店員を土下座させるの写真をネットに載せる事件、今度は高校生である。2014年12月5日、滋賀県内のボウリング場でのトラブルで、女子高生らが土下座させた従業員をツイッターに投稿した。詳しい経緯は不明だが、無理やり土下座させた場合は強要罪に問われる可能性があり、警察は事実関係を調査中だ。土下座写真を投稿したのは滋賀県内の県立高校に通う女子生徒。
「くそおもろい笑 ○○(店名)にボーリングしにいこーとしたらもめて、最終的に従業員が土下座しよった笑 めっちゃおもろいわー」とツイート。若い女性従業員が土下座する様子や、ジャージ姿の男が従業員に詰め寄る場面など計4枚の写真を掲載した。その後も「くそおもろかったわ~笑」と従業員らを侮辱し、「結局ボーリングできひんかったしよ」と不満げにツイートを投稿するなど、反省する様子はない。
一連のツイートはすぐに拡散し、女子生徒らの行為に批判が殺到した。「うちがさしたんちゃう 先輩や、うちらわみてただけ、あとからちゃんと、あやまった」と釈明に終始するも批判は収まらず、アカウント削除に追い込まれた。 従業員土下座の経緯は分かっていない。ボウリング場運営会社は、「担当者が終日外出しているのでお話しできません」と回答するだけで、詳細を説明する様子はない。
また、女子生徒が在籍する高校は、「警察に相談しているため、コメントはできません」と状況を明かさない。近江八幡署は、事案発生当時にボウリング場から通報はなく、現在も被害届は出されていないが、学校側から相談があったため、「事実関係の把握を進めている」という。 同じ事例は過去にもあり、刑事事件に発展している。バカな大人の真似をバカな子どもがやるという事。
13年10月、40代の女が札幌市内の「ファッションセンターしまむら」で、購入した商品に穴が開いていると従業員を土下座させ、その様子をツイッターに投稿した。売り場の床に土下座する女性従業員2人の実名を出し、「土下座させるお客様凄い凄過ぎる怖い怖過ぎる」などと、自慢げに書いていた。14年9月、大阪府茨木市内のファミリーマートで従業員らの接客態度に30~40代の男女4人が因縁をつけた。
土下座させた上、たばこ6カートンを脅し取るまでの様子を動画サイトに投稿。「舐めとんのか!」と従業員らを怒鳴ったり、ペットボトルを投げつけたりが撮影されていた。札幌市の女は札幌簡裁から名誉棄損罪で罰金30万円の略式命令を受け、茨木市の4人は恐喝罪で大阪地裁から懲役2年(執行猶予4年)の判決が言い渡されたがその中のひとり、野仲史晃(46)容疑者は不動産会社の社員であった。
その会社もホームページに「謹告 お詫び」を掲載して謝罪した。会社が社員の外部での不祥事に対するお詫びを自社のホームページに公表した理由は、公開された動画に会社名の入った上着を着ている野仲容疑者が映っており、そこから勤め先が判明したものとみられる。とんだとばっちりだが、大阪で新築一戸建ての分譲住宅などを手がける、年商41億円の会社だけに懸念もあったのだろう。
会社は「道義的責任を感じざるをえず、誠に遺憾に存じます」と言葉を述べているが、私事に道義的責任などはないはずだし、別の思惑もあるのだろう。逮捕されたのは46歳の野中と39歳が2名、10代の娘の4人だが、そういう結構な年齢にもなったいい大人が会社の制服着用で白昼堂々恐喝しに行って、その現場を動画に撮ってネットにアップしたいという幼児性には呆れを通り越す。
なぜ、このような事件が発生するのか?「このような」とは、客が強い立場を利用して、サービス業従事者を怒鳴りちらしたり、土下座や落とし前に物品を強要したりではない。そういう事例はかつても今もないとは思わない。よって、「このような」とは土下座画像を誇らしげにツイッターなどに投稿、当該者を晒して自ら悦に入るバカげた行為。バカは一部だからいいが…。
人間社会のいさかいは誰もが完璧でないから起こる。些細なしぐさや語り口、言葉遣いなどちょっとしたアヤに感情をむき出しに怒る。夫婦間の対立も多く、離婚は増えるばかりの昨今。人間が自身のモノサシで他事を量るのは仕方ないが、それでは自分を量るのも自分のモノサシなのか?そうであるならそれでいいのか?よく考えてみるべきだ。オカシイだろ?
