「人間は生まれながらの死刑囚である」と、パスカル。言い方はともかく、一切の動物は死を待つ。死刑を宣告されたように、悲しみと絶望のなかで互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間だ。というの悲観主義が、「生」に強い執着とあくなき幸福追求欲をもたらす。人間が幸せになるなら不死でなければならない。
パスカルの幸福論は神秘的領域へ踏み込んでいくが、彼は理性より心情に訴えかける。「理性の最後の一歩は、理性を超えるものが無限にあることを認めることであり、そこまで到り得ないなら理性は弱いものでしかない」。パスカルは自滅し、絶望したとニーチェは言ったが、パスカルは絶望などしていない。誰も及ばないほど幸福を求め続けた人だった。
そして、幸福になることを確信して死んでいったのを次の言葉に見る。「この世には、来世の希望においてしか幸福はない。人はそれに近づくにしたがってのみ幸福である。永遠について完全な確信を得た者にとっては、もはや不幸は存在しない」。これがパスカルのいう「幸福論」であるなら、狂っているとまでは言わないが、到底理性的とは思えない。
彼は理性より心情の人で、彼の思索がいかに飛躍していようと、パスカルと読者の間には、共感という細い糸が張り渡されているのだろう。哲学者や思想家の思索というのは理性をもってなされる。物事を筋道立てて、合理的、論理的に考えることで、この世のすべてが解決できるとの期待感が高揚、斯くの理性信仰が絶頂に達したのがフランス革命だった。
理性は万能か、人間はどこまで理性的でいれるか。カントの『純粋理性批判』は、理性の限界を検討するとの動機で始まり、理性の積極的役割を求め続けたカントが発見したものは、道徳世界であった。純粋理性は先天的、実践理性は後天的・道徳的なもの。『純粋理性批判』で神の存在を否定したカントは、『実践理性批判』では一転神の存在を要請した。
プラトンは人間には「知・情・意」の三つの「イデア」があるとした。道徳は「知」にあらずして「意」の領域、「意志」と「行為」の関係にある。よって、道徳を論じるために神が欠かせない。『実践理性批判』の冒頭に以下定義がある。「実践的原則とは、意志の普遍的規定を含むような命題のことである。そしてこの普遍的規定には、若干の実践的規則が従属している。
これらの実践的原則は、主観がかかる意志既定の条件、主観自身の意志ののみ妥当するとみなす場合には、主観原則であって、格律と呼ばれる」。非常に難解な言葉で、翻訳が下手というより、こうしか訳しようがないとされている。分かりやすく平易にいうなら、「『格律』とは、自分の意志を決めるにあたっての主観的原則である」と、いっている。
「『格律』とは、自分がこうしたいと決めていること」。カントは毎日決まった時間に散歩をした。自分も月に約300km程度のウォーキングをやっているが、距離を決めているわけではない。距離は決めてないが、歩くことは決めているのを格律という。つまり、主体的に、自らの意志でやっている。強制的に命じられるなら、早々嫌になり、続かない。
ウォーキングは健康によい、脳にも良く、「ボケ」防止にもなるなどいいことづくめ。すべての人がウォーキングをする、客観的で普遍的な実践的法則はないものか?のようなことを、道徳格律の中にカントは模索した。そうしたあげくカントが得たものは、「道徳法則の客観的実存性は、理性がいかに力を尽くしても決して証明されない」ということだった。
存在することが証明できないからといって、不存在が証明されたことにはならないし、存在するかどうか分からないに過ぎない。これは「神の存在証明」と同じ理屈。AがBを殺したことが証明されないからといって、殺してないと証明されたことにはならず、やったのかやってないのか分からないが、「疑わしきは被告人の利益」が刑法の原則である。
これで逃れた殺人犯もいようが、無実の者を罰せないために採用する。人間は社会でさまざまな罪を犯す。法に抵触するものから罰のない罪まで実にさまざま。罰があってもお構いなしに罪を犯す。なぜだ?それが行為者の利益になるからでは?罰があっても罪を犯すのは、逃げられる、免れられると思うからだろうが、捕まろうが捕まるまいが罪は罪。
捕まらなければ(露呈しなければ)罪の意識は低い。交通違反も不倫もそうで、カントがどれほど「道徳」を書物にしたためても、誰もカントのいうことなど耳に入れない。カントは存在が証明されないものでも、その存在を信じた人である。我々が死後の世界や、幽霊や、地球外生命体など、存在が証明されないものを信じるように、カントは道徳律の存在を信じた人だった。
カントを読んだ功徳があるとするならそれは何か?先入観からの解放、思考を通じての新たな自己体験、さらには理想に向かっての自覚などか。功利と道徳は対立するが、それも人間かと。己の利害だけで行動する人はいる。人間関係の基本も利害関係か。いかにも功利主義的だが、それも人間である。好きだ、嫌いだ、善だ、悪だと言いながら生きている。
カントやニーチェを読むことで、物事に対して今までとはまったく違う考え方ができる。これを、「精神的に生まれ変わった」といってもいい。それくらい大きな抜本変化は、坂口安吾の読後においてもあった。数冊の恋愛小説を読んだ記憶はあるが、感情がざわつくことはあっても、理性がざわめくことはなかったし、恋愛小説を読んで成長したとの実感はない。
