Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

哲学とは「知」を愛する事 ⑦

$
0
0

イメージ 1

宇宙がビッグバンで始まったとされるが、ビッグバン前にはどうなっていたのか?様々に考察されたが、ビッグバン以前には極小だった宇宙全体が、一瞬で急膨張する「インフレーション」現象が起きていたとする説が、宇宙誕生の謎を説明する理論として有力視されている。2014年3月、インフレーションが起きていたことを示す証拠を発見したニュースが世界を駆け巡った。

米ハーバード・スミソニアン天体物理学センターなどの研究グループによるこの発見を受け、「インフレーション宇宙論」の提唱者である物理学者で東京大学名誉教授で現在は自然科学研究機構長である佐藤勝彦氏は、18日に東京都内で記者会見し、「大変ありがたい話で、30年の技術の進歩で観測が可能になった。本当に素晴らしい時代になった」と喜びを語った。

佐藤機構長は「理論を提唱した当時は、宇宙が始まってすぐのデータが得られるとは思わなかった」と成果をたたえた。今回は重力波の痕跡を検出したという間接的な観測。「今後は重力波を直接測定してインフレーションが起きた瞬間の『写真』を出してほしい」と希望を述べた。昨年のノーベル物理学賞のヒッグス粒子の発見を上回るともいわれている。

さらに同月、米カリフォルニア工科大学などの研究チームが、138億年前に宇宙が誕生した直後に発生した「重力波」という現象の証拠を世界で初めて観測した。これはアインシュタインの予言であり、「インフレーション宇宙論」を強く裏付けるノーベル賞級の大発見で、「今後は重力波を直接測定してインフレーションが起きた瞬間の『写真』を出してほしい」と佐藤氏は希望を述べた。

イメージ 2

宇宙が火の玉で始まったとするビッグバン理論が説明しきれない部分を解決する「インフレーション理論」は、1980年代初めに、佐藤氏や米国のアラン・グース博士がそれぞれ提唱し、広く受け入れられている。科学は現象を解明する学問で、宇宙や素粒子の謎を解き明かすための様々な機器、観測機械を得て、人間がその叡智を駆使して発展していくものである。

古代~近代においては、科学と哲学が現在のように区別されていず、哲学の中にあらゆる知識が含まれていた。当然ながら、現在の科学のいくつかも含まれていた。哲学史の記述は通常、ギリシャのターレスから始まることになっており、そのころの哲学は、すべて自然哲学で、自然の研究に関して現在の物理学者の発想と似たような好奇心、問題の立て方、解き方を持っていた。

これは当然といえば当然のことで、幼児が最初に、「なに?」、「なぜ?」という疑問を持ったとしても、「意識とは何か?」などの疑問は頭に浮かばない。自分の目に映ったり、感じるたりの外界(物理的な世界)に対し、まずは好奇心を持つ。そこから、「世界は何からできているのか」などの素朴な疑問が生まれる。その好奇心なくして自然科学の最初の動機はない。

哲学は「人間学」という主張は現在のもので、カント以前の哲学はもっぱら神の存在である。様々な巨人たちが神の存在証明を試みた。我々のような小人は、「例えば神が世界を創造したとするなら、創造する前の神は一体何をしていたのか? あぐらをかき、あるいはいびきをかいて寝ていたのか?だとするなら(だとするならの証拠はないが)なぜに世界創造を思いたった?


イメージ 3

「神様がこの世界を作ったのだとしたら、その神様は一体誰が作ったのか?」。これは新井白石が江戸城においてキリスト伝道の宣教師にした質問だ。13世紀、トマス・アクィナスによって否定された神の存在証明は、17世紀になったデカルトによって復興されることになる。デカルトは、『方法序説』の第4部と、『省察』の5で、神の存在について論証している。

要は完全性という述語が含まれるように、「存在も神の規定の一つだから、神は存在する」といっている。神という観念を詳細分析すると、「完全な存在」という概念となる。が、「完全にして最高」という観念からは、存在が切り離せない。なぜなら、我々はもともと存在せず、空虚な絵空事などについて、「完全で最高」などといった観念を結びつけるわけがない。

したがって、神という観念には存在が必然的に結びついている。こんな論法は現代人に詭弁にしか映らないが、デカルト自身は、真面目に真剣に論じている。無神論者の自分は常々、神が存在についての議論をするなら、「自分にとって神とは何であるのか」を明らかにしないと議論が成り立たない。「原発反対!」、「原発賛成!」の前に原発の知識なしに議論できない。

「創造者(絶対者)は一人」との意見に賛同できない。善くも悪くも人間一人一人が創造者であり、そうあるべきだから。我々は誰もが創造者である。この世に善いことをする人間はただの一人だなんて、それが神である、神は因果まで支配するというなら、支配される我々にとっては面白くない。少なくとも自分は因果など信じないし、すべては自身の選別で起こること。

イメージ 4

考えて行動しようが、考えないで行動しようが、因果(結果)は同じというなら、ポケモンしまくって楽しく生きたらいいのよ。こんなことをしてる場合じゃない、ゲームに感情移入しても、ゲームの中で生きられるわけではない、こんなのは時間の無駄と考えるなら、考える人生はポケモン愛好家よりも違ってくるはずだ。その違いを信じないで、人生に希望は持てないだろう。

