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哲学とは「知」を愛する事 ②

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「遊びは一生懸命、学びは遊び心で」。「学びながら遊び、遊びながら学ぶ」と捉えて実践してきたし、ブログも、だから続いている。人間には自ら気づかない、開発されていない感覚や能力がたくさんあるはずで、これを開墾することこそ人間の生きる意義であり生きる目的かも知れない。確かに学問から発見するものは多い。それらを知識といい、知識は使えば役にたつ。

小説を読むだけで発見がある。物語中の知らない場所や土地を知識として得たり、感覚的な発見もあるが、そのような発見は知識とはいわない。哲学書を読む意味は、その哲学者が世界に向かってどのような発見をし、報告をしているかを掴むこと。有り体にいうなら哲学書を読むのは、哲学者が発見したことを読者が再発見することではないだろうか。

しかし、そういう発見も知識といわない。カントが何を書いた、ニーチェがどういう考えを述べているの知るは知識だが、他人にひけらかす以外、そういう知識は自分にとって役立たない。哲学書から得るものは、哲学者自らが見つけた問題の解決に、悪戦苦闘する思考の共有体験から、我々の頭脳を思考の疾風怒涛に晒す。哲学書を読む意味はそういうこと。

philosophy」という語句は、ギリシャ語の「philos」(愛)+「sophia」(知)の結合で、 「知を愛する」という意味が込められた語。即ち、「知を愛する」ことが哲学であり、西周によって作られた言葉であるのは先に述べた。もっとも最初は、「賢哲を希求する」という意味で、「希哲學」とし、それが「哲學」となり、フィロソフィーを哲学と訳すようになった。

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「知を愛し」、「知の恵み」を得る。我々は知識は学べるが、知恵は学ぶことはできず、知恵は体験として身につけるしかない。したがって哲学の対象とすべくは知識ではなく知恵であって、「哲学する」とは、ものごとをよく考えるということで、これ以上簡単にも、複雑にもいえない。実に単純だが、これがいかに難しいことであるか、プラトンを開けばすぐに判る。

政治家になろうとしていたプラトンだが、彼を哲学に回心させた最大の動機は、ソクラテスの刑死であった。「現実は厳しいよね」と人は言う。厳しさとは何か?何を指していっているのか?もし、生きることが厳しいのなら、「生」はそれ自体が現実の中に含まれていることぬなる。働けど楽にならない、人間関係は欺瞞に満ち、善意の人はまるで道端の雑草の如く踏み倒されていく。

プラトンは現実を避けて通ろうとしなかった。ばかりか、より善い現実を生み出そうとした。彼の哲学として名高い、「イデア論」は観念論の典型とされるが、上記した厳しいという現実を自ら作り、その中に埋没するなら、その現実が除き去られるよう努力しない限り、人は与えられた現実に甘んずることになる。現実はうつろいやすく、変化に富み、その時その場に固定していない。

確かに難しい哲学、身近な哲学がある。哲学者でお茶の水女子大学名誉教授の土屋賢二は、週刊文春に長年、『棚から哲学』を連載していたが、あれは身近な哲学、生活の中の哲学だった。学術論文をパロディ化したような独特の作風と、ユーモアに満ちたエッセイから、「笑い哲学者」のあだ名がついた。漫画家柴門ふみはお茶の水女子大時代の教え子である。

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「知」を愛し、「知」の探究者たる哲学者にあって、デカルトは「知」のデモデモクラシーを求めた。古代ギリシャ哲学にあって、哲学的に考えるということは、「難しく考える」ことであった。難しくなければ哲学といえないと思い込んでいる人もいるが、確かにここ数百年間にあって、哲学者や哲学研究者は、哲学をいっそう難しくすることに力を注いできた感がある。

そんな中にあってただ1人、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1560)は例外であった。彼は誰にも分かる言葉で語った唯一の哲学者といえる。彼の哲学において、その分かりやすさに驚かされるが、その理由として、「哲学用語」が存在しないことがあげられる。哲学用語という面倒な定義に煩わされることなく、また哲学用語を厳密に使うための回りくどい表現もない。

したがって、日常的な言葉で記された彼の哲学は、一般的な哲学書から想像されるものがほとんどとなくて、まるで小説を読むと同じように読むことができる。面白い読み物があって、誰がその解説書から読み始める者がいるだろうか。デカルトといえば、「我思う、ゆえに我あり」の言葉を思いつく。これは、哲学史上でもっとも有名な命題の1つであろう。

