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哲学とは「知」を愛する事 ⑫

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いかなる哲学者も、哲学者である前に、現実の生活を生きた一人の人間である。食って、寝て、出して、という世俗的な言い方もするが、人並みに恋もアレもしたはずだが、不思議なことに多くの哲学者は独身を通している。デカルト、カント、ショーペンハウエル、ニーチェ、キルケゴール、パスカルなどの有名人はみんな独身である。が、恋をしなかったわけではない。

ニーチェは生涯に2度求婚している。キルケゴールは婚約までしながら、何故か破棄をしている。これは、「レギーネ事件」と呼ばれる出来事で、婚約破棄をした理由は謎である。キルケゴール自身、「レギーネとの婚約破棄の謎を解いた者は、自分の思想を解くことができる」などと言っている。そこまでいわれれば研究者も謎に取り組まざるを得ず、様々に分析されている。

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「レギーネ事件」についてキルケゴールは上のような奥歯に物が挟まった思わせぶりな言い方しかしていないが、彼の著作から様々な研究の結果、「これ」らしいことは分かっている。レギーネ・オルセンは、キルケゴールと同じコペンハーゲンに住む役人の娘で、彼は知人宅で彼女を見染、愛を告白し、二人は婚約した。キルケゴールは26歳、レギーネは17歳の少女であった。

ところが、キルケゴールは婚約した翌日には後悔をし、一年後に一方的に婚約を破棄し、交際を断っている。キルケゴールは生涯独身を貫いたが、レギーネは数年後、のちにデンマーク領西インド諸島の総督となる人物と結婚し、短命だったキルケゴーより半世紀長生きした。キルケゴールの生涯は、父親から受けた強大な影響ととともに、レギーネなしでは語れない。

彼が哲学的・宗教的思索にふける際はいつもレギーネが念頭にあり、彼のほとんどの著作はレギーネのために書かれている。彼は、「レギーネは自分の著作の共著者」といい、「ぼくの人生は、君についての神話になるのだ」と書いていることからして、終生彼女のことが頭から離れなかったようだ。彼の言葉は決して誇張ではなく、レギーネを愛するがゆえの婚約破棄である。

「う~む」。現代人の感覚でいえば、あまりに真っ正直であり、ナイーブすぎる男としか言いようがないが、人はその時代に生きるものだから、現代との比較は意味をなさない。ドンファンは17世紀スペインの放蕩児だが、架空の人物であり、カサノバは実在するイタリアの漁色家である。時代といっても男もいろいろで、哲学者は真面目でお固いと考えるべきかもしれない。

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哲学者は物事を難しく考えるのか、物事自体が難しいゆえに難しく考えざるを得ないのか。現代にあっても、簡単なことを難しく考えて躊躇う人間もいれば、何も考えないで行動が先立ち、失敗ばかりする人間もいる。どちらかというと深刻なのは前者で、後者は失敗が多くとも意外に明るい。結婚を難しく考えたら踏み切れないが、キルケゴールはそういう男だったようだ。

キルケゴールは支配的で一筋縄ではいかない父親から、「憂鬱」な世界に育てられた。彼の著作は、「重い心」で溢れており、レギーネとの婚約破棄も研究者からすれば、父親から植えこまれた「重い心」だろうと言われている。親の存在が子に影響するのは昔も今も変わらない。子に引き継がれるのは、主に本能習性のみという動物に比して、人間には「性格」という複雑さがある。

もちろん、犬や猫にも個体別的性格の違いはあろうが、親からの影響というほど親子が密着することはない。むしろ飼い主である人間がペットの性格を作る要因になるのではないかと愚考するが、どうなのだろう。最も犬の個別性格を別の犬が判断するというより、人間が判断するものである。犬は犬の、猫は猫の何を判断しているのだろう?臭いだけ、ではあるまい。

以下は婚約破棄当時のキルケゴールの日記。「もし私が自分の内部を打ち明けなければならなかったとするなら、私は彼女にまことに恐ろしいいくつかのことを明かさねばならなかっただろう」。「恐ろしいこと」とは何か?日記にしたためられた記述によると、酩酊の勢いにまかせて女と関係をもった。もしや自分の子どもが宿され、父親になっているのでは?とある。

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このような不安が結婚に踏み切れないという、当時の時代背景並びにキルケゴールの真面目さに現代人は驚く。あのころ、「やり逃げ」という言葉がなかったわけではない。ドンファンがいい例だし、いちいち避妊などしない場合も多く、相手が支配階級の同じ貴族の娘なら面倒なことになりかねないし、だったら下女などを性欲の対象とした方がよいと、そんな時代である。

また、キリスト教の戒律は厳しく、結婚していない女性が処女を失うことを禁じており、結婚前に処女を失ったら、「悪魔と結婚した魔女」として魔女狩りの対象になったりもした。ましてや私生児は「悪魔の子」と呼ばれた。貴族とはいえ、貴族社会で好き勝手に遊べないし、まあ、中世の女性の適齢期は12歳から15歳くらいで、遊びを覚える前にさっさと結婚させられる。

そのためか未婚の女性はみだらな遊びもできなかったが、代わりというか既婚者は自由し放題。結婚したら女は自由となり、あちこちで遊んでも夫が怒らない限り大丈夫というより、結婚後は浮名を流すのは名誉の一つといわれ、昨今以上に不倫当たり前の時代であった。戦争に行く時は、奥さんに鉄のパンツをはかせて鍵をかけ、その鍵をもって戦争に向かったという。

