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正月は冥途の旅の一里塚

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正月の挨拶は「明けましておめでとうございます」が一般的だが、何で明けるとめでたいのか?こういう疑問をもつ人はもたない人より若さの偏差値が高い。物事をたんにやり過ごす、素通りさせる人もいるが、世の中の当たり前のことや、語句や、文化や、しきたりに疑問を持つ感性はその人の若さを示している。子どもがあらゆることに疑問を抱くように。
 
「何で明けるとめでたいのか?」に、これが正解というものはない。「別に明けたからといって、めでたくも何でもない」という人もいるだろう。その場合、そういう人はオカシイ、偏屈、変わってるとどうしていえるのか?年が明けるとめでたくなければならないのか?単に多数派に回っているだけではないのか?と言われると、そうであるとも言えるからだ。
 
至って自分も少数派であり、「明けましておめでとう」は慣例句として言うけれど、心からそう思っているわけではない。誕生日を祝うのも、国旗を掲揚してまで祝祭日を祝うのも、昔の人は素朴に感慨はあったかも知れぬが、現代人にはそういう感性は劣化している。その意味においては自分も現代人である。年が明けてなぜめでたいに答えはないので人の意見を拾ってみる。
 
「旧年が明けました。体に問題なく健康に新年を迎えられておめでとうございます」上記を略していっている言葉です。要するに汚くいえば「死んでなくてよかったね」です。でも今そんな意味で使っている人はほとんどいないと思います。慣例になってるから使ってるんです。」
 
「自分や家族達の将来が、さらに輝くようにと目標や意識を改めて認識することです。本来なら、毎日今日一日の反省と目標を立てなければ成らないのですが、悲しきかな凡人には到底無理なので、年の初めにやっていますね。日頃神や仏をあまり信じていない人でも、初日の出や初詣に行くのは、それにより心身が清められ、清々しい気分で自分の目標に立ち向かう元気が宿り、めでたい気分になるのではないでしょうか。」
 
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「金銭の支払いが滞り年が越せない人も多々いる中で、年を越せるということはそれだけでめでたいと言えるのではないかなと思います。貯まった付けを支払えなくて年を越せない人もいたようですし……。」
 
「昔は1月1日に日本中の人々の年齢が増えるシステム(数え歳)でした。元旦が今で言うところの誕生日の感覚です。だから周りの人に「おめでとう」と言い、人から「おめでとう」と言われる国民的一体感がありました。私は50代半ばですが、地方(九州)だったせいか、子どもの頃は全体的にそういう雰囲気でした。年齢を聞かれると数え歳で答えるのが一般的でしたから。」
 
「新年はなぜめでたいのか?」は、「誕生日がなぜめでたいのか?」と同じです。というのも昔は年齢の数え方がお正月を基準とする「数え年」で、正月で皆が一斉に歳を取るのです。昔は今と違い、ちょっとした病気で死ぬこともありましたから、どういう形であれ新年を迎えることができるのはめでたいことだとお互いを祝うのでしょう。
 
他にも新しい(歳)神様がやって来るから、など様々な説があると思いますが、新しい年を迎えるのはどこの国でもお祝いムードになっています。よって「明けましておめでとう」は、新しい年を無事に迎えることができたことを祝うのがいちばんの理由だと思います。」
 
「あけましておめでとう」も、「ご入学おめでとう」も、「無事に(その時期を)迎えられておめでとう」ではないでしょうか。同じような意味では「お誕生日おめでとう」もそうだと……。子どもの頃ならともかく、オトナになったら誕生日はちっとも嬉しくないですが、その年齢まで生きていることは祝われるべきでしょう。」
 
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と、これらが代表的な回答であり、それほど種類があることもなく限定されているなら、これを正しい答えといっていいのだろう。つまり、無事に一つ年をとった(数え年)、健康で新しい年を迎えられた、風習に慣らされた、などどれも間違ってはいない。これ以外の答えをあえて思考、模索するようなことでもあるまい。昼時前であっても、「お早う」というのと同じこと。
 
小学校のときに面白い先生がいて、遅刻してきた生徒に「おそようございます」と声をかけると評判だった。遅刻を注意するでもない、たしなめるでもない、教師の方から率先して「おそようございます」と丁寧語で語りかけるのだが、当時は面白い教師という以外は何もなかったが、なかなかよい教師に思える。絶対に怒らないということでも子どもに人気があった。
 
