。したがって、特段強い愛がなくても結婚はやれるという考えにあった。哲学者で結婚したヘーゲルも、どうやら、「結婚」を、自己の野望を実現するものであったらしい。愛の欲望は対象を求めるが、結婚というのは恋愛と違って社会認知性が強い。

好きな相手といつも一緒にいたい。好きな彼氏においしい料理をつくってあげたい。相手のすべてを知りたい。抱きしめたい。二人の子どもを宿したい。守ってやりたい。などなど、こういった愛の感情は心地いいものであるが、反面において、苦しみや絶望や嫉妬や憎悪などのの要因となる。"ゆうこりん"などと戯言時代の小倉優子が、妊娠中に夫に浮気されたという。

おっとり口調のゆうこりんも、「ざけんじゃね~」と激怒したらしく、"ゆうこりん"などと舌ったらずで言ってる情勢ではない。今年6月に第2子の妊娠を発表した矢先の不倫報道であり、夫は肉体関係を否定しているが、身重な妻の知らぬところで、密会を繰り返すこと自体、言い訳が女々しい。しかも相手は小倉の事務所の後輩タレントというから、事実ならば「新ゲス不倫」。

相手とされる女性は早々に事務所を解雇されているが、誤解というなら解雇はない。決して芸能界だけが不倫の巣窟ではないし、芸能界を週刊誌が嗅ぎまわるだけで、100m歩けば不倫に突き当たる時代である。結婚してすべてを知り尽くせば、知らない女に興味の矛先はいくだろうし、妻以外のパンツの中身を見てみたいのを、我慢することが不倫(浮気)の抑止ということだ。

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「いや~、別に他の女のナニを見てみたいなどないっす!」という男ならいいが、見てみたいのは自然な思いであっても、せっかく我慢しているのに、相手女性にも罪がないわけではない。この男性は妻子があり、ましてや奥さんは妊娠中である。そんなふしだら且つ妻を侮辱するような行為は人としてすべきでないと、そういう倫理観が女にあれば防止できるが、どちらにもない。

だからどちらにも同じように罪がある。誘う男が悪いというのは間違っている。昨日は生協の配達員が妻と浮気をしたからと、ボコボコにされたというが、夫の気持ちも分からなくはない。こんな妻は蹴とばし、追い出し、浮気相手に対して慰謝料は当然とし、勤務中であるなら生協側に損害賠償請求できるわけだし、相手を殴る蹴るに至った夫は妻を愛していたんだろうな。

ここは哲学的にとまではいわずとも、冷静に思考し、判断する方が賢明であった。生協の配達員をつまみ食いするような妻なら、首に縄をつけておいても無意味。相手が上がり込めばいいわけだから…。妻を寝取られているというだけで夫の尊厳はなくなってしまっている。それいしてもなぜ分かったのだろうか?怪しいと感じて夫が探偵に監視させていたのか?

映画『うなぎ』は、近所の奥さんが夫の会社宛に妻の浮気を垂れ込む手紙を出した。生協配達員なら、近所の目ざとい奥様は気づくかもしれない。真実というのは、分かった時点で傷つく者多し。浮気というのは、バレなければ真実もくそもない。「悪は露呈せずとも悪である」という、道徳法則に従う心性としての、「徳」を目指したところで、果たしてそれが人生の楽しさか?

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世俗社会の自然の成り行きからして、まあ、高速道路のスピード違反もそうであるが、道徳の掟に忠実に従って暮らす人が幸福になるとは限らない。逆の言い方をすれば、幸福な生活を送る人が、道徳の掟に従っているとは限らない。道徳の掟に従う心性と、幸福であることがピッタリ一致した状態を、「最高善」とカントはいうが、そんなものは限りなくゼロに近い。


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