理研の小保方氏は7月から検証チームに参加し、第三者の立ち会いの下で実験したが、STAP細胞を作製できなかったことが明らかになった。これについて尾木直樹氏が彼のブログで、「(小保方氏に)裏切られた感じ」とつづっているらしい。らしいとは以下記事見出しの引用。【尾木ママ、小保方氏に「裏切られた感じ」】で、自分は尾木氏のブログを見ていない。
彼のブログを見ないのは、尾木を好きでないからで、教育評論家と言う彼の肩書きも発言も興味がなく、ブログを読む気にもならない。嫌いな理由は彼のオカマ風な喋りにあり、キャラと擁護する人間はいるが、いい年こいてキャラなどとそんなものが必要なのかと言いたい。芸能人だからイイし、尾木ママなどと呼ばれて平然としている。以下は記事の引用。
「心が空洞」という尾木氏は、「いやいや…なんか裏切られた感じも?」と複雑な思いを吐露。「200回も再現実験に成功『STAP細胞はあります!』と記者会見で涙浮かべていたのに…」と小保方氏を信じる気持ちがあっただけに、「国民的な背信行為と批判されても犠牲者まで出した問題をどう考えているのか…?研究者以前の人間性問われます!」と強く批判した。
人をどう思うは彼の信念だからいいし、同様に人を信じないのも、無視するのもい自由。しかし、後になってこういう言い方をする彼は根っからオカマだ。「信じていたのに裏切られた」などの恨み節は男が口にするもんじゃないよ。こういういい方は女には許しているが、男が言うのはみっともない。勝手に信じたのは自分だろ?自分が見誤っただけの自己責任なんだよ。
小保方氏は誰も裏切ってないし、嘘をついただけなのに、「国民的な背信行為と批判されても犠牲者まで出した問題をどう考えているのか…?研究者以前の人間性問われます!」などと説教ぶるオカマ野郎に、「お前は黙ってろ!」と言いたくもなる。女の腐ったような言い訳、自己弁護なんか聞きたくもない。これが民間企業なら判断ミスと責任取らされる。
これが男の自己責任であって、それがない彼は根っからオカマであるのがよく分った。こういう案件は、彼女の言葉の雰囲気からでしか我々科学の素人は判断するしかないし、だから自分は小保方氏はインチキ嘘つき女と見ていた。が、もしそれが完全な誤りで、STAP細胞の存在が彼女の言葉通り再現できたなら、自分が小保方氏を見誤ったたと言う事になる。
弁解などせず小保方氏に敬意と謝意を示せばいいことだ。同じように見誤った尾木氏も自己断罪すればいいだけのこと。小保方擁護の友人がいた。今、もし自分の側で「信じていたのに裏切られた」と言うなら、見誤ったことより弁解に腹が立つ。今回の流れを見て感じるのは、彼女は科学者でありながら、科学者らしくない風情と涙が、男を味方に魅きつけたのだろう。
もし男なら容赦なく叩かれるが、女の役得というか、男が女に弱いのを改めて実感する。女の嘘、それも美人(?)のつく嘘に男は翻弄されやすいのは男が女に卑しいからだろう。男の世界観をしっかり持った奴なら騙されない。まあ、「信用してたのに裏切られた」という言い方をするような奴は、"自分は間違わない人間"という高邁な自尊心を持っているんだろ。
尾木は評論家という職業人だから、嘘の評論だと自己の値打ちが下がる。だったら評論家という看板を挙げた以上、正しい評論しかしてはいけない。ということになるが、騙されてはいけない。世間の人は評論家という事は正しいと思ってる人の何と多きかな。ようするに、評論家を妄信してはダメダメ。後になって間違いを認めず、言い訳する評論家の多きこと。
それでも評論家の看板を挙げていられる、その程度の職業でしかない。言葉を発する以上、間違うことも見誤る事もあろう、人間に絶対無謬はありえない。しかし、評論家が真に取るべき自己責任とは評論を止めることだが、それでは商売として成り立たない。そこで大事なのは、間違ったら、見誤ったら弁解をせず、尾木のように「信じた」などと戯言を言わぬこと。
自己弁護に終始する評論家は、信用ならぬズルイ奴と見たらいいのだ。尾木氏は教育評論家としての知識や素養を持っているのだろうが、それでも世の中を見誤るし、人間を見誤るし、だったら素直に謝ればいいんだろう。今回の尾木氏についての自分の感想だ。人は間違ったときに素性を表すし、その限りにおいて、男は弁解しないというのが自分の見方である。
