不倫相手を一体どこでみつけるのだろうか?彼女や恋人がどんなところでも、自然に見つかると同じように男と女の居るところなら、場所を選ばずだろう。「自然にみつかる」というのか「偶然に見つかる」というのか、あるいは「必然(故意)に見つける」のか、いろいろだ。「偶然」も「必然」も呼応である以上、男と女にとっての「自然」なのかもしれない。
「自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なのだろう」という吉田拓郎の詞に強く印象づけられたが、同じ曲には、「男はどうして女を求めてさまよっているんだろうか?女はどうして男を求めて着飾っているんだろう」と、これまた印象的なフレーズがある。何の事はない、当たり前の問いだが、当たり前であるが故に「ハッ!」と何かを気づかされる。
「どうして?」という問いに対しては、「それが本能というもの」と、答える以外にすべはない。本能とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことだが、近年「本能」という語句は専門用語的には用いられなくなっているという。その理由は、説明的な概念としてはあまり役に立たなかったためである。
特定の心理や行動を本能と述べても、その行動の神経的・生理的・環境的原因(至近的原因:これらが伝統的な心理学の研究対象であった)について何かを説明していることにはならない。「母性本能」、「闘争本能」、「帰巣本能」など、性質を現す語を伴い、「○○本能」という形式で使うことも多い。人間に本能があるかどうかは長らく議論の対象であった。
人間に本能があるかどうかは「本能」の定義次第であろう。一般的に人間に本能行動はほとんど無いか、わずかであると見なされている。社会学、哲学、心理学の一部においては本能を、「ある種の全ての個体に見られる複雑な行動パターンで、生まれつきで、変更がきかない」と定義するが、この定義の元では性欲や餓えも変更がきき、本能と言えないと主張される。
精神分析学者でもあり思想家である岸田秀は、『人間は本能が壊れた動物』と述べたように、人間の本能は、他の動物たちの本能とはどこか違う。野生のサルで考えてみる。彼らは自然の中で生活し、自生した木々の実などを食料とする。彼らは、生きるために何を食べるか、何を避ければよいかを本能的に選り分け、必要なとき、必要な分だけ食べている。
また、彼らには発情期というものがあり、そのときにもオス同士が闘うなどして、よりよい子孫を残す目的の為に、効率的のよい生殖(交尾)を行う。これら生存と生殖、いずれの本能もシンプルで無駄がない。人間はどうか?食事はするが、生きるためばかりではない。好き嫌いという偏食をし、食事前なのに間食をし、飲酒で満足に食事を摂らなかったりする。
身体に悪いと知りながらもタバコを吸ったり、夜更かしをしたり…。食事に限らず、見方によっては生きるためどころか、死にたいのか?などの生活行動も珍しくない。さらには、人間に発情期があるという説もあるが、現実的には一年中性交を行う。しかも、妊娠を避ける以上、子孫を残す生殖とはいい難い。これは他の動物にない異質な習慣といえる。
フロイトも、こうした他の動物と人間の行動の違いを研究し、人間も動物としての本能は有しているが、その生活行動が大きく異なっているために、(他の動物の本能からすれば)人間の本能は異質なものと考えた。いわれてみると素人でもそのように考えられるし、それをもって、「人間特有の本能である」と、言ってしまえば構わないのかも知れない。
が、本能は元々自然界で生きていくために備わったものであり、それだけ持っていれば自然界で最低限、生き延びられるものであって、それが壊れている、つまり、機能していないとすれば、人間は自然界では生きにくい、あるいは、生きては行けない動物、ということになる。自然の対義語は人工(文明)である。これこそ人間の本能が壊れた事の回答だ。
分かりやすくいえば、人間が他の動物と違い、発達した大脳(知性)と、精神(心)を持ってしまったからだ。「壊れてしまった」と言うからには、元々の本能も備わっているにはいるが、その本能に知性と精神が入り込んだ為に、いささか複雑な形になってしまった。本来的に人間も、元々備わっている本能によって、お猿さんと仲良く木の実でも食べていた。
また、ウサギやイノシシなどを追いかけ、狩猟しながら自然界で生活していたはずなのに、人間は、「ああしよう」、「こうしよう」などの知恵の精神が宿った為に、ちまちまと自生する木々の実を採ったり、不安定な狩猟生活よりも、食べられるものを自ら確保し、「一年中、不安なく生活しよう」と、地を耕し稲作を始めたり、狩りで得た動物を飼育する。
つまり、自然界に手を入れ始めた。ばかりか、人間の「ああしよう」、「こうしよう」をさらに推し進め、「これをしたら心地よい」、「あれをしたら家族が喜ぶ」などの感情が宿って行った。生活を楽に、便利にするために自然との共生を超え、自然を破壊し始めた。もはや人間は生まれつき備わった本能の範囲を超えた別物になってしまったといっていい。
「心地いい」、「家族が喜ぶ」の精神(心情)は、さらに拡大し、「もっと豊かに」、「もっと安定的に」と、「もっともっと」を高めていった。これは人間の欲であって、欲は知恵から派生した。木々を伐採し、必要なものを他の場所から持ち込んだりして、あくなき自分たちの生活を進化させ、合理的且つ快感的に向上させて行く。これが文明というもの。
先に述べた「自然」の対語は「人工」であり、「本能」が「自然」なものであるなら、「人工」が「本能」であるはずがない。よって、人間は自然と決別することで本能を壊してしまった。いずれにしても人間は、本能に精神が入り込んだことで、自然の中では生きられない、自然界からはみ出した動物になった。が、精神で本能の代役を務めているのが「自我」。
自我は心の一部で、「これが私」という意識や認識、行動の主体である。我々は自我によって、「こういうときには、こうしよう」、「そういうときには、こうすればよい」などの、本能に似た生きる為の方向性を保っている。今風にいえば、本能と精神のコラボによって、本能のみに生きる動物と人間の違いが顕著になった。これは人間にとっていいことか?
