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哲学とは「知」を愛する事 ⑩

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『パンセ』の別名が『キリスト教擁教論』であったとしても、これまで多くの人に読みつがれ、感動を与え続けたのは『キリスト教擁教論』とは思えない内容でしょう。他の外国人はともかく、特に宗教心の薄い日本人は、『パンセ』を半分しか読まない。これでいいのか悪いのかはさて、推理小説を最後から読もうが中間から読もうが、読み手の問題なら、『パンセ』もしかり。

昔、LPレコードを買ったのはいいが、聴きたい曲ばかり聴き、聴かない曲はまったく聴かないということも多だあった。『パンセ』という遺稿集はどういう種別の本かといえば、「幸福論」である。「幸福論」なる本は多く、幸福を求めて「幸福論」を読むのか、読んで幸福な気分になるのか、あるいは表題に偽りありか?書きながら定義はよくない。読み手の自由かと。

「どう読んだか?」については言えるが、「どう読め!」はいただけない。以前、ルソーの『エミール』を出産後の母親に勧めたとき、数日たって「どう読んだらいいのか分からない」と言われ、勧めたことを後悔した。本はやはり、自分で選ぶべきである。「どう読んだらいいのか?」に何と答えたらいいのやら。キューブリックの映画を「どう観たらいいのか?」の質問も同じこと。

そんな問いには答えられない。あえていうなら、「感じるままに読め(観ろ)」というしかない。そういえばカントは散歩を忘れるくらいにルソーを読みふけったが、それほど彼には読む価値があったということだ。学者が一番偉いと思っていたカントはルソーによって打ちひしがれた。その理由は、学者の知性よりも庶民の感性にしばしば真理が宿ることに気づかされたからであろう。

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カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』という著書で、「知性、判断、勇気などは、絶対的に良いというものではない」とした。一般的に「知性、判断、勇気」などは良いものの代表のようにいわれるが、カントを読むと納得できるし、彼はこのように言う。「悪党が沈着冷静になれば、いっそう危険な人物になるだけである」。ダメなものをダメというのは簡単だが、理由が必要となる。

「幸福もそれ自身では善ではない。善意志によって動かない人間にとっては、幸福も堕落のもとになる」。「う~ん」、上手いことを言うというのか、説得力のある言葉だ。ニーチェも、「善とは善意志でなければならない」といった。寄付は善い行為だが、功名心が目的なら「善」とはいいがたい。ところで、人は何のために寄付をするのだろう?寄付は利他的行為である。

隣人愛や同情の美徳を否定し、理想主義までも否定し、何でも手あたりしだいに否定したかのように見えるニーチェは、概ねその通りであるが、問題は、「ニーチェは何を肯定したか?」である。それが判れば一切の価値を否定したニヒリズム哲学であるとの誤解は吹き飛ぶことになる。同情をあらゆる角度から否定したニーチェが、それと同じ強さで肯定したのが友情である。

「友情の多くは見せかけであり、恋の多くは愚かさであるにすぎぬ」と言ったのはシェイクスピア。彼は48歳で断筆後、3年の隠居生活の後に世を去った。遺産の分配で妻アンにはベッドのみということからして不仲であった。友情、恋愛と聞くと永遠に美しいもののようだが、彼は疑いの目を向けている。そこに、人間の虚偽とエゴイズムを見たからで、友情とて欲がからむともろい。

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「借金の依頼を断って友人をなくすことはないが、お金を貸すと友人をなくす」。世間の常識のようなこの言葉の主は、ショーペンハウエルである。友人と借金について昔も今も変わりない。「恋愛に年齢はない。それはいつでも生まれる」と、パスカルは美しい言葉は現実的である。アランにあってパスカルにないものがあるとするなら、それはユーモアであろう。

「言い訳探しする者は自分に満足できない。自らの過ちに立ち向かい、『自分はバカだった』と言える者は、過ちを消化し成長する」これは現実的であり、もっとも好きなアランの言葉。将棋をしていても言い訳する人は多い。将棋ごときでつまらぬ自尊心に一喜一憂するようで、もっともっと遊びだと思えばいいことなのに…。「言い訳しても強くならないだろ?」などと言っておく。

同じように「幸福論」を読んで幸福になるのだろうか?アランは、「幸福は自分が引き寄せるもの」が土台のようだが、アランに限らず誰でもそう考える。降って沸いてくるような幸福などはない。パスカルは人間は弱い生き物という前提で、その弱さを明らかにするために書き続けた。そして、世の中を冷静に見つめることで、「理性こそ万能」という考えに危うさを確信する。

だからか、おいらくの恋さえ推奨する。というよりも、感情の発露は人間にとって年齢を問うことなく自然なことであり、「われわれは理性によってのみではなく、心によって真実を知る」というように、この言葉はいかにもパスカルの現実的な思考の現れであろう。人生には選択は必要だが、だからといって、その選択が理性に基づいたものといえるのか、懐疑的である。

