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哲学とは「知」を愛する事 ⑤

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「人間とは何か?」これは哲学的な問いの最たるものではないか。だから、これに答えを出せるのが哲学者である。デカルトは動物は機械だといった。時計などの機械は部品の組み合せで規則的な動きをするが、 動物も同様に自然が与えた部品の組み合わせによって機械的な行動をとる。人間も動物だが、人間には精神があるから「単なる機械」ではない。

人間だけが精神(理性)をもっている証拠は、人間のみが言葉を話すからである。つまりデカルトは、「人間は機械であるが単なる機械ではない」とした。カントは「人間とは何か?」に直接答えてはいない。彼の全著作が答えであろうが、彼のいうメッセージを要約すると、「人間とは、自己を啓蒙・開発すべき存在」というのがカントのいう「人間」観であろうか。

人類にとって啓蒙の時代は未だ終わっていない。永遠に終わることもなく、人間はいつも啓蒙時代のなかにある。これがカントの発見である。「哲学は人間学」という主張は当時、画期的だった。カント以前の哲学がもっぱら対象にしたのは「神の存在」というテーマであったが、カントは啓蒙された市民のための哲学を著書『純粋理性批判』にしたためた。

ニーチェはどうか?『ツァラトゥストラ』には、「人間は超越される存在である」という言葉がしばしば登場するが、「超越する存在」を超人とするなら、ニーチェのいう超人というのは、特段ふつうの人間から隔たった存在ではない。簡単にいうなら、自らの主人公となり、あらゆる虚妄から解放され、自己を支配する本来の「己」となり得た人間であろう。

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ニーチェといえば、「力への意志」、「超人」というキーワードに悩まされる。「力への意志 Wille zur Macht 」は、「権力への意志」とも訳されているが、Machtをどう受け取るかによって解釈が分かれるようだ。ニーチェ自身はまったくもってつかみどころがないのである。「力への意志」は、晩年の遺稿集に頻繁に登場するが、『ツァラトゥストラ』にはこんな記述もある。

「およそ、生があるところにのみ、意志がある。しかし、それは生への意志ではなく、力への意志なのだ」。いったい何を言おうとしているのか、この文の意味を確実に理解できる人がいるのだろうか?彼の言うことはいずれも断片的であり、それら断片をすべて集めたところで、何がしか概念ができることはない。Macht とは政治的な意味での権力とは異なる。

突出した概念にはちがいないが、断片集から類推するに、「人間を動かす根源的な動機」といった思想であろう。「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」という彼自身の記述もある。「力への意志」という言葉が、が公刊された著書に初めて出てくるのは、『ツァラトゥストラ』第2部、「自己超克」の章である。

「汎神論」は、神と宇宙、または神と自然とは同一であるとみなす哲学的・宗教的立場であるが、物質一元論の行き着く先は「汎神論」であるという主張は、極めて妥当かつ論理性を持った思想であろう。神は非人格的原理としてのそれである場合が多いように、ニーチェの、「力への意志」というのは、同様に非人格的な「汎神論」といえるかもしれない。

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「ニーチェ → ハイデガー・ユングらパクリ常習犯らによってアクセサリーと化し生きとし生けるものの劇薬なった『 哲学 』を嘆く者でアリマス」。 と、これは先日のあるゲストコメントだが、ユングは深層心理を個人レベルからさらに掘り下げ、人類共通の「集合的無意識」を説いた。そのユングは無意識との対決で、ニーチェとの違いをこう語っている。

「医師の免許を持つ私は、患者たちを助けねばならず、妻と子供たちがおり、キュスナハトのゼー・シュトラーセ228に住んでいることについての自覚、これらの事実がわたしに目覚めているようにと要求し、私が現実に存在しており、ニーチェのような人間と違い、精神の風に吹き回されている木の葉だけではないということを私に証明してくれた。

ニーチェの足が地につかなくなったのは、彼が自分の思想という内的世界以外、何も他に所有せず、さらに、彼が思想を所有していたというよりはむしろ、思想が彼を所有していたからである。彼は根こぎ状態になり、大地の上に遊離していた。だからこそ、彼は極端と非現実性に陥ったのである。この非現実性は私にとって恐怖の本質をなしていた。

というのは、私が目差していたのは、まさにこの世界というこの生命だからである」。ユングは深層心理学の先駆者ニーチェに両価的な態度をとる。ニーチェが外在的な神の死を宣告することで、時代精神を把握したことを評価する一方、ニーチェが神の体験的リアリティを理解しなかったがゆえに、自己神化という傲慢の罪に陥り、狂気の道を歩んだとした。

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ユング(1875-~1961年)と、ニーチェ(1844年~1900年)は同時代を生きたが、ニーチェは45歳の時に発狂、その後10年間は精神の薄明状態の中で生き続け、20世紀の始まった年に世を去った。ニーチェの大洪水のような哲学書は、発狂の寸前まで書き続けられたが、著作には狂気の兆候は見受けられない。したがって、彼の特異な思想は狂気とは相容れない。

ニーチェは現代哲学の出発点であり、20世紀の思想や哲学にもっとも大きな影響を与えた人である。「ニヒリズム」、「永劫回帰」、「力への意志」、「超人」、「価値の転換」といったキーワードを、どう解釈するかはまさに千差万別。ニーチェ以後の学者がニーチェを理解するのにどれだけ手を焼いたことか、それは「永劫回帰」という言葉一つとってもである。