「本能は成長しない、成熟もしない」が、代役である自我の「私」は成長につれて、どんどんと広がりを持つようになる。これを成熟という。つまり、「私」⇒「私の家族」⇒「私の地域」⇒「私の社会(学校・職場)」⇒「私の国家」というように、大きな広がりをもった視点で自らを思考することこそ成熟である狭い視野、小さな視点のままの人は未成熟といえる。
なぜ、成熟した人間と成熟しない人間がいるのか?できるのか?それは環境に問題がある。本来成熟するものを遮る者の存在である。それが親であると、その事に気づく親は少なくない。気づいていれば子どもの成熟を妨げることはしないはずだ。と、いいつつも、親が子どもに行為するなにかが、子どもの成熟を妨げていると思わない親の何と多きかな。
子どもはゆったり、のんびりと子ども時代を楽しむべきとルソーも述べているが、それでは満足できない親が盛んに子どもをけしかける。「○○ちゃんに負けてるよ」、「負けちゃダメでしょう!」など、これは攻撃本能を助長させる。フロイトは人間の本能を欲動と呼ぶことで、他の動物の本能と区別した。自我が本能の役割といえど、人間に本能はある。
他の他の動物には、ただ生きるという方向性しかないが、精神を宿してしまった人間は「生きる」ことに関し、まったく正反対な性質の欲動(本能)を持つ。欲動には上記した攻撃性があり、「攻撃性によって目的を果たすことは、異常なことではない」とフロイトはいう。「負けまい」、「生き残るぞ」という攻撃性なしに物事(欲求)の達成は難しいといえる。
問題はこの攻撃本能の暴走である。親からそのように育てられた子どもは、攻撃性を「生きるため」にではなく、破壊行為に走ってしまう。攻撃の加減と言うのは自らコントロールも難しく、親から攻撃的に「攻撃性」を育まれた子どもには情緒が欠ける危険性がある。何らかの心の問題を起こすどころか、精神の異常や疾患を発症することになり兼ねない。
人間の行動というものは、いつも建設的、益的とはいえない。自分の利害得失を超えた暴挙に出ることもしばしばある。「なんで、そんなことするの?」と、他人の目には破壊としか思えない行為を起こす人間が、しばしば見られるのは、この攻撃本能の仕業(暴走)と言う以外にない。これが親から作られた産物であるなど、親ですら理解していないのだ。
フロイトは、攻撃本能を加えたこうした人間の欲動を、以下のように定義づけている。「攻撃本能は性欲動と結びついて『生きよう』とするエネルギーとなる反面、破壊・衝動的な死に至ろう…、『無・無機』の状態に戻ろう…とするエネルギーが多くみられる」ことを指摘した。「生」欲動と「性」の欲動は、通常はペアとなって、「生の渇望」ろして働くものである。
それらは、感覚的満足も含め対象に近づこうとする接触の欲望(衝動)であるのに対し、攻撃本能は、対象に反発し、ときにはそれを破壊しようとする衝動であることから、もともと両者は相容れない(対立する関係)であると位置づけ、攻撃本能を死の欲動(死の衝動)と呼ぶことにした。秋葉原無差別殺人などの加害者や、池田小無差別殺人加害者や…
そんなことをすれば死刑になると分かってて、あえてそういう行為をするのがそれとなく理解できる。つまり、攻撃本能は死の欲動ということでもある。人間が自然に生を受けるように、死も自然に迎えるべきものである。「死ぬまで生きよう」とは、死の欲動を排した攻撃本能とは無縁の概念。子どもに攻撃本能を助長する教育には気をつけるべきかと。
して、性の欲動が生の欲動であるなら、不倫など永遠になくならない。なぜなら不倫という行為には何らかの意図が由来するとみなすのは、占星術程度の非科学的な見方であろう。ニーチェがいうように、いかなる行為も、それが遂行されている間に、我々がそれについて持つショボイ意識像とは異なり、行為はまた行為がされる前の意識像とも異なっている。
噛み砕いていうなら、「意識的な意図や目的は、行為を引き起こす原因とはなり得ない」。我々を行為へと駆り立てる真の原因は、意識下の衝動である。確信的にいえば、不倫は人間の自然な欲動である。理性が情念の奴隷である以上、動機なき殺人同様、もはや防ぎきれるものではない。防ぎきれない以上、制裁(罰)をもって望むしか手段はない。