人は誰も自分を知らない。社会にいても目に映るのは他人の顔ばかり。善も悪も影響を受けるのは他人からだけ。自分が自分に寄与したり影響を与えたりはしない。本で得る知識もすべて他人のもの。人間が知るべきはおろそかにしている自分のことだが、それを教えてくれるのは他人しかいない。自分で知る自分の部分は結構甘いし、鏡に映る自分も左右が反転している。
「結構辛辣なことをいう」と、他人の自分評だが、他人の目は結構的を得ている。なぜなら、他人はいつもこちらばかりを見て生きているし、自分はあまり自分を見ていない。よって、人と付き合う最大のメリットは、自分を知る事にある。そうはいっても、他人から指摘されて傷つく人がいるのは何故?相手は傷つけようと思ってないのに傷つくのは何故なのか?
君とオレはどうも相性が良くないねと言っただけで傷つく。これは信頼していた(と勝手に思っていた)相手に、裏切られたからだ。人が傷つく理由はいろいろあるが、人権を侵された、尊厳が守られなかった、人として尊重されなったなどなど、自己肯定感や自己重要感を侵された場合も傷つく。考えようによっては子どものようだが、誰にでもナイーブな心はある。
少々のことをいわれても傷つかないおばちゃんもいるし、おっさんもいるが、それでもおばちゃんやおっさんを傷つける言葉はある。いくつになっても傷つくというのは、人間がまだまだ成長の過程にあるということで、それはそれで必要なこと。人は傷を乗り越えて内面が成長し、大人になって行く。「大人気ない大人」という言い方をするし、傍観することもある。
が、無防備な自分に不意に何かを言われ、傷つかないほうが稀だろうが、そういう場にあっても常に自尊心を平常に保てるのも経験と言う訓練である。「嫌だな」という事が起こるのも同じ理屈で、できるなら傷ついた経験を多く持った方がいい。傷つくことで内面が成長すれば、弱い人を許し、未熟(子供含む)な人を許し、粘り強く、動じないで受け入れられるようになる。
信じられぬと嘆くより、人を信じて傷つく方がいい、人は悲しみが多いほど人にやさしくなれる…というのは『贈る言葉』の一節だが、これは親からみると「可愛い子には旅をさせよ」に繋がる。目先のことばかりに目が行き、我が子に苦労をさせたくない、辛い思いをさせたくないという親の過保護が弱い子どもを作っている。なぜ、そんなことが分からぬ親が多いのだろう。
売ってはいないが、「苦労は買ってでもせよ」という言葉を知らないのか?ダメな親だと思う。ダメな子どもを作るという点において…。そういう親には、勉強さえ出来れば世の中苦労しないで生きて行けるという信念があるのだろう。信念を疑わぬならそれでいい、突き進んだらいいことだ。もっとも、過保護、溺愛に陥りやすい少子化という社会形態にも問題はある。
「少なく産んで大事に育てたい」は分らないでもない。子どもが3人いれば親の目は3分されるが、1人だと我が子の頭から足のつま先まで100%となろう。極端に過保護、極度に放任、どちらもいいハズがないが、加減がなかなか難しい。「中庸は徳の至れるものなり」というように、両極に陥らない正しい育児をするからには、親の自己洞察能力が不完全であっては無理だ。
相手を知るのも至難だが、自分を知るのはさらに難義。だから、人は人から自分について教わる。「客観性」という言葉にあっても、他人から見た視点や忠告に傷ついたり、悪意にとったりの人間である。動物の基本は主観的な「生」である以上、人間もまた主観的な生き物だ。それが誤りのもと、誤った育児のもとであるのを知る人間は、誤まらない育児の努力をしてきた。
主観的な人間が陥りやすい育児の盲点から、「三つ子の魂百まで」、「子どもは風の子」、「子は親を映す鏡」、「(背に)負うた子に教えられ」、「可愛い子には旅を」、「一つ叱れば三つ褒めよ」、「三分の寒さ、三分の飢えで逞しく」、「総領の甚六」などの慣用句が生まれ、これらから育児の失敗を戒めた。これらをカルタなどにして生活に密着・浸透させた。