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所詮人間の判断というのは、環境や習慣などの外的要因に大きく左右されているとし、人間の限りがない願望を見越したパスカルは、「人間はいかなる選択をしたところで、常に『この選択で良いのか』と悩み続ける」と述べている。確かに、それは言えてる。良い選択であっても悩みは尽きない。浮ついた言葉による浮ついた生でなく、不幸の自覚から幸福論が始まっている。

まったく幸福な人間は幸福を求めたりはしないものだ。幸福論を考えるにあたっては、人間に幾分かの不幸が必要であり、不幸の自覚から幸福論は始められる。パスカルの幸福論も、人間がいかに不幸な存在であり、いかに悲惨な状態に置かれているかを描きだすところから出発する。「人間の生活は、不断の迷妄に過ぎない。人々は互いに欺き、互いにへつらう。

誰も我々の面前では、我々について、陰で言っているようなことは言わない。人間同士の間には、かかる相互の欺瞞に基づいている。陰で友人が言ってることを、お互いが知ったならば、たとえ真心からの感情を交えぬ言葉であったとしても、それに耐えうる友情はまれであろう。ゆえに人間は、自己においても他人においても、偽装、虚偽、偽善であるにすぎない。

人は他人から真実を聞くことを欲しない、他人に真実を語ることを避ける。正義と理性から遠く離れたこれらの性情は、人間の心のうちに生まれつき根ざしているものである。」パスカルが強調するのは、人間がいかに自分自身を欺いて生きているかである。自分を欺く人は他人を欺く。自分を欺かぬ人も他人を欺く。他人もまた自分を欺く。それが人間社会というもの。

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そこが前提にあってこそ、「さあ、どうすべきか?」の幸福論が必要になる。虚飾の言葉を散りばめてみたところで、現実の苦悩や不幸は改善されることはない。パスカルの記述の最大のテーマは、人間の「死」である。彼は遺言書においても、「死より確実なものはなく、死期より不確実なものはない」と述べているが、人間の幸福論とは、死を自覚することから派生する。

幸福を求め続けたパスカルの人生は幸福だったのか?決してそうではない。なぜなら、彼の人生は病気とともにあった。その理由として、計算器の開発に精神と肉体を酷使したことによる。18歳から以降パスカルは、一日として苦痛なしに過ごした日々はない。姉のジルベルトはパスカルの耐えがたい頭痛、胃痛、脚のしびれや便秘に悩まされ続けたことを伝記に書いている。

上を見ればキリはないし、下には不幸な境遇の人はたくさんいる。「上見て暮らすな、下見て暮らせ」の語源は江戸時代あたりの言葉と思っていたが、Wikiには、「上見て暮らすな、下見て暮らせ」について、「近世の為政者がこうした旨の蝕を発した記録はない」と書かれている。誰が言い出したとともかく、質素・倹約に生きるためには、よい言葉に思えてならない。

自己実現欲求の果敢なアメリカ人には向かない言葉だろうが、だからと言って銃で脅して金品をせしめるような社会は野蛮すぎる。何事「中庸」というが、それが難しい。パスカルは『パンセ』の宗教部分の随所に「恩寵」をめぐる問題について書いている。「恩寵」とは、神が人間に与える恵みで恩恵ともいう。人類を救うために神が人間に与えた力というのが宗教解釈。

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恩寵をめぐる問題がなぜに大事かは、それが人間の幸福をめぐる議論に他ならないからだ。またパスカルは、「神なき人間の悲惨さ」ということを述べているが、パスカルは死の直前まで、病床の身でありながら教会を回り、子どもの面倒をみた。天然痘の子どもを抱えた貧しい一家のために自宅を明け渡すなど、利他愛に尽くした。彼は密かに神の恩寵を信じていたようだ。

キリスト教の信仰によって死を克服しようとしたパスカルの最後の言葉は、「願わくは神が私をお見棄てになりませんように…」だった。死因は腸結核とも全身に転移したがんともいわれているが、ハッキリしていない。誰も及ばないほど強く幸福を求め続け、誰よりも幸福になることを確信しながら死んでいったパスカルをニーチェは、「自滅し、絶望したパスカル」と評した。

ニーチェは意地悪くいったのではない。神の加護や恩寵は、反キリスト者ニーチェの頭に目くそほどもなかった。確かに現代人にとって新しい幸福論の最良のテキストは、『パンセ』であろう。パスカルはこう売り込んでいる。「ほかのことで随分無駄に費やしている時間を、少しでもこれを読むために割くべきだ。それに対してどんな反感を覚えようと、何かに突き当たる」。

「『パンセ』を読め!」とは、いささか傲慢に思えるが、パスカルの短い生涯において心血を注いだという自信の現れと推察する。ためになるからでなく、批判も人を作る。「可もなし」、「不可もなし」なら読む価値ナシ。ノエル・ギャラガーが、新譜リリース時に、「買うな!俺ら、もういらないってくらい金持ってんだから」と吐いた。こういうパンキーな人間もいいね。

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