こんな言葉を真面目に受け取るべきか、研究者の見解は二分し、解釈ともなると四分五裂。自分もニーチェから多大な影響を受けたが、中でも彼が14歳の時に書いた言葉が熾烈である。「人間の生涯はひとつの鏡。その中で自分を見きわめること。これこそ第一のこと。われら努めてこのことをなさん」。この言葉のなかにニーチェ生涯にわたる関心事がある。

さらに、キリスト教や善人への断罪である。キリスト教は虚妄なるものを信仰する体系であり、「善人」は偽りものを信じているとニーチェは考えた。一体キリスト教や善人のどこに虚妄が潜むのか?例えば隣人愛である。「自分を愛するように、隣人を愛せよ」と聖書にある。キリスト教に限らず、隣人愛は美しくも永久不滅の道徳律と見なされているが、ニーチェは言う。

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「君たちは隣人の周りに群がり、それをさも美しい言葉で飾り立てる。しかし、私は君たちに言おう。君たちが隣人を愛するのは、君たちが自分自身をうまく愛せないからだ。君たちは自分自身から逃げ出して隣人のところへ行き、それで何か美徳を施したと思いたいのだ」。ニーチェは隣人愛は自己逃避のひとつの形式に過ぎず、道徳律に値しないという。

「いったい君たちの隣人とは誰なのか。いくら『隣人のため』に尽くしても、君たちは隣人のために何かを生み出すことはできない。この『何々のために』を忘れよ。こうした『何々のために』では決して何事も行われないということこそ、まさしく自らの美徳とせよ。君たちの仕事、君たちの意志こそ、君たちに最も近い『隣人」なのだ」。なんと感動する言葉であろうか。

胸の鼓動が高まる言葉である。「隣人よりも自分自身を相手にせよ」、「自分自身のことに精をだせ」と叱咤する。虚妄に満ちた道徳観にとらわれている限り、人生はむなしい、ニーチェは自分たちにそのように語り掛ける。人生に悲哀は感じても、人生そのものを悲観してはいず、むしろ鼓舞しているようだ。彼がもう一つやり玉に挙げるのが「同情」の美徳である。

自分もニーチェに出会うまで、「同情」は美しいものだと思っていたが、同情が人を見下げているという深層心理であるのに気づかされた。いささか誇張した言い方だがこのように言う。「たとえ一日だけでも同情が支配したら、人類はそのために破滅してしまうだろう」。他人の悩みや痛みを共に苦しもうとするうち、こちらも悩みや痛みに侵略されてしまうからだ。

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本当に、本気で、同情すればの話で、形だけ、言葉だけの同情はさにあらず。医師は患者に同情することはない。なぜなら、患者に同情することは、その患者を苦しめている病気を励ましていることになるからだ。医者でない我々とて、不治の疾病に罹患した人に同情する気にはなれない。彼らに同情することで何が生まれ、何がもたらされるというのか?

多くの人は気づかないが、隣人愛と同様、同情には本来の動機とは裏腹の偽善が隠されている。「まことに、私は人に同情して幸福を感じるような憐み深い人たちを好まない。彼らにはあまりに羞恥心が欠けている」。同情を美徳と考え、他人に同情して、さも敬虔な顔をしたがる人に贈りたい言葉である。もちろん、同情を受けることも拒むべきである。

他人に決して同情することなく、他人から寄せられる同情を断固として拒否する。これが「男らしさ」でなくて何であろう。自分の知る限り、女性は他人に同情を寄せ、また他人からの同情を欣求するようだが、なんとも淡く希薄な、なんとも虚妄に満ちた人間関係に思えてならない。他人に、「凄いね」は、余計なことだと思っている。本当に凄い人以外、方便で言う。

無意味な方便も、相手が喜ぶなら効用となる。例えば毎日長文ブログを書く、月に300kmのウォーキングをする。しない人、やらない人、できない人は、「凄いね」という。普通にやってる自分だから、他人に「凄いね」など思わないし、言いもしない。同じことをやる人に、「凄いね」と言おうものなら、自分も凄いことをしていることになる。これって自慢?考えようによれば…

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自画自賛といえば聞こえはいいが、別に自画自賛などしなくとも続けられるし、そんなことする必要ない。特別なことではないのに、相手が勝手に特別だと感じて、「凄いね」と言われるのなら、まさにスーパーマンの心境である。スーパーマンは自分でスーパーマンと呼ぶのだろうか?「私はスーパーマンです」などと言うなら、いかにも調子こいていて大人気ない。

周囲が、「スーパーマンだ!」と騒ぐのはいい、ただし自分で言ってはダメだろう。が、彼は胸に、「S」のマークのシャツを着ている。あれは、「スーパーマン」のイニシャルなのか?わざわざ発注するときに、「S」を入れてくれるようにたのんだのか?発注先は米国だと面が割れてやばい。メリヤス肌着メーカーの福助、グンゼ、あるいはスポーツ用品のオニツカ(現アシックス)あたりか?

いずれにしても、「S」は自己顕示欲の表れならいただけない。せっかく世のため、人のために尽くし、働いているのだから、自らスーパーマンなどと鼓舞せず、胸の「S」など表さず、無地のほうが謙虚で奥ゆかしい。まあ、「スーパーマン」の「S」でなく、シャツのサイズの「S」、「M」、「L」と思ってしんぜよう。そう思いたい。これにてスーパーマンのTシャツ、一件落着衣!


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