むしろキリスト教的戒律のない日本の方が乱れていた。戦国時代に来日した宣教師ルイスフロイスは、手紙の中で日本の女性の貞操観念のなさを、「日本の男性はとてもおおらかで寛容だ」と、驚きつつも皮肉を交えて書いている。江戸期の安定時代には、間男(夫のある女性が他の男と関係を持つ。あるいはその男)に対する制裁が増し、不倫妻は切り捨て容認となる。

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妊娠を目的としない生殖外の性行為をする人間は、早くも紀元前3000年ころには動物(ヤギ、ブタ)の盲腸、膀胱をコンドームとして使用した。ただし純目的は、避妊具や性病予防具としてでなく、熱帯病や昆虫の咬刺から陰茎を守る保護具や、セックス時の小道具、あるいは身分・地位のしるしとして用いられていた。女性の避妊具は紀元前200年頃のペッサリーが出土している。

ペッサリーとは子宮の入り口部分で子宮を塞ぐ避妊具で、青銅製でできている。ゴム製のコンドームは1844年、米国のグッドイヤーや英国のバンコックがゴム技術を発達させたことで、現在のゴム製コンドームの原型が出来た。この頃江戸時代であった日本では、性具として鼈甲や水牛の角、革製の甲型などが使用されていたというから、まあ、女性も大変であったろう。

哲学者に独身が多いのは、真面目で硬い性格が災いしてか、女を口説く能力がなかったのではと勘繰る。今でもそういう男はモテないし、女は自分を自然に堕としてくれる男を好むところがある。だから、チャラい優男(やさおとこ)の方が断然モテる。「色男」というのは男前のことではなく、その語源は、歌舞伎で男女の濡れ場を演じる「濡事師(ぬれごとし)」のこと。

色白の美男子に見せるため、顔を白く塗っていたことから、「濡事師」は「色男」と呼ばれるようにもなり、やがて美男子を意味するようになった。あまり使わないが現在では色男=イケメンを言う。俗に「女嫌い」という男がいる。男が男を「あの男は女嫌いのようだ」というより、女が「あのひとは女嫌いみたい」との言い方をよく聞く。男が言わないのは「嘘」だと思うからか。

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女は自分をちやほやしてくれない男を即座に「女嫌い」と判断するナルシシズム傾向がある。自分に魅力がないのではなく、単に「女嫌い」とした方が傷つかないのだろう。まさか哲学者の権化とされるソクラテスの妻が稀代の悪妻であったことが影響してるとは思わぬが、女嫌いの代表といえばショーペンハウエルである。彼には「女について」の以下の記述がある。

「女性の狡猾さは本能的といってもよく、その嘘つきの傾向を全然なくしてしまうことは出来ない。けだし、自然は獅子に爪と歯とを、象には長い牙を、猪には短い牙を、牛には角を、烏賊には水を濁らす墨汁を与えたように、女性にたいしては、自己防衛のために「いつわる力」を与えて、武装させたのだ」。「なるほど」。自分の経験則でいっても女の嘘は我が身を守るためだ。

さらには、「男性には体力ならびに理性として与えた力のすべてに匹敵するものを、女性には、このような天賦の形で授けたのである。それゆえ、女性は生まれつき偽るものであり、従って、賢女だろうが愚婦だろうが、偽ることにかけては同じように巧みなのだ」。などと、そこまで思索でき、言い切るショーペンハウエルであれ、女の嘘を許容する度量がなかったのよ。

確かに嘘をつかれるのは嫌なものだが、「嫌だ、嫌じゃない」という感情的なものを超えて、その嘘が自分にどの程度の実害を及ぼすか否か、そう考える方が、女と一緒にいる上で現実的だ。「あれは嫌い」、「これは嫌い」は子どもの論理で、「実害なきは許す」くらいの方が人間的に大きい。ただし、嘘の多い女は信頼できないので、約束をしたりは自然と遠ざかる。

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あげく、「なんで私の言うことを信じてくれないの?」というバカならうんざりだが、「この人は私の言うことは信じなくなったんだね」と自省し、改悛していくようでなければダメだろう。嘘をつくことの利益はその場、その場であるけれども、失うものもあるんだというのを実感しなければ女の嘘は直らない。自分で考え、自分で判断し、自分で改めるのが救いの道だ。

だから、男は女の嘘を逐一責めない方がいい。相手が主体的に分かるまでゴチャゴチャ言わないのが男の男らしさである。子どもに対しても同じスタンスをとる男は多い。妻から、「あなたも少しは何か言ってよ!」とけしかけれれても、言ってどうなるものでもないというのを男は分かっている。男は言葉と言葉というその場の関係より、心と心という信頼を重視する。

言葉はむしろ心を隠すためのものであって、心と心がつながっていれば、言葉は「代用の具」でしかない。女は「好きといって」、「愛してるといって」と言葉をねだるが、男は言葉を重視しない。「男の一言」もそうであり、「一回言えば済むこと」。だから何度も同じことを言わせるなという言い方を男はする。「一つ」を大事にする。そういうものが希少で価値が高い。

こういう心を理解する女が傍にいると、男はますます男らしく、ガミガミ、ゴチャゴチャいう女が傍にいると、男はますます女性化する。一家に女性は一人で十分。寡黙な父と多弁な母がいるから、家庭はそれなりにバランスが取れている。子どもは双方の思いを理解して育っていけばいいし、目先の心配をする母も、じっと黙って信頼を寄せる父も子を思う親である。

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