これほど有名になった言葉はなく、デカルト自身も自らの哲学の第一原理と呼んだ。したがって哲学研究者たちも、デカルト哲学の解明をしたり、批判したりする最大の拠点とした。ところがこの、「我思う、ゆえに我あり」から始めると、デカルトの哲学は途端に難解になってしまう。もっと、もっと、タケもっと…、デカルトの平易な言葉から、デカルトを理解するべきではないか。

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「我思う、ゆえに我あり」の意味は、「私は考える、ゆえに私は存在する」と略されている。この言葉は大変に哲学的で、ちなみに今、誰かとある景色を観たとする。が、二人がまったく同じ景色を観ているかというと、実はそうではない。たとえ目に入る色や形が同じであっても、その色や形の定義自体が同じであるということを、証明することができないからだ。

その論法にそって考えると、世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは一つもないことになる。「在る」ように見える物が、本当に在るのか?ということだが、デカルトは、「そのように考えている思いがあることは確かだ…」と気づく。つまり、世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、今このことを考えている、「自分自身」のみである。

何かを考えているこの自我というのは何なのか?これだけは、確かに自分自身以外の何者でもなく、自分ではないかとデカルトは考えた。ここまで徹底して考え抜いた人、それがデカルトである。「我思う」=自己に内在する自我。「ゆえに」=自我がそのように思うからこそ、「我あり」=私は間違いなく存在しているのだ。自我とは考えているがゆえに「自分」がいる事実。

精神と肉体、存在論、述語的規定といった議論の中で分かりかけたデカルトを遠ざけるのが、「我思う、ゆえに我あり」という言葉。デカルトは哲学を分かりやすく記したが、彼の有名な言葉から入門すると失敗する。デカルト入門に相応しいのは、『方法序説』であろう。著書の冒頭にはこうある。「良識は、この世でもっとも公平に分配されているものである。」


一般的に「良識」とは、社会的な常識の意味に使われるが、デカルトのいう、「良識(bon sens)」とは、物事を正しく見極める能力という強い意味を持つ。彼は、「よく判断し、真なるものを偽なるものを区別する能力」と説明するが、これを知性と言い換えてもいいだろう。デカルトはこのような能力は、およそ人間はみな生まれつき平等に備えているといっている。

彼は主著『哲学の原理』の序文で、このようにも言っている。「私はいろいろな人びとの生まれ持った才能を調べてみて、どんなに粗雑で、頭の鈍い人でも、正しく導かれさえするなら、ほとんどの人が正しい意見を理解する事ができるばかりか、最高の知識一切でさえも獲得できることに気がついた」。なんとも心強いデカルトの言葉ではないだろうか。

これほど人間を勇気づける言葉はないだろう。デカルトは、「他人に分かって自分に分からぬことはない」と強調し、それを補足するかのようにこうも述べている。「自分が他人より無知だと思うようなことはない」といい、さらに大事なのは、「この事実を知る事は、他のいかなる事柄を知ることより大切だ」といっている。もちろん、深い意味ではあるけれど。

バカと利口は間違いなく存在するが、バカは生まれながらにしてバカではなく、環境によってバカになるのだと。デカルトの言葉を再度述べるなら、「どんなに粗雑で、頭の鈍い人でも、正しく導かれさえするなら…」であり、「正しく導かれさえ…」とは、「導かれようとする意思」も反映する。『馬の耳に念仏』という言葉がある。『猫に小判』ともいい、意味は同じ。

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直訳すると後者は、「バカに良い物の価値」は分らない。前者は、「バカに良い話は無意味」という。この言葉に、"バカを導こう"という意思はないように思えるが、デカルトはこの慣用句をどのように否定するだろうか?人間を学名で、「ホモ・サピエンス」というが、意味まで知る人は少ない。「サピエンス」とは、「良識」、「理性」を意味する言葉である。

「ホモ・サピエンス」という学名は、1758年にスウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者カール・フォン・リンネ(1707年5月23日 - 1778年1月10日)によって考え出された。ラテン語の名詞で、「homō」(属格の「hominis」)は、「人間」を意味する。「ホモ・セクシャル」の「ホモ」とはちゃうよ。


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