「人間とは何か?」と問えば、「動物じゃないよ」と答えらる小学生もいよう。もう少し上になると、「人間だって動物だろ?」という反論はくる。デカルトやカント、ニーチェなどのような、高貴・高尚な考察はできかねるが、自分も、「人間とは何?」について考えたこともある。というより、「いったい人間は何をしたいのか?」それこそが人間なのでは?と考えた。
年代によって人間観も変わってきたが、今問われる、「何がしたいか?」の前に、「何をしてきたか?」のほうが老いぼれの出す答えより、シビアではないだろうか?確かに、「これから何をしたいのか?」と言われても、「健康に留意し、できたら生活習慣病を予防したい」が、まずは頭に浮かぶ。いろいろ答えはあろうが、真っ先に浮かぶものこそ当面の答えだろう。
「自分は何をしてきたのだろう?」といろいろ過去を回想し、真っ先に浮かぶのは、「自己を作ってきた」ということだ。自己とは何か?自己とは精神である。「人間という動物は、精神があるがゆえに人間である」とデカルトは言った。カントは、「自己を啓蒙・開発するのが人間」の、ようなことを書いている。ニーチェも、「人間は超越される存在」といった。
肉体も人間だが、多くの哲学者は人間を精神ととらえている。肉体を超越して、ムキムキマッチョになれとは誰も言わない。キルケゴールはその主著『死にいたる病』の冒頭でこう書いている。「人間は精神である。しかし、精神とは何か?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己はひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。
あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するというそのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということ。アイデンティティという方が判りやすいか。人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠的なものとの、自由と必然の統合である」。これがキルケゴール哲学の肝心な部分、つまり要点であるが、意味の理解は大変だ。
そこで「自己」を作るということにおいて、何が自己を作る邪魔であるかを考えてみた。その邪魔をいかにして取り払うことが自己を作ることに作用するかを考えたときに、自己を邪魔する確実な存在が母親であった。キルケゴールの文に多用される「その関係」、「それ自身に関係」という言葉。これが親と子、自分の場合、母と自分と考えられた。
自己とは母と自分の関係における関係を言う。自己は母から与えられないし、母の要求する自己は真の自己ではない。精神を自己というなら、自己は自己の精神であるべきで、それを自己と言わねば真の自己とは言えない。自分は、真の自己、自己の自己たる自己を作ることに奔走した。それはあくなき自己を自己足らしめる作業の障害との戦いであった。
「無限性と有限性」、「時間的なものと永遠的なもの」。前者は人間の宿命、後者は親子関係となぞらえられる。親と子は存在する限り親子であるが、子を強権的に従えていた親であっても、やがては子に従うように、その立場は逆転する。立場の逆転というのは言葉のあやで、老齢した親は子どもに対していつまでも権威を振り回すわけにはいかないのだ。
つまり親子の主従関係というものは時間的なもので、時間によって変遷していく。それにしても子どもが幼少であるときの親は、なぜにあれほど傲慢でいれるのか?まさに製造者の特権と言わんばかりに、子どもを奴隷にしたがる親こそわが母であった。いったいに親子関係とはこういうもので、これで許されるものだが、あまりに無慈悲な親もいるにはいる。
親になる資格もなければ免許もない。認定試験もない。だから、親はバカでも親になれるが、バカな親を持った子どもは不幸のドツボにはまるであろう。快感作業の末に生まれる子どもは、養育の義務があるにも関わらず、身命をわが子に尽くすなどと思いあがった、あるいは恩着せがましい言葉を子どもに吐くような親も、バカな親の部類である。
子どもを躾け、育てるのは、子どもの将来を見越した親の社会的責任である。将来を見越すというのは、子どもが社会で卒なく生き、できるなら社会で役に立ち、人から敬愛されるようであるなら、それこそが親の喜びであろう。親の自己満足が親の喜びという親は、バカの部類であろう。社会的に不満のない子どもであることが教育の目的ではないのか?
