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哲学とは「知」を愛する事

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哲学は面白い。が、「哲学のどこが面白いのか?」と問われるとどうなのか?答えに窮する。以前マンガ好きに、「マンガのどこが面白いんだ?」と聞いたら、「面白いから面白い」と答えた。子どものような言い方だが、よくよく考えると、「理屈じゃない」という風にも聞こえる。ならば「面白いから面白い」は、なるほど的な答えである。面白いものに理屈はいらない。

ビートルズ旋風が巻き起こったころ、大人たちはこぞって、「あんな騒々しい音楽のどこがいい?」と思ったようだ。それに対して10代のファンが、「どこがいい」、「かしこがいい」と答えられるハズもなかったし、答える必要もない。「いいと思うからいいんだよ」と答えた気もする。「いい」とか、「わるい」とかは、論理的に答えようなどは無意味であって、感性の領域だ。

哲学の面白さは、物事を突き詰める面白さであろう。何かの役に立つから哲学書を読むのではないが、読みながら感激し、感動することが多く、それも面白さの要因である。読み手を感動させる事は、良書の持つべき基本の条件であり、マンガも哲学書も読めば感動し、感動するから面白いということだ。哲学書を読んで、「新しい感覚が自分に備わった」という感動がある。

読んで面白いというだけで、哲学に何かの効用を求めているわけではないが、漢字だらけでお経に近い文章で、普段使わない言葉も多く、何が面白いのだ、やっかいなだけという人もいる。しかし、やっかいな哲学の世界は人間の避けられない宿命と言える。なぜなら、ものを考えない人間はいないからだ。ひとたびものを考えるなら、より正しく、より深く考えるのを目指す。

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そしてついに哲学に突き当たる。つまり極めるという意味での哲学という言葉は、「経営哲学」、「人生哲学」、家を建てる際の大工さんの哲学、イチローの野球哲学などのように使われる。極めることで、一本筋の通った基本的な原理・ものの考え方になる。人生をどう歩むかについて、きっちりした考え方を持って生きる人を、「あの人の人生には哲学がある」などとという。

何も高尚で高貴な生き方だけでなく、遊びも人生に大事なら「遊びの哲学」というものさえある。人生哲学も人によって違うように、遊びの哲学もまた人によって変わる。「遊びには金をかける」という彼、「金のかかる遊びはしない」という自分は、「遊びの哲学」は違った。「女遊び」は金で割り切るべしの彼、「女遊び」に金は要らないよいう自分である。

自分から見て不思議に思えるのは、「金で割り切れる」という彼の女性観は、遊びの王道に思えた。そもそも「女遊び」という言葉がオモシロい。どういうものが「女遊び」なのか、何をもって「女遊び」というのか、哲学的に突き詰めてみると、何のことはない。「女遊び」とは性の対象とすることである。彼は言う。「女遊びはプロとすべきで、素人さんはよくないよ」。

この考えが自分には理解できなかった。「その方が手っ取り早いし、相手も傷つけない」という彼を自分は単に横着な男としか考えられなかった。「手っ取り早い」という言葉に現れている。そもそも自分はこの「手っ取り早い」という言葉が好きではない。「手っ取り早い」とは、素早い、てきぱきしている。の意味と、手間をかけない、簡単に。の意味がある。

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どちらかというと後者の意味に用いることが多く、横着をするというニュアンスがある。自分は「横着をする」というのを戒めているところがある。理由は自分が面倒くさがりやで横着な人間だからだ。もし、そういう自分を野放しにしたら、とんでもないことになるのが分かっているからで、それを改めようと自己啓発したことがある。嘘もつき続ければ真実になる。

同じように、嫌なこと面倒なことでも、それ忌避し続けると慣れてしまう。嫌いな食べ物でも我慢して食べ続けると食べれるようになるばかりか、好物になる。これで納豆を食べられるようになったというのはよくある話。身体にいいから、是非とも食べられるようになりたいと、ちょっとだけ頑張ったが、どうしても「納豆」だけは食べられない自分だった。

アレを美味しい、美味しいと食べられる奴は信じられない人間である。人はどう頑張っても、努力しても出来ないことがある、というのを納豆で自らに実証した。人に出来て自分に出来ないのは癪にさわるが、人には合う合わないがあるのだろう。地球が反対に回っても納豆は人間の食べ物として承服できない、情けない自分である。「臭いものには蓋」で今後も通したい。

