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高学歴・低年収の明るい貧困女性 ②

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「貧乏は遺伝する」という記事を3月4日に書いた。経済格差⇒教育格差⇒低学歴⇒などとした貧困の連鎖という図式が、小泉政権がもたらせた格差社会と言われている。経済格差の拡大は避けられないにしても、それが教育機会の差として拡大して行くのは抑止すべきといいつつも、教育の現状は学校などの、「公教育」から学習塾などの、「私教育」に委ねる方向に進んでいる。

親の経済レベルによって子どもの受ける教育が決まってしまう教育格差が問題とされるが、このことは子どもにとって本当に悲観的なことなのか?裕福な家庭の子どもは高い教育を受けられるというが、高額な月謝の塾にぶち込めば皆がみな勉強するものなのか?さらにいうなら、教育を投資と考えるなら、「高学歴・低年収」というのは、本来あってはならないことではないか?

などなど、以前からエリート推進教育には否定的でいる。実際にその経験がないからよく分らないが、「お受験」といわれる超難関有名幼稚園から、小・中・高・大とエレベーター式に上がって行く我が子を、親は安心この上ない気持ちであろう。人気の要因は、エリート作りに邁進した一貫教育だからである。広島の難関中高一貫女子校の入学式で、学長がこのように言ったという。

「あなたたちは選ばれた人たちなのです」。選んだ側の発言は、選ばれた側の自尊心を高揚させる。小学校から遊ぶ間を惜しんで塾に通い、多くの過去問をこなして中学受験に合格した彼女たちは、いわずもがな選ばれた子どもである。そこまでする必要があるのかは愚問で、そうしなけれな超難関校には入学できない。自分がその事に批判的なのは彼女たちはバカだからである。

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人間の頭の良さ、賢さはパターン化された受験問題をたくさん解いて、その解き方や解を覚えることが頭が良いとは絶対にいえないという確信である。確かにテストの点数も良い、学校の成績も良いが、そんなのは幼児が全メーカーのクルマの車種を覚えていると同じ事。門前の小僧は習わぬ経を読むが、受験学力はお金を払って習った経を読むことだ。

超難関中学に入学した人間は、多くの物を覚えることに時間を割いただけで、彼女(彼)らに高い学力が備わっていたとしても、決して頭が良いことにはならない。が、高偏差値校を目指すためのシステムの問題で、生徒に罪はない。近年受験学力は、お金で買えるもだが、。「お金を出して塾に行ったからと、誰もが高い学力を身につけるわけではない」と理解する親もいる。

人間にバラつきがあるように子どももバラつきがある。少年サッカー教室や、○○幼児教室の子どもたちにも当然にバラつきがあり、それを能力というなら、塾で高学力を身につける子も能力といえなくもない。塾に批判的な親は、「学校の授業や、教科書で学力は十分つけられると主張するが、それは正しくない。偏差値が学力の基本となるなら、偏差値を上げることが求められる。

「偏差値を上げるにはどうすればいい?」との素朴な質問に、ほとんどの人間は、「勉強すれば上がるよ」と答えるだろう。それを間違いとは言わないが、厳密には正しくない。なぜなら、自分だけが勉強しているわけではないし、相手も同じように勉強をしているわけだ。よって、「偏差値を上げるにはどうする?」には、「人よりも多く勉強をする」と答えなければならない。

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スポーツ選手になるような子どもは、もちろん才能や資質もあるが、身近な例でいうと、(音楽的)才能だけでピアノが上手く弾けるハズがない。人が2時間練習するなら、6時間、8時間練習しなければ、満足いくテクニックは身につけられない。おそらく野球もサッカーも同じであろう。いかに人より多くの練習をこなしたか、それはまた、質の高い練習であったかにもよる。

もう一つ、その論理でいうなら、技術向上のためには人より多くの練習時間を割くことになるが、「練習」といってもピンキリであり、要は身になる練習もあれば、身にならない練習もある。したがって、練習は大事といえ、いやいや練習を長時間やっても身にならないダラダラ練習となる。練習は大事だがもっと大事なことは、「練習を好きになること」。大選手になる最低条件。

「好きこそ物の上手なれ」はまさにこの事を言っている。さらにいうなら、その事を好きで前向き、直向き、積極的に練習に取り組んでみても、高度な練習内容の内訳として、「機械的練習」と「論理的練習」に分類される。分かりやすくいえば、前者は頭を使わない練習、後者は頭を使った練習。思考を背景にした様々な行為の意味の把握するべく、頭脳を使った高レベルの練習。

どんなスポーツであれ、ピアノやバイオリンのお稽古であれ、思考は重要で、スーパーな人は頭が良い人であろう。機械的練習をどれだけ積み上げても、全体を見渡す能力がないと、真のレベルアップとならない。来た球を打つだけでは、バッティングセンターのゲージである。打ち易い球を打って下さいというのと、打たせまいとする相手から、どうすれば打てるかは思考が必要。

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人間のレベルアップというのは、究極的には思考。ところが、受験学力というのは機械的記憶力の分野で、考えないでただ覚える。意味理解勉強なんかしていたら、覚える量などタカが知れている。だから機械的記憶力が推進される。そもそも子どもは、「機械的記憶力」は得意な分野。先のクルマの全車種を覚える子どもや、歴代天皇を暗記する幼児もいる。