遅刻した生徒を叱咤しするのが遅刻を防止する教育なのか?と言われるとそうとも思えない。ましてやこんな挨拶を子どもに投げかけては教育にはならなのでは?というのも異論がある。軍隊と言う非条理の世界では、理屈が通らない。理屈というのが手前勝手な言い訳と感じるなら、「道理」と変えてもいい。道理の通らない世界で、当たり前の返答をしても文句だといわれる。
 
「飯は食ったのか?」
「はい!」
「眠ったのか?」
「はい!」
「だったら、なぜこれをやらないのだ、バカもんが!」
「ダー!」バシーン!(←ビンタの音。猪木じゃないっつうの)
 
要するに、飯を食い、寝る暇があったら、なぜ、言われたことをしないのか。ということである。さらには教えてもらっていない事でも怒られる。上官の命令には絶対服従、逆らうことが許されない。「無理偏に拳骨と書いて上官」と読む世界である。そういう中で山本五十六大将の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」は光輝く名言である。
 
 
遅刻した生徒に「おそようございます」と頭を下げる女性教師は、山本五十六の教えを踏襲しているようだ。知られていることだが、山本は誰よりも戦争に反対した男である。当時彼は連合艦隊司令長官として真珠湾奇襲を指揮したが、アメリカとの開戦には始終反対をし、自ら望まぬ対米戦争に埋没していく。そんな山本には面白い人間的エピソードがある。
 
「博打をしない男はろくなものじゃない」と言う言葉を残しているが、その真意とは何だろうか?を思考してみた。確か山本は無類の博打好きであったといわれている。将棋でもトランプでも麻雀でも、金銭をかけるとさらに強さを発揮したという。自分も麻雀は当然にして将棋もトランプも金銭を賭けることで真剣みが増す方を好むが、将棋は同レベルでないと賭けができない。
 
トランプは偶然性も大きく、金銭を賭けて子ども相手でも早々勝ち続けるのは至難。トータル的には頭脳明晰側が勝利するし、将棋はともかく偶然性が大きいといっても麻雀、トランプは思考ゲームと思っている。山本には以下のエピソードが知られている。大正12年(1923年)6月、山本五十六が中佐時代に井出謙治大将の随員として欧米視察旅行に出かけたことがある。
 
その際に南フランスのモナコに立ち寄った。山本中佐は、モナコのカジノでルーレットを何度も大勝した。その結果、モナコのカジノ協会から出入り禁止になったといわれている。このエピソードに関して後、上司の井出大将に対して、「私をヨーロッパに2年ほど遊ばせてくれれば、戦艦の1隻や2隻を造れるだけの金を稼いできますよ」とうそぶいていたと言う。
 
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山本の博打に関する持論は、「私利私欲を挟まず、科学的数学的でなければならない。」である。この持論と「博打をしない男はろくなものじゃない」を融合させると、「人間の欲は科学的数学的見地から頭を働かせて実現するもの。我利我利亡者的な欲とは一線を画すもの」という答えが導かれるが、これはあくまで自分の解釈である。トランプも麻雀も将棋も洞察である。
 
相手の手の内を読むという能力が必要になり、それをすることによって育まれ、磨かれる。これに山本の持論、"私利私欲を挟まず"を加味すれば、「敵を知り、己を知らば100戦100勝」の『孫子の兵法』につながっている。敵は常に相手と自分、己の感情と戦わない限り勝負は勝てない。博打やギャンブルはどうしても感情が高ぶるが、それを抑制する術をまた博打から学ぶ。
 
酒はやらず、女と博打を愛した山本には河合千代子という愛人がいた。新橋で梅龍と名のる芸者で、河合によると、宴会の席で威張っていて無口だった山本を誘惑しようとしたが、逆に彼女の方が参ってしまったと。山本は多くの手紙を河合に書き、1941年12月4日、山本はバラの花束を河合に与え、翌日の手紙で「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている。
 
その真珠湾攻撃は4日後の12月8日であった。山本は時として5日を空けず千代に手紙を送っていた。山本を「情の人」と世間は言うが、千代との事はこの面の極端な現れである。ミッドウェー海戦という日米の雌雄を決する戦いの前に送った恋文は、「今度は獲物(空母のこと)は少ないと思います」と作戦と本音まで書いているのは如何なものかとの私的もなされている。
 
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軍人山本にはほのかで甘い恋愛体験がなかったろうが、当時の軍人の多くが同じ境遇にあった。大作戦を前に、愛人とのあまりに腑抜けた手紙は、「情の人」で済まされる問題といえぬあまりの行状である。戦後は意図的に山本の神格化、偶像化が顕著でこのような事実は隠匿されていた。津本陽の『下天は夢か』に同様の信長像が描かれており、人間的といえば人間的である。
 