人を自分のモノサシで量るなら、自分もまた他人のモノサシで量られているはずだ。互いがそれぞれのモノサシで量っているのを知ってか知らずか、自分だけのモノサシが正しいというのは滑稽である。様々な考えや物の見方を知ることで大きな視点を開拓できるが、我が身の事は相手に判断させるしかない。相手がどういうレベルであれ、相手なりのレベルで自分のことを判断されるしかない。
善意な顧客はサービス業従事者の失態や不備に対し、不満や苦情を言う事はあっていい。せっかくの気分や休日を台無しにされるのは不愉快であるし、明らかな相手側の不始末に苦情を言うべきである。自分も過去にそう言う事は会った。「県民の浜」というリゾートがオープンした当時、家族6人で宿泊を兼ねて訪れた。一泊した翌日、朝食は一階の大食堂で取ることになっていた。
座敷あり、テーブルあり、生けすの周囲をグルリと囲んだテーブルもあり、生けすの中の魚が見えるそこに家族は陣取った。ところが食事中に、鮮魚業者とも地元の漁師とも分らぬ納入者の男たちが現れ、生けすの中に生きのいい魚を入れ始めた。ブリなどの大魚は暴れて生けすの水が食事中の我々に飛び散る、はね散る。「ちょっと止めてくれんか!水が飛び散ってるんだぞ!」
と注意すると、「こっちだって仕事です」と呆れた返答に怒りが強まり、すぐさま責任者を呼びつけた。「我々や料理にまでいけすの水が飛び散るし、それを注意すれば、『こっちだって仕事だ』って言い方あるか?業者といえどチャンと指導しろよ」というと、「地元の漁師に直に納入してもらってるんで、注意が行き届きませんでした。申し訳ありません」と、責任者は詫びる。
「何の教育も受けぬ地元の漁師なら仕方ない」ということにはならない。第三セクターで開業した「県民の浜」の責任者は、県より派遣の公務員である。サービス業のノウハウも知らぬままに少しくらいの接客研修は受けたろうが、取りたての活魚を生けすに納入するのを見せるのはいいが、生けすのグルリの顧客への配慮という点を考えなかったのだろう。
翌年訪れたときに生けすは取り払われていた。活魚を納入するセレモニーを食事時に披露するのは失敗だったようだ。食事時にしかそこに顧客は来ないし、どうしてもそれを見せたいなら、グルリテーブルの全面に透明なアクリル板を置くなどして飛び散り配慮をすべきだ。いずれにしろトラブルはない方がいいし、クレームも止むに止まれぬ理由で発生する。
必要から生じるクレームで、クレーム自体が面白いわけでもないが、近年のクレーマーは、クレーム自体をを楽しんでいる。いきがる本人たちを尻目に、一般人からみるとバカにしか見えない。こういうバカがなぜ生まれてくるのか?自分はテレビのバラエティーの影響と考える。何でもカンでも面白ければイイというテレビのコントを真似るバカがでてくる時代だ。
オモシロイがいい、オモシロくあるべきという作り手に節度はない。人を詫びさせるコントは結構見たりする。土下座はさらにオモシロさが増し、どんどんエスカレートし、クレーム自体を楽しむバカの脳回路を刺激する。クレームなんてのは止むに止まれぬものだが、人間のミスや管理の手落ちで発生するなら、消費者は現状確保求める。それがクレームの本質だ。
クレームを面白がるのは許し難いが、テレビで作られた笑いを現実化して楽しもうとするバカの所業と理解はできる。「クレーマー」という造語も生まれた。テレビメディアを真似る子どもはいるし、そういう子どもを大人は、「ウチの子どもはテレビに影響されて困ったもんだ」と嘆いたりする。まあ、我々も背中に風呂敷を背負って走り廻ったものだが、子どもだから許される。
ドリフのコントや「クレヨンしんちゃん」の言葉を真似る子どもに親はお手上げであっても子どもゆえに罪はなく、罪があるのは制作側だ。ところが近年は大人も平気でバカをやる時代。一概にテレビが悪いマンガが悪いというのは短絡的で、お笑いの質が時代とともに変遷したように、大人になりきれない人間がテレビやマンガの虚構と現実を混同する。
我々も子ども時代、テレビやマンガの影響を受けた。近年、『悪書追放運動』と称し、健全な青少年育成を目指すのを目的に、ヌードグラビアや官能小説など性的表現の著しい「有害図書」を焚書したり、有害図書に法規制を求めた主婦やPTAによる市民運動が起こった。この運動の一環として有害図書を捨てるための「白いポスト」が全国に広まって行った。
「白いポスト」はなくなってはないが、めっきり数が減っている。2014年9月中旬からの1ヶ月間に調査した"白ポスト情報サイト"に、全国各地の所在状況がある。「コンビニやレンタルビデオ店などの現実の生活では、青少年がわいせつ物に触れられないようゾーニング(販売場所の制限)が行われているが、インターネットでは制限なく誰もが触れられる。