こういう子がかつてはテレビに出て世間を驚かせたが、今どきこんな子どもは屁でもない。これが天才なら、「バカの一つ覚え天才」は簡単に作れる。記憶力は人間の優れた能力であるという時代は終ってしまった。単に自己満足、マスターベーションに過ぎない。人間の重要な能力は、①創造力、②読解力、③記憶力といわれたが、記憶力の現状はもっとランクを下げている。

機械的記憶はその名の通り、コンピュータが得意な分野で円周率の桁数記憶など、人間の比ではないが、だからと言ってコンピュータを頭が良いとは言わない。囲碁・将棋において、プロの高段棋士に勝利するコンピュータを頭が良いとは言わない。別に言ってもいいのだが、おそらく言えまい。なぜなら、「頭のよい」とはどういうこと?という問題に行き着くからだ。

「頭のよさ」を定義するにはいろいろあるとは思うが、会話してみて頭の良い奴は勉強オタクではない。現実的な頭の良さは、社会生活の機微において、相手を理性的に説得したり、感情をうまく収拾できる能力である。たとえば分からず屋を分からせる能力、怒る人間をなだめる能力、それらを知恵と言ている、知識と知恵はまるで別物で、知識は学問、知恵は経験で得るもの。

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勿論、研究開発に勤しむ学者や、経理や財務に卓越した専門知識も有能者であるが、それらはプロスポーツ選手や芸能(芸の能力)も含めて、特殊技能を有す専門家と分類する。社会に生息する一般人についていえば、マイノリティな人たちだ。「末は博士か大臣か」が、かつて親が我が子(男子)に託す最大の夢であり、価値観が画一的な時代における頭のよい息子の目的地であった。

天才少年といわれた舛添要一なども、そういう時代の申し子であったのはマチガイない。彼を天才少年のなれの果てとは思わないが、人は晩節を汚してはダメなのだとつくづく考えさせられる。学者になり、政治家になり、日本国首都の首長となれる人は運や努力だけではあり得ない星に生まれている。そんな稀有な人間がバカ、クズ呼ばわりされて消えていくのはなんとも忍びない。

地位に相応しい人材を、と望みたくもなるが、「地位が人を作る」というのもまた事実である。どんな履歴を持った立派な人間でも、地位や権力を得て堕落する、コレも人間の悲しい性である。それに反して、「地位が人を作る」に邁進する人間というのは、立派で崇高な履歴もなく、職責を地位や権力と錯覚・混同することもなく、ひたすら「役目」に殉じる人ではあるまいか。

我のような秀逸であり有能であり、努力で得た斯くの能力は、己の履歴に相応する人間としてあってしかりの地位であるという驕りである。それが舛添を社会的ダメ人間にしたのではないだろうか。『清貧の思想』(1992年:双思社)で知られる中野孝次に、『麦塾るる日に』という自伝小説がある。彼は腕のいい大工の棟梁の家に生まれた、父からは跡取りになることを期待されて育った。

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小学校をでて中学(旧制)進むものはわずか一部という時代、中野の父は、「職人の子に教育は不要」進学を許してくれない。中野は1日14時間の猛勉強で専検(戦前の旧制専門学校進学のための「専門学校入学者検定試験」)に合格、旧制中学卒業資格を取得し、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)に入学。そんな中野に、「所有が多ければ多いほど人は心の自由を失う」の言葉がある。

中野は、「所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させる」、「死を認識してこそ、生を楽しめる」、「死を憎むなら、なお一層生を楽しめ」などの逆説的な思考が本領である。死をネガティブに考えるからこそ、生が引き立つのだ。同じように学歴がないのをネガティブに思うなら思えばいい。「死」と同様に、ネガティブあってこそ生を楽しむ。

高学歴というのは、本来的にはネガティブという状況にはないが、高学歴それ自体はネガティブではないにしても、状況は状況である。そういう状況にあるなら、高学歴さえもネガティブと考えたらいいではないか。つまらぬ自尊感情に縛られていること自体が不幸の要因である。人間は死があるから不幸ではなく、死ぬから不幸ではなく、死ぬから一層「生」を楽しめるのだ。

高学歴であるということが、いかなる現状に照らして幸福であることはない。なぜなら、現状が幸福なら高学歴である必要はなく、現状が不幸なら高学歴も意味がない。「現状」とは、高学歴であるかないかに関わらず起こり得るもの。問題は学歴ではなく、運・不運や努力などに左右される「現状」だ。直近例でいうなら、舛添氏の現状が幸福か?「悲惨である」。彼は高学歴だ。

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中野は、「清貧」を単に物質文明の批判と捉えていない。精神と物質の対立としている。かみ砕いていえば、「物」と「心」の対比である。これまさに西洋の近代哲学である。我々は利便社会の恩恵を受け、物質社会の只中に生きており、これらを否定する事も破壊することもできない。「思想」というからには考え方であり、何を規範にして生きるかということであろう。

人それぞれの現状が自らの意に反していても、それに抗うことなく素直に生き、現状のなかから楽しさを見出せばいいのではないか。人間にはそういう能力が備わっている。舛添氏を天網恢恢の罰あたりとの見方もあろうが、高学歴・高年収・高地位であれ、それだけでは幸せになれない。ならば、高学歴・低年収でも腐ることなく、精神と物質を対立させれば、人に幸せは訪れる。


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