自分はしばしば、女の嘘は許す、言い訳も自己弁護も許すと言うが、女を見下して言っているのではなく、そう思わないと女性とは付き合えないし、腹が立って仕方がない。よって、自分が女性と対等に付き合うために、女性に与えたハンデキャップ、免罪符である。したがって、もし聡明な女性が、「女性をその様にしか見ないあなたはケツの穴の小さい男」と言うなら大歓迎。
そこまでいうなら、そうでない女性であるとの主張だろうから、それはそれは自分にとってはこの上ないし、大歓迎である。「ズルイ」、「汚い」を男に許すといわれて憤慨する女は結構なことだし有り難い。それを「女をそういう風にしか見ないあなたはケツの穴が小さい」のではなく、女に騙されて「汚い、ズルイ」と喚く男がケツの穴が小さいのだ。
騙されないように女を見極める目を持つのが大事であるけれど、そこは自分も男である。やはり女性には甘くなるし、心も緩むし、やはり男は女には弱いのだと。幾多の英雄豪傑がとどのつまりは「女人の計」で騙されるのを歴史が教えている。だから、女の「ズルイ、汚い」、「大嘘つき」を自分は許そうとしている。その理由は、男側にも騙された責任があるから。
こと女に限らず、人間の社会にあって、騙す側と騙される側とでは、騙される側が悪いというスタンスに自分を置いている。その割合においても自分の場合は100%と、それくらい徹底して騙される側に罪を置いている。これは自覚の問題であり、法が騙す側に罪の重きを置いているのは、悪人を作らず、野放しにせず、それで社会秩序を守るためだ。
しかし、騙された側の言い分を聞くにあたって、司法関係者の実際は、「こんな甘い考えでは騙されても仕方がないな」ということが多い。多いけれどもそんなことを言っても始まらないし、事件は事件、被害は被害なのだ。人間にはノー天気も、天然も、バカもいるわけだから、「振り込め詐欺」に対しても、まるで子どもに与えるような注意を促している。
外人さんがこれらの話を聞くと「日本人はどんだけバカ?」と思う。危機管理意識が低い、平和ボケした民族と断罪する。「お人好し」というのは、何事も善意にとらえる傾向性で、他人に利用されたり騙されたりし易い。そういう目に頻繁に会う人は、心を鬼にして他人を信じない「力」を身に付けることだ。あえて「力」と書いたがまさに「能力」である。
自分も頑張ってそういう「力」を身につけた。人を疑うより、信じる方がどれほど楽であるかは言うまでもない。が、その「力」を得ようとしたときは、心を鬼にして取り組んだ記憶がある。男にも女にもたくさん騙されたし、騙されるということが、いかに自身の不備であり、油断であるかを認識した。自分で言うのも躊躇うが、自分のことだからよく分る。
自分は「お人好し」という気質は変わっていない。が、そのことを誇る気はなく、常にシビアに用心深く人物を捉えようとしている。したがって、これは自身の「素」というより、「能力」の問題だ。自分にとってこの「能力」は「素」ではなく、後天的に得たものだから、「素」でやっていてはヒドイ目にあうと自戒する。人に厳しくは、実は自分に厳しい目を注ぐ。
今回、小保方氏の結果について、尾木氏と同様の擁護派は「小保方氏は正しい」、不信派は「小保方氏は嘘つき」、曖昧派は「今の時点では分らない」の三様の判断があった訳だ。で、結果的に再現不能となった事への国家的損失はあれど、特別な個人の利害はない。社会問題となった程度で、彼女は嘘つきと烙印を押した自分に、彼女を責める気はない。
嘘つきを責めて、嘘つきが治ることはないし、嘘つきを責めて、自分が満たされるものもない。日常その嘘つきとどう関わるかだけの問題であろう。自分が小保方氏と直接関わる立場にないから何でもない。ああ、世の中にまた大嘘つきがまた何かをやらかしたということだ。後は小保方氏が実社会どのように生きていくか、どう生きていけるのかの興味はある。
「大変だろうな」と思うからだ。自分の予測が当たってご満悦人間はいるが、底の浅い人間であろう。たまたま当たったことを"自分はこんなに凄いんだぞ"と言いたげだが、そんなに喜ぶことでもあるまいに…。宝くじの一等が当たったというなら大いに褒めてやりたい。アレほど当たらないものはないだろうから。が、クジというのは当たる時は当たるものだ。
自分は過去、数千人の中から凄いものを引き当てたことがある。当てたのか当たったのかといえば、当たったのだろうが、引き当てたという言い方もないではない。高校3年の時、楽器メーカーのヤマハが、初めて三点式セパレートステレオを発売記念セレモニーが市民館であった。来場者に抽選で一点、20万相当のステレオが整理券の「No.」で当たる事になっていた。