 山本が戦死したとき、千代子は海軍省から自決をせまられたが拒否、山本から千代子へ宛てられた手紙は十年間に30cm以上の高さになっていたが、国葬の前日、昭和十六年以降の分が海軍省へ没収された。その後、「全部焼却するように」との命令が下り、千代子は心に残る十九通だけを残してあとは焼いた。千代子は平成元年(1989年)に死去し、山本の遺髪と共に葬られた。
 
この手の話は批判もあろうが、人間の真実を表すものだ。「英雄、色を好む」というより、軍の頂点を極めた男の純愛に思えてならない。生死の表裏を生きるものの慰めとしての女性もまた、女性としての高貴な価値を現している。1943年4月18日午前6時、ラバウル基地を発進した第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機の山本は1号機、宇垣参謀長は2号機に搭乗する。
 
零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。偶然に山本長官搭乗の一式陸攻の墜落を目撃した日本陸軍第六師団第二十三連隊連隊長浜之上俊秋大佐は、山本長官機とは知らず捜索と救助命令を出す。最初に現場に到着したのは歩兵砲中隊・浜砂少尉の部隊であった。
 
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浜砂少尉によれば、山本は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然と戦死していた。彼は死に赴くとき、天皇陛下の尊顔よりも終始千代子との思い出に心を費やしたであろう。「おかあさん」と叫び、あるいは、愛する妻子の写真を握り締めて戦場に散った若き兵士と同じ心情である。後年、戦争はその邪悪性を隠匿するために美化される。
 
が、真実の戦争とは、実は人間的なものであろう。山本への批判は仕方がないが、米英との戦いに真っ向反対した山本自身の自我との戦いは世に出ない。兵士は、国家のものというが、兵士は、軍人は、個々己のものである。軍人にとって、「老いて楽しむ人生」などあろうハズもない。常に死と表裏の生である。平和な時代は余程のことがない限り死と表裏という生はない。
 
プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎は「高齢者には無理という固定観念を疑え」と言う。日常さまざま生かせられる言葉で、三浦はこれを父と息子から得たという。三浦の父は77歳の喜寿でキリマンジャロ登頂、88歳の米寿でヨーロッパ屈指のオートルート(山岳スキールート)であるシャモニー~ツェルマット間(全長120km)の完全踏破に成功、"スーパーじいちゃん"の異名をとった。
 
二男の豪太は日本モーグル界のパイオニアとしてワールドカップを転戦し、94年長野、98年リレハンメル五輪に出場した。特に父の年齢を超えた挑戦は、三浦にとってお手本になる目標が身近にいたということだ。1937年生まれの三浦は1970年にエベレスト大滑降に成功したが、命がけの挑戦だったという。平均斜度50度の斜面を数百メートルも滑降するなど凄いの一言。
 
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2003年にはエベレストに世界最高齢(ギネスブックに掲載)となる70歳7か月での登頂を果たすと同時に二男豪太との日本人初の親子同時登頂も遂げた。2008年にも75歳でエベレストに再登頂した三浦は2013年5月、3度目のエベレスト登頂に成功した。これはエベレスト登頂の歴史で最高齢登頂者となる。どれくらい凄いことかの実感はないが、凄いことなのだろう。
 
自分が80歳になにができるのか?ではなく、何をしたいのかが大事であり、それがあれば節制したり計画を建てたり、努力もするのだろうが、その年齢まで生きていられるかである。凄いことでなくともいいから、やりたいことが見つかればhappyではないだろうか。「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」は一休さん(一休禅師)の歌。
 
正月が来たからと人々はめでたいといっている。しかし禅師から見れば、皆は夢に酔いしれて浮かれているが、生きているということは、少しずつ死んでいるということである。人生はすべて夢まぼろしの連続なのだ。「本当の人生の歌に早く気づかねばならぬぞ…」、と禅師は教えてくれている。平均寿命(男=80.21、女=86.61)が伸びたとはいえ、タカだか80年の人生だ。
 
長いと感じるか、短いと感じるかはそれぞれだが、いずれにしても二度とない(生まれ変わりがあったとしても、前世の記憶がないなら一度であろう)人生だ。楽しむか、苦しむか、といわれれば楽しく過ごしたい。そのためにどうする、どう生きる、を人は考えていくしかない。意思とは裏腹に苦しいこともあるだろうが、その暁には必ずや陽も射すだろう。
 
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