自分はポケモンを批判しない。人が楽しいと思うことを批判したところで、説得力に値しない。「ポケモンに夢中になっていると交通事故に合うよ」も予言ではない。交通事故に合った人でしか後悔はしない。それでは遅いだろ?といっても、合わない確率のほうがはるかに高い。「まさかの時の興亜火災」というCMのように、「まさか」を考える人でなきゃ無意味である。

一つの「因」が、一つの「果」をもたらすなどありえない。ポケモン愛好者には百の「因」、百の「果」があるのだ。確かに「因」は「果」に帰結するが、「ああやったから、こうなったんだ。因果応報だ」などと思う人はそれでいい。そのことを次の人生にいかせばいいことだ。まあ、自分は因果について、「結果が出てから思いつく空想に過ぎない」と考えている。

よくよく考えると、「ああやったから、こうなった」を言ってみても仕方がない。「ああやった」ことは確実に「こうなる」とは言い切れないからで、「ああやる」前に「こうなる」ことを体現はできない。したがって、「ああやる」と「こうなる」という予測を元に行動するか、「ああやる」ことに対するいかなる結果も受け入れる覚悟で「ああやる」べきであろう。

イメージ 5

後悔することが悪いとは言わないが、未知のことに対する結果を知ることはできない。後悔を覚悟でやりたいことを「やる」、あるいは、やったことの後悔は「しない」、この選択をすればいい。さらには、後悔そのものが嫌だから「何もしない」という選択もある。こちらは、何事もやる前からビビる弱い人間であろう。「そう、自分は弱い人間だ」と思うならそれもよし。

「自分は弱い人間でいたくない」と思うなら、上の二つの後悔に向けて行動すべきである。行動は良くも悪くも何かを起こす。「絶対によくなるならやります」などという愚か者は何もしないでクソして寝てるべきだ。行為をどう悔やむかより、行為をどう生かすかで新たな自分が創造させる。繰り返したいのは、我々はみんな創造者である。動物は植物と違って自ら動ける。

自分とは何か?自分の中にある本能とは何か?そしてそれを嗅ぎ分けられるか?ついには行動に移すことができるか?このように自分自身に忠実になれるなら、他人の中傷も茶化しも気にすることもない。自分は自分に忠実に生きれるか、良くも悪くも人間はエゴイストたるべきであろう。そのことで周囲に迷惑をかけることも、社会の制裁を受けることも、自分の「生」である。

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で思い出すのは、強欲な老婆を殺したラスコーリニコフである。「正義」というのは誰にもあるが、ない人もいる。あってもはき違える人もいる。キリスト教の正義もイスラム教の正義も、中国の正義もアメリカの正義も見えるが、日本の正義というのはよくわからない。金魚のうんちに正義があるのだろうか?という感慨。

イメージ 7

この世には真実自由なるもの、真実放恣なるもの、それらは存在しているのか。自由は放恣、放恣は自由という錯覚に陥ることはある。が、よくよく考えるに、自由はいたって苦痛なものであろう。芸術とは自由の領域であるが、逆に芸術は自由を強要されるものでもある。だから芸術家は苦しむことになる。自由を強要されたあげく、束縛と限定にわが身を委ねたりする。

家庭というのは、親の子への献身的な愛情と自己犠牲によって成り立っていると思われた時代もあった。事実はどうあれ、そういう親が多かったようだが、自分の母親は違った。二言目には、「お前のため」などと言うが、一度たりともそう思ったことはなかった。その言葉はまさしく「恩着せ」言葉であった。それほどに親の献身は母親の身勝手な自己妄想の類であった。

子どもに服従と犠牲を要求し、強いる親を見て自分は育った。育てられた部分もあろうが、物心ついて以降は自ら育もうとうとした。親のエゴイズムに沿っていれば家庭は平穏だったろう。それを思うと秩序はエゴイズムを基本によって作られ、保たれるものだ。が、エゴイズムによって支配されたものは、やがてはエゴイズムによって反逆される。これはもう仕方のないことだ。

人間がエゴイストである限り永遠の平和はありえない。「津久井やまゆり園」殺傷事件の植松聖容疑者の動機というのは、他者には判別不能な彼自身に内在する正義であろう。殺された被害者は、彼によって障害の重度が選別されたという。行為そのものは凄惨だが、彼はデリケートな人間である。この事件は『罪と罰』と、もう一つ『くちづけ』という映画を思い出した。

イメージ 6

父が障害を持つ娘を殺すのを法治国家が許すはずがない。理由は法治国家だからである。人を殺していい理由は戦争と死刑。映画の結末は善悪を超えた選択である。植松は園において労働していたからして、犯行に至った複合的な動機は想像できる。純粋な正義の行使とは到底言えない。が、重度障碍者の親族の中に内心「良かった」と思う人もいるように感じる。

子どものころ、自分が死ぬか親を殺すかの選択に直面した。あまりのリスクの大きさを考えると実行できなかったが、あれがもし、事故や疾病による急死ということなら、望外の喜びに満たされたろう。しかし、笑顔を封印し、親を失った子どもという深刻さを演じていたであろう。いや、素直な子どもであった自分は、おそらく上手い演技はできなかったろう。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>