そこで自分の番号が呼ばれた時、ただ呆然とするだけだった。当たるなどは微塵もなく、壇上に上がって目録を受け取ったときも実感は沸かず、ただただ呆然自失であったのを覚えている。いわれるまでもなく1000人いようが、100万人いようが、当たるものは当たるし、不思議であっても現実である。宝くじの一等も、どこかの誰かには必ず当たるのだ。
話を尾木氏に戻すが、彼が如何に教育論を述べようとも、どこの家庭の子どもの親以上に影響力を持つことなのはない。あっちゃこっちゃでペラペラ述べるのもいいが、他人に責任転嫁してまで自分の過ちを正当化するような評論家と烙印を押しておこう。自分はルソーや井深大氏の教育理念に影響を受けたが、尾木氏に影響を受ける保護者がいるのは結構なこと。
子どもは親が優しいだけでは育たない。厳しいだけでも育たない。「アメとムチ」との言われ方をするが加減が難しい。尾木氏の教育理念を知らずして彼を批判する気はないが、男は男として、女は女と色分けして接する自分としては、オカマ風味の人間は滑稽の対象でしかなく、尾木氏を嫌っている。そういえば尾木氏を擁護する人がこう言っていた。
「尾木ママの教育論に異議を唱えるなら分かりますが、話す口調だけを捉えて尾木ママを批判するのは上っ面しか見てないってことになりませんか?あなたのいう男らしさって口調だけですか?人を上辺だけで判断することが果たして男らしいのでしょうか。そもそも、男らしさ・女らしさって自分の尺度ですよね。性別で「らしさ」を決め付けず、「その人らしさ」を大事にされるべきでは?」
上辺や声質や言葉使いで人物判断はするよ。上手い歌手でも声が嫌い、声がよくとも容姿が嫌いというように。尾木氏の教育論が立派でも今回の一連の言い訳は、彼を嫌いの大きな要素になる。「自分の尺度?」当たり前だ。発言者も他人の尺度を批判しながら自分の尺度を押している。自分は尾木氏のあの物言いと今回の一件で、今後彼の話を聞く事はない。
尾木氏が普通のおじさん風味だった頃にこう言っていた。「オネエ言葉で話してみたら多くの人が耳を傾けてくれるようになった」。これが彼なりに多数派獲得手段であったようだ。反面、オネエ言葉の彼を嫌う者もいた。尊重されるべきは彼の選択。女が男言葉を使おうが女は女、男がオカマであっても男は男。オカマだの、オネエ系だの言われて、相手に合わせてこちらがスタンスを変える必要もない。どういうスタンスを生きるも構わないが、自分に合わせてくれるばかりの人間ではないということ。しかし、オカマやオネエ言葉なら働く場が限定される事は承知だろうな。教育評論家は許されるとして、医師や弁護士や教師や銀行員や、多くの不向き職業はある。
ヤンキー言葉よりマシというが、それも偏見だ。ヤンキー言葉愛好者に働き場がないように、オネエにもかなり限定される。芸能人やオカマバー、あるいは口を閉ざすところ以外に適切な働き場があるのか、自分には分らない。だから、親として「勉強しろ」とは言わないまでも、オカマになるな、オネエ言葉なんか使うなとキツく言うだろう。子どもをオカマにしたい親は奨励するのか?
ことは尾木氏のみならずである。尾木氏を自由でよいではないかと肯定する親は、我が子がある日突然オネエ系に転身しても、親が肯定するなら問題なかろう。果たして自分の息子に尾木氏のような喋りを勧める親がいるのだろうか?他人だから肯定し、身内や我が子なら絶対許さないはバレバレの偽善者である。尾木氏はオカマでないと世間は言う。
それはオカマの定義があるからだが、彼はオネエ言葉を使うだけで奥さんもいるし、男としての自覚を持っているという。上の理由とは別に尾木氏は「女子生徒との交換日記をやってるうちにオネエになった」とも言う。なるか?そんなんでオネエに…。彼を気持ち悪いと思う人間は少ないくないが、肯定派もいるし、最終的には彼の生き方の問題だから好き嫌いは自由。
た今回の記事は、教育者が二枚舌を使うなである。「武士に二言はない」という言葉は「武士の一言」から発生した。武士の一言とは、「言い訳なき真実を保証する」ということ。だから二言がない。自分が吐いた言葉はいかなる理由があろうと言い換えしない、そのことを保証する。これが「信頼」である。教育者たる尾木氏がそうであるならオネエ言葉はいい。