難しい問題や言葉を脳に汗して考える方が面白い。多くの文豪たちもカントを読んでいる。なかでも、ゲーテはカントを読んで、「自分の生涯でもっとも楽しい時期を過ごせた」といい、詩人シラーもカントの美学理論に傾倒、「芸術論」を書きあげた。トルストイも『戦争と平和』を書くにあたって、『純粋理性批判』を参考書に歴史観を作り上げたと述べている。
ドストエフスキーも同書をシベリアの流刑地で読んでいる。日本人作家では埴谷雄高が「カント体験」を直接反映させている。自分もある時期むさぼるようにカントを読んだが、大変な書であるのは多くが認めるところで、読んで分かったではなく、分かろうと努力するために読む。カントは、「凡人は道徳的判断において、きわめて正しい」などと言った。
「哲学者以上に正確である」とまで言っている。哲学者は、アレコレのことを知っているため、かえってアレコレ論議し、結局ことの正邪を決められないが、凡人は、何が正しく、何が正しくないかをきわめて正確に判断するという。まあ、凡人が事の良し悪しを見分けられるなら、難しい道徳哲学など無用だ。しかるに凡人は無邪気でオメデタイという。
持ち上げて落とすなど、性格の悪いカントであるが、正しいことを判断する能力があっても、凡人は様々な欲求や欲望にかられ、誘惑されたり道に迷ったり、だから道徳の学問は必要だという。さらに、道徳哲学は一介の物好きや、哲学者のたわごとではなく、なんびともが、正しく生きるために、欠かせない学問だというところが、さすがカントである。
勉強(知識)のない批判は空虚であり、批判のない勉強は盲目である。学問に勤しむ姿勢と、するどい批判精神とによって、事物や事象を捉えていくのは正しくもあり、面白きこと。正しいから面白いのではなく、正しいことを導く過程が面白い。将棋が面白いのは、勝ったそのことよりも、思考していろいろな指し手を編み出す、そのことであるように。
一切の事は過程が面白い。スポーツ中継を見ないで結果に一喜一憂する。結果は重要でも、結果が面白い訳ではない。将棋の凄い手、スポーツの美技、巨匠の文学や絵画や音楽や建築、思索や思考も凄い。人間礼賛に誘われる。人間が人間を凄いと思うのは、自分も人間であるということだ。野生のライオンを凄いと思えど、人間はライオンになれない。
人間が凄いアスリートであり、人間が哲学の巨人である。技能と英知とジャンルは違うが、人間が高めてきたものである。特に哲学や宗教は、人類が英知として築いてきたもので、そこにはまさに「人間とはなにか」という「人間性の追究」があふれている。しかし、残念なことに、哲学や宗教の対立は人類を滅亡に誘う危険性を孕んでいる。薬はまた毒になる。
「ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。――ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている――」。「神戸連続少女殺傷事件」の少年Aの脅迫文が、ニーチェの『ツァラトゥストラ』や、ダンテの『神曲』からの引用であったのはショックだった。十四歳の少年がニーチェやダンテを読むこと自体、早熟と言えなくもない。
ニーチェに触発されたという犯罪者は何人かいた。歴史学者樺山紘一は、「人を殺す思想がなければ、人を生かす思想もない」という。「人を殺す思想」とは、正当防衛もそうであろう。愛する人や子どもたちが殺されようとしているとき、その相手を殺したい、殺してもいいと考えるのは許される。何に許される?法に許され、実行しても犯罪とならない。
同じ状況にあって、死刑廃止論者は危害を加えようとする相手を殺さないのか?彼らは犯罪者といえども、その生命は尊重されなければならないとの持論を有す。ということは、自分の愛する人や子どもたちが殺されるのを、じっと見ているのか?死刑廃止という考えは、突き詰めるなら正当防衛否定の思想であろう。したり顔でこういう考えを述べる人間がいる。
「対人関係において、あいつを殺さなければいけないという判断や死に値する者がいるという考え方は、人間の尊厳に関わる重要な問題である。死刑廃止は、人間が共同体を作って、その中でいいもの悪いものをお互いにかみ合わせながら、あるメカニックな関係性を形づくっていくという考え方を致命的に壊す」。これはニーチェの引用か、それとも彼自身の洞察か?
「人を殺す思想」は悪、「人を生かす思想」だけが善などと気取っている。死刑廃止論者の考察には、なぜこうも深みがないのか。人間同士の対立関係をも含めた、「ふくよかな関係」を見ていない。同じことは憲法9条に関連する論争にも言える。かつて野党第一党の隆盛を誇っていたころの日本社会党は、現実路線からほど遠い、「何でも反対」の観念政党であった。
毛沢東が日本社会党を指して、「不思議な党」であると言って以降、この言い方は随分流行した。いろいろな意味があるが、ふつうは、"社会民主主義の党でありながら不思議と日本社会党は戦闘的で左翼的"という内容を込めて使われる。土井たか子が死に、愛弟子福島瑞穂も党首を降りた。反日辻本清美はとっくに去っている。まさにご愁傷さまの社民党。