ドストエフスキーは哲学者ではないけれども、「人間とは何か?」という巨大且つ哲学的な問いに心血を注いだ思想家であり、小説家である。彼の『地下室の手記』(原題『地下生活者の手記』)は、一度読んだ後に誰かに貸したまま行け不明になったが、異様で哲学的な内容であった。ネットの立ち読みフロアで読むと、かつて読んだ記憶とは大きく異なっていた。
人間の内的世界を深く掘り下げた、『死の家の記録』から代表作、『罪と罰』へといたる道程の著作であろう。自らを地下生活者と名乗る男の独白で、「私は病的な人間だ…私は意地悪な人間だ。私は魅力のない人間だ。どうも肝臓が悪いらしい。もっとも私は自分の病気のことなど何も分かっていない。一体どこが悪いのか、それさえ確かなことは分からないのだ。」
かの書き出しで始まるが、これは小説で彼自身を述べた手記ではない。主人公の「私」はドストエフスキー自身ではないが、「自分が一杯の紅茶を飲むことに事欠かないなら、世界が滅んだってかまわない」と、このようなセリフは徹底したエゴイズムならではの発想。『地下室の手記』の「私」はドストエフスキーではないが、徹底して地下にこもるドストエフスキーが発する言葉。
利他主義を批判するニーチェは、こう述べている。「利己主義は悪ではない。なぜなら、『隣人』の表象は、われわれにあってきわめて微弱であり、われわれは隣人に対してほとんど石や植物に対するように自分を自由で責任のないものと感じているからである。他人が苦しむということは学ばれなくてはならないことである。」(『人間的な、あまりに人間的なⅠ』より)
自分の利益を犠牲にしてまでも、他人の利益や幸福を求める、いわゆる、「利他主義」といえども、「そうすることが当人にとって満足が得られるから、利他的行為を行うのではないか」という反論は言えている。何が当人にとっての利益になるかという「利益の内容」が違うだけで、利他主義も利己主義や自己中心主義と構造的に変わりない以上、利己主義批判は意味をなさない。
これに反駁を試みるなら、「そもそも利益とは何か?」を定義すべきであり、この場合の「利益」とは、個々の趣味や価値観の相違を反映したものである以上、原理的に決着をつけることは不可能であろう。ドストエフスキーをニーチェの後継者と捉えた哲学者(名を失念した)もいる反面、ドストエフスキーの思想を、ニーチェに引き付けて読むのは異論も多いようだ。
ニーチェは伝統的な価値観、道徳観を批判した。であるならニーチェはどういう新しき価値観を提唱しているのか?これこそがニーチェを読む意味といえる。要約すればニーチェが提唱する新しいモラルは、「エゴイズム(利己主義)」であろう。一般的にエゴイズムとは、「我がまま」、「自分勝手」と解されている。古い道徳、特に日本では「我」を抑えるのが美徳とされた。
だからか、自己主張を惜しまない外国人にやられてしまう。「私がまずもって証明しようと思うのは、エゴイズム以外には何ものもあり得ない」というように、ニーチェのエゴイズムという新しい道徳は、「我」の解放をめざすものだ。『ツァラトゥストラ』ではこれまでもっとも悪く言われてきた、「肉欲」、「支配欲」、「我欲」がいかに人間に好ましいかを説く。
上記した3つの悪は、いずれも人間の力強い魂の叫びであり、精神から自然に生み出される健全なる欲求であって、人間にとってこれ以上に確かなるものはない。この確かなるものを信ずることで、初めてニヒリズムを超えることが可能となり、人生も意味をもつことになろう。ニーチェから教わること、肝心なことは、いかにして自分自身に忠実であり続けるかに他ならない。
「後悔を恐れてはならない。後悔を受け入れるか、強い精神力で後悔を排除するか、それが人生ではないか」と先の記事で持論を述べたが、ニーチェはこのように言う。「もっとも後悔すべきことは何か。それは己のもっとも固有な欲求に耳を貸さなかったこと、己を取り違えること。己が低劣なものであると思い込むこと。己の本能を聞き分ける繊細さを失うことである」。
このような真のエゴイズムの欠如を人は失ってはならないとニーチェは教える。「己の本能を聞き分ける繊細さ」とはどういう意味か。人が我がままであるのは、本当に「したい」何かがあるからで、自分が、「したい」何かが判らない人だっている。「したい」何かがあって、それで、「我がまま」に生きるというなら、「我がまま」に生きるというのは、実は至難なことである。
それに較べれば、「隣人を愛する」ことの自己抑制はいかに容易いことであろう。ニーチェの思想というのは、強烈なナルシシズムに裏付けられた男らしい生き方の探求であろう。ニーチェは「ニヒリズムの哲学」とされるが、「ニヒリズム」は、虚無あるいは虚妄を意味するラテン語で、日本語的に、「虚無主義」と訳され、一切は虚無であることを主張する主義の印象だ。