それで「白ポスト」の意味が薄れてきた。リアルで禁止してもネットで垂れ流し状態では効果は薄いということだが、中学生の少女に金を渡して猥褻な行為をするような男も白ポストに押し込む必要あり。猥褻図画の印刷物より実践の方が罪深く、「青少年健全育成条例」で取り締まってはいるが、検挙実数は知れたもの。生活のための売春と違い、普通の少女も行っている。
こうなると意識の問題だが、我々の思春期時期に照らしていえば、そういう物を見せてくれる大人はいい大人であった。一般的には、モラルに反する非道徳的な大人となるが、スケベでやらしいおっちゃん、にいちゃんであっても、それと悪人とは別である。見たくない少年少女に無理やり見せるのはよくないが、見たい子どもにとっては親切だったのは実感する。
痴漢は迷惑防止条例違反だが、痴漢に遭遇するのを秘かに待つ女は実際にいる。彼女たちにとっては迷惑でもなんでもない。「ウリ」相手を探す少女を「カウ」のも親切といえる。正当な需給関係といっても、社会秩序、公序良俗に反する行為は法に抵触させなければならないのが現実である。野坂昭如をして「巨大な虚無」と言わしめたのが坂口安吾である。
安吾に託せば世間的な「悪」でさえ、「善」とまでは言わないにしても引き受けてくれる。荻野アンナは「安吾は何から何まで肯定で貫く人」というが、どちらの意見も自分的には同意である。住友財閥令嬢誘拐事件における安吾の記述は、やみくもな世間の視点と言うより、まじかな少女たちに立脚した視点で貫く。法による利害と現実利害を安吾は際出させた。
安吾は勇気を持って真実を書く。以下は『エゴイズム小論』の最後。「私は電車の座席をゆずって善人ぶり、道義の頽廃を嘆く人よりも、誘拐犯人の樋口(住友邦子誘拐犯)の方をはるかに愛す。俺が帰郷したところで娘は戻らぬという吉右衛門氏の言葉の方が重々尤も千万なので、まさに御説の通りであり、道義頽廃などと嘆くよりも先ず汝らの心に就いて省みよ。」
安吾は誘拐犯を肯定し、娘が誘拐されたと聞いても保養先の温泉宿から帰宅しなかった父親の慈悲ない言葉さえ肯定する。こんにちなら主婦連のウルサばばぁならずとも、納得できない文章である。なぜ、こういうことが書けたかといえば、商業主義に毒されない物書きの魂というのか、作家は思う存分自分を主張できた。こんにちなら、担当編集者段階で削除もしくは書き直しを迫られる。
大らかな時代だった。フィギュアスケート大ブームの昨今だが、ビールマンスピンという大技の考案者デニス・ビールマンは、あの技を演目に入れることで芸術点を下げられたという。当時同時代に活躍していた日本の渡辺絵美は評価が割れた理由を次のように述べている。「(ビールマンスピンを)綺麗でないという審判もいたし、積極的評価の審判もいた。
当時は選手もそんなに大胆なポジションをとらなくても、という意見が多かった。すごいものに踏み込んでしまったなと思って見ていた。無理な姿勢、危ないということで危険度も高く、もしかしてこの技も禁止になるかね、くらいにしか思わなかった」。明確な採点基準のない時代に、ビールマンスピンを評価しない審判員に対してデニスは採点は眼中になかった。
デニスは言う。「私は審判のことを気にしませんでした。お客さんが喜んでくれるし、それが私にとって大事なことなのです。」デニスの気持ちを表すように、万来の拍手とは裏腹な厳しい審判の評価である。審判の主観が入る採点競技では、評価の分かれるような独創的な技に挑戦するのはリスクが高く勇気のいることだ。スケートに限らず、ピアノコンクールなどにおいても言われることであった。
浅田や羽生やキムヨナが、「審判など気にしない」など、とてもいえない言葉。近年は勝つと言う事が至上命題の競技である。1980年の「第10回ショパン国際ピアノコンクール」でも同様のことがあった。ユーゴスラビアのピアニストであったイーヴォ・ポゴレリチが本戦落選した際、審査員の一人マルタ・アルゲリッチは猛抗議したが聞き入れられず、審査員を辞任する。
多くの審査員が彼に0点をつけたという。この結果をめぐって審査員の間で大論争が巻き起こる。個性的な演奏もさりながら、シャツにジャケットでノーネクタイ。ジーンズをはき、首には鎖やペンダントをジャラジャラという服装も反感を買ったようだ。クラシック音楽、ショパンコンクールに帰属する権威主義者どもが、若者を見下し弄んでいる。0点と言うふざけた採点を見れば明らかだ。
アルゲリッチは、「審査席に座った事を恥じる」と述べるとともに、「魂の無い機械がはじき出した点数だけで合否を決めるのでは無く、審査員間でも協議するべきだ」と発言した。そしてポゴレリチの事を「彼は天才!」と言い残してワルシャワを去った。権威にひれ伏すバカ審査員ども…、耳があるなら音楽を聴けよ!