この世で一つくらい食べられない物がある、それも人生だ。悔しいが出来ないものはどうにもならない。「食道楽」という言葉がある。「遊び」も、「趣味」も、極めると、「道」になるということで、それで「道楽」である。「女遊び」も達人になれば「女道楽」というようだ。三味線や太鼓を使って行う演芸に、「女道楽」というのがあるが、内海英華が継承している。


男の「女道楽」は、「女たらし」、「チャラ男」という。歌舞伎では「和事」といい、噛み砕いていうなら、優美な色男がやわらかみのある動作や台詞で恋愛描写をする演出・演技のこと。「和事」といえば坂田藤十郎が有名だ。別の言い方で「やつし」、「色事」、「濡れ事」などといい、英語では、「womanizer」という。「和事師」といえば人気歌舞伎役者である。

「女たらし」も同じ意味だが、実社会では敬遠される。欧米でプレイボーイといえば読んで字の如しで「プレイ(遊び)」、「ボーイ(男)」これまた、「女たらし」の男だが、同じ意味のフランス語で、「ジゴロ」といい、日本と違って女性に人気がある。最近は真面目よりも女たらしやチャライ男がもてる時代になったが、女性が自分に正直に生きるようになったからであろう。

「女たらし」が敬遠されたのは、女性が恋愛や性の遊びよりも、結婚重視であり、その目的が阻害されたからであろう。楽しい恋愛には真面目なダサ男より、チャラオくんがいいに決まってる。モテ男は女心を理解しており、好まれるのは当然であろう。自分が若い頃にいい合った「遊ぶならプロ女、素人さんを傷つけちゃダメ」ってのは40~50年前の古くちゃ~い言葉である。

時代変われば女も変わる。女も変われば男も変わらねばと、今も同じようなことをいうならこの言葉を贈らねば。恋愛ゴッコが女性を傷つけるというのはいかにもカビ臭いことばだ。飽きっぽい男もいれば飽きっぽい女もいる。主婦の浮気や不倫が派手に行われるのは、その事を示している。飽きても貞操だけは守ると言うのは立派なことだが、なかなか酷なことであろう。

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「結婚してみて夫の本性がわかった!」、「こんな夫とは夢にも思っていなかった!」といえば、「自分が見つけて自分が選んだ相手だろう?」とお決まりの言葉が幅を利かせていたが、結婚して分かる事もあるのは事実。夫に生計を依存する時代には我慢するしかなかったが、今や女性がパートにしろ、稼げる時代とならば、嫌な相手と寝食をしたくないはつのっていく。

嫌な相手と離婚する、しないは選択であって、絶対に離婚すべきでないという時代ではなくなった。人に依存せず、自らの足ですっくと立ち、人生をリスタートさせた女性は多い。その姿は気品にあふれている。「離婚は人生の汚点」と考えるのではなく、「この結婚は自分の人生の汚点」と思えるなら、悔いも反省もあろうが、未来に目を向けるのが正しい選択に思う。

結婚は人生の一事象で、「人生哲学」とはいえないが、離婚は重大な局面であり、岐路であるなら「人生哲学」として思考し、決意の必要がある。まさに臨床哲学の実践であろう。「分かる」と言う事は、相手の気持ちになって考え、理解すること、と考えがちだが、そうばかりではない。いろいろと話し合う中で、相手と自分は本当に違うということも「分かる」ことだ。

「分かり合える」を相手と共感するだけにしか使わない人もいるが、相手と違うと感じる、共感できないことも「分かる」である。ようするに、正しく判断することが本当に「分かる」ということ。哲学は正しく、深く思考すること。感情だけではなく、冷静に、理性的に考えること。難しく込み入ったこと考えることが哲学ではなく、「正しく考えること」だと思っている。

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哲学の原語はギリシア語の「philosophia」で、知を愛するを意味する。それを音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「希哲学」という言葉を創ったのが西周(にしあまね)。西は1829年3月7日生まれ、江戸時代後期から明治時代初期の幕臣及び思想家で、政治学者として幕末の激動期に徳川慶喜のブレーンとして、現行の憲法制度の先駆けて象徴天皇の政治形態を示した。

西は津田真道と共に、日本人初のフリーメーソンである。フリーメーソン精神の最も重要な概念の一つである「理性」という用語は、フリーメーソン会員である西周が訳出した言葉でもある。西と関係のあった坂本龍馬、トーマス・グラバーもフリーメーソンだったとの説もあるが、龍馬を暗殺した犯人もいろいろな説があるが、資料の少なさから龍馬の実像は闇の中である。


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