理想を信じるのが、「理想主義」であるように、ニーチェのいう、「ニヒリズム」とは虚妄を信じることである。何ものも信じないのではなく、無意味なこと、虚妄なるものを信じることが、「ニヒリズム」である。ルター派の裕福な牧師の家庭に生まれたニーチェが、キリスト教を批判したことは知られている。それはキリスト教がもっとも、「ニヒリズムの宗教」だからである。
「キリスト教はもっとも深い意味においてニヒリズム的である」とニーチェは言ったが、これは逆説的に聞こえるようだがニーチェの思想全体からすると、逆説どころかいかにもニーチェ的である。なぜキリスト教がニヒリズムで、善人がニヒリストなのか?その理由は、キリスト教が虚妄なるものを信仰する体系であり、「善人」もまた偽りのものを信じているからである。
さらには、西欧文明そのものがニヒリズムの信奉者だったと、ニーチェは考えた。つまるところ、ニーチェの哲学は決して、「ニヒリズム」を主張いるのではなく、ニヒリズムを批判し、そしてニヒリズムを乗り越えて、真に価値あるものとは何か、意味あるものは何であるかを考えるのがニーチェ哲学の本領である。キリスト教や善人のどこに虚妄が潜んでいるかは先にあげた。
隣人愛や同情といった各種慈善行為に励んできた人、隣人愛を自己逃避の一つの形式とし、ニーチェは彼らを自己喪失者と呼ぶが、それらはこれまでの道徳律から言って美徳とされたものである。「美徳」とされるものの中に偽善を嗅ぎ分け、それを発見するのがニーチェを読む意味かも知れぬが、それを嗅ぎ分けでどうすべきなのか?自分の人生にどう生かすべきなのか?
誰でもものごとを明晰に考えることができた時の快感をしっているはずだ。これこそが、魂の健康の源であり、生きていて本当に良かったと思わせる一瞬でもある。人間はものを考える喜びだけで生きていくこともできる。ギリシャ時代の哲学者や東洋の思想家がそうであったように、混乱した思考は、「知の病」であり、硬い石のようにしか考えられない人間は重病人である。
哲学を、「知のデモクラシー」としたデカルトは、そのような病から人間を解放しようとしたのだった。考えるよりはテレビでお笑いバラエティー番組に興じ、歩きながらポケモン探しに夢中になることも楽しいことのようだ。その楽しさが判らぬ自分は、彼らを否定してはならないというにが自分の考えである。お酒の楽しさを分からぬ下戸が酒飲みを批判しても、説得力はない。
「飲む・打つ・買う」の三態を批判したくば、酒飲みが酒を、博打好きが博打を、色好みが淫売を批判するならともかく。タバコを批判する喫煙者がいないように、人はみな自分のやることを良いと思っているようだ。良いからやる、良くないからしない、これもエゴイズムである。が、良くてもやらない、悪いと思ってもやるという人間もいるから、人間は複雑なのだ。
哲学者を通してどのような自分を発見するかという楽しみでデカルトを読み、ニーチェを読み、「人間とは、自己を啓蒙・開発すべき存在」というメッセージを残してくれたカントを読むのは決して立派なことではない。ゲームに興じて楽しい時間を送るのも、楽しい人生の瞬間であろう。人間は自分の分からないことを批判すべきでない、というのを我々はビートルズから教わった。
人間は脆弱な精神、全弱な肉体の所有者であり、それぞれを頑強に鍛えたいという願望を持っている。だからこそ体力作りに励み、自分を励ますためのアイデアを得るために様々な本を読む。哲学書はもっともそのことを教えてくれるのだ。売らんがために書かれたしょーもない自己啓発本やハウトゥ本にも良いことが書かれてあるが、一度読んで分かる程度のものは底が浅い。
何度となく目を通しても新しい発見があるものは、深い内容と高い芸術性に富んでいる。ベートーベンの音楽しかり、ピカソやゴッホの絵画しかり、ゲーテやシェークスピアしかり、漱石や安吾しかり…。「ベストセラーに名著はない」というが、その理由はそれだけ芸術的価値の高いものを理解する人間がそうそうたくさんいるはずがないというのが真相である。
「全員一致の審決は無効」という、いわゆる、「ミカの弁証法」であるが、「一人の反対者もない全一致」は、偏見か興奮、または外圧以外のなにものでもないということ。ベストセラー書の購入動機もそれに似たものだ。ポケモン大ブームについて、「ポケモンGOの魅力は、"懐かしさ"だと思います。もちろん、最新の技術も凄いけれど、現実世界でポケモンに出会えるのが嬉しい。
でも、『他者にオススメできるか?』と問われたら、私は、『ノー』です。特に、普段からいろんなゲームをやっている人にとっては、“ポケモンを捕まえるだけ”のポケモンGOはつまらなく感じるのではないでしょうか」。と、いう意見は的を得ている。大爆発して、さっと引いていく流行り廃りには本物がないと証明されている。しかるにビートルズは偉大であった。