そのために親がとるべくは、親のエゴを抑制することではないか。親と子は別の生き物であり、それは親の個性と子どもの個性は相容れないという風にも言える。となると、親が自らの個性を没却することが、逆に子どもの個性を尊重することになりはしないか?親が個性的であり過ぎることで、子どもが潰され、壊されるパターンは有能な親にこそ多い。
「一流は一流からは育たない。一流は三流から生まれる」。この事実は「原則」と言えるくらいに示されている。スポーツにしろ、芸術にしろ、学問にしろ、最高の師たる親を持ちながら、なぜに子どもは最高の教育の影響を受けないのか?凡人の親を持った子は高額な月謝を支払い、優れた師を選ぼうとするのに、そういう親を持った子はタダである。
なんとも不思議な現象であるが、これこそが、「一流は三流から」の原則である。つまり、一流というのは、教わって成るという以前に、ひたむきな個人の努力の賜物である。一流の親を持った子が、一流に相応しい努力をするということはない。一流は遺伝しないし、いかに自分が努力をするかではないだろうか。そういえば、自分はある努力をしたことがある。
勉強にしろ、職業にしろ、努力などといえる努力は、「していない」と断言できるが、辛く苦しき努力をしたといえるのが、自己を作ることだった。自己とは自分で他人ではない。従って自己を作るとは他人の意に沿わないということになる。まずは自分を支配しようとする母親に徹底抗戦したこと。親に逆らうことで飯を食わさないというなら、何日でも食わないでいれた。
こんにちの時代、子どもに飯を食べさせないのは甚だしき児童虐待であるが、昔の親は当然の躾け手段だった。「○○するのを止めなければ食事させない」、「○○をしなければ食事させない」。子どもにひもじい思いをさせても自己の主張を通そうとする鬼親に屈せず、自己を貫くことでしか自己は作れない。自己と自己の対決とは、死ぬか生きるかくらいの修羅場である。
そんな親であるからこそ、強靭な自己の子どもが生まれる。それは創生の土壌である。生みの苦しみとは、厳しい「場」にあってこそ、用意されてこそであろう。人間が出産をあれほど厳しくしたのは、生まれた子を愛しむためではないか、とそのように聞いたことがある。真偽はともかく、安易よりも苦しさから生まれた物は、間違いなく価値が高い。
キルケゴールは、「人間とは精神(自己)」といったが、彼と父の壮絶な話もまことに聞くに耐えないものだ。キルケゴールは父について、「私がこれまで知っている最も憂鬱な人間」と語っている。自分も母について、「自分がこれまで知る最も頑強な人間」と脳に記している。「そこまでするか?」。親がそこまでして子どもの自尊心をいたぶるのか?
中学のある日、成績が良いと自転車を買う約束をした。自転車店のウィンドウに置いてある車種という約束だった。自分は親の要求を叶えた。が、親は自分の要求を無視、自転車なら何でも同じだと言わんばかりに…届いたボロ自転車。「約束が違う」。届いた自転車には見向きもしなかった。約束は信頼関係である。それを反故にするのは信頼をなくすこと。
「どうせ乗るだろう」とタカをくくっていた親に虫唾が走るばかり…。自転車に触れもせず、見向きもせずの自分に親は呆れた行動をとる。ある日、学校から帰ると自分の部屋の天井に、自転車が針金で吊られてぶら下がっている。母が自転車店のオヤジに頼んで、自分の目に触れさせるように細工をしたのだが、頼まれた自転車屋のオヤジもバカもいいとこ。
母のバカさは今に知ったことではないが、頼まれたからといって、そこまでするのか?こういうことが子どもの自尊心を傷つけ、歪め、さらには親への信頼を一層損なうなど、考えもしない。そのとき思ったことは正確には覚えてないが、自転車店の大好きだったおっさんまでが自分の敵になった思いは覚えている。「ここまでするか?」これが親なのか?
自分は絶対に降りない、負けず嫌いの母の性分が現れている。この一件もあってか、子どもとの約束、他人との約束は絶対に守ることだけは植え付けられた。約束を破ることの心の痛みが芽生えたのだろう。武士の一言、男の一言はかけがえのないものである反面、女の約束はこんな程度と我が心に収まっている。男の約束は大事だが、女と約束はしない。
キルケゴールは父親のいけにえにわが身を捧げたが、彼は親が子どもに対する絶対的な力を「父親の権能」と呼んだ。父親が子どもをいけにえに捧げる物語は、旧約聖書『創世記』に、我が子イサクを神に捧げるアブラハムの話がある。キルケゴールはこの物語をめぐって『おそれおののき』という著書にした。そこには以下のように記されている。
「アブラハムのなしたことは、倫理的に表現すれば、イサクを殺そうとしたのであり、宗教的に表現すれば、イサクを捧げようとしたのである。この矛盾のなかに人を眠れなくさせる不安がある」。キルケゴールはアブラハムの行為を決して理解に及ばぬが、イサクの不安は自ら体験している。彼はイサクについて、イサクの不安について考え続けた人でもある。
『死にいたる病』の冒頭の文、「自己はひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係」という分かりにくい言葉は、次のように言い換えできる。(自分は、絶望しているか、否か)をいろいろ考え検討するものこそ自己である。自己が絶望の淵にありながら、「自己が自己自身でない」ことにまったく気づいてないケースもある。よって彼はこのようにいう。
「自己が自己自身でないということこそ、絶望にほかならない」。「絶望」は、「憂鬱」とともにキルケゴール哲学の有力なキーワードである。父親から33歳で死ぬという呪いをかけられたキルケゴールは、運命の時間までに手元の財産を使い尽くすつもりで浪費に走ったこともあった。ところが、34歳の誕生日を迎えると、いつまで生きるのかが問題となる。
彼が最後の預金を引き出し、帰路の途中で路上に倒れて病院に搬送されるも、40日後に息を引き取った。42年と6か月の生涯だが、最後の所持金で入院費と葬式代を賄える。自分の葬式代をポケットにいれて死んだキルケゴールは、マッチ売りの少女が最後に残ったマッチ一本で、天に召されたメルヘン的世界観。決してハッピーエンドではないけれど…