「総領の甚六」などはカルタをしない現在にあって、耳にしない大人が多い。言葉の意味は、「総領」とは長男(長女)のこと、「甚六」とは「甚 (はなはだ) しく六でなし」の意。つまり、跡取り息子は弟や妹に比べて大事に育てられるので、得てして、おっとり・鈍い者が多いという慣用句。家康はなぜ三男秀忠を世継ぎにしたのか?正確には分かってはいない。
ある学者が「家康は『総領の甚六』を描いていた」と説を述べていた。学者の説は学者のもので、家康がこのことを述べた記述はない。長男信康は正室築山の子であったが、信長によって謀叛の嫌疑をかけられ切腹させられた。次男秀康は秀吉に養子に出された後、関東の名家結城家の跡取り養子となった。二人とも実質世継ぎの資格はないが、秀忠世継ぎは謎というのが定説。
さて、一人っ子の自分は総領であるが、総領でもない。実は早逝した兄がいた。子ども用の布団がなく、重い布団によって窒息したと聞いた。もちろん、親の不注意であろう。墓に長男年秋の名が彫られている。それもあってか、大事に育てられたのかも知れない。一子を不注意でなくした親の気持ちは分かるが、だからと言って大事にされ過ぎるのも迷惑であった。
親子の相性というのはあるのか?好き嫌いはあるかもしれぬが、それを相性といっていいものか?夫婦や恋人に相性はあろう。「君とは相性が合わないから、互いに無理し合うより、無理をしない相手を見つけた方がいい」と女に言ったことがある。相性を否定しただけなのに、「どうしてそんな人を傷つけることしかいえないの」と言われたのにはビックリだった。
付き合ってみて相性が合わないからと、別れるカップルもいれば、結婚した後に、「性格の不一致」という理由で別れる夫婦もいる。それを思えば、付き合う前に相性が合わないと感じたわけだから、「とりあえずやってみるか」よりは誠実と思うのだが、相手は嫌われた、非難されたと思ったようだ。早期発見は互いのためと思うが、「やってみなければわからない」という。
相性が合わないと、片方だけ思ってもそれはダメではないかと。もし相手が、「わたしは相性が悪いとは思わないけど…」と言って見ても、こちらが悪いと思えばうまくは行かない。相手は納得行かないだろうが、合わないものは仕方がないし、別に相手の罪ではない。相手と相性の合う人間はきっといるだろうし、自分が合わないというだけだから悲観することもない。
強引にそのようないったら、「それって差別よ!」と言われて驚く。「何で差別なのか?」、「男の差別。女性に対する…」。言ってる意味も中身もさっぱり分からなかったが、男の一方的な言い分を彼女は差別と感じたのだろう。世の中にはいろいろな差別があるものだ。と、そう思うしか理解はできず。何事か、勝手に決め付ける女は多く、その意味で相性は悪い。
「君とは相性が合わない」といえば、「あなたの気にいるような女になる、がんばる…」と言う女もいた。そんなことができるのか?"主体性のない無害のバカ女こそかわいい"、という時代の申し子である。「あなた好みの女になりたい」という歌があったが、そういう性向をもつ女はいる。主体性はなくすべてが依存体質。まるで依存するために生まれてきたような女。
吉田拓郎の「外は白い雪の夜」に次の歌詞がある。「女はいつでもふた通りさ 男を縛る強い女と 男にすがる弱虫と」と、これは松本隆の詩である。男にすがる女を弱虫という男もナイーブである。女は基本は受身で、依存性向を旨とするが、昨今は男を縛る女がいるらしく、男がそれでいいなら問題ないが、それを嫌う男なら絶対そうならないようにするだろう。
恋人であれ夫婦であれ、二人の関係の中で協力(協調)すべき点はたくさんあるし、これは譲れない部分もある。協力行動は組織にあって大事な要素だから、家族内や集団間で必要になる。協調すべきはし、個(自身)を大切にすべきところはする。このバランスさえ行っていれば集団生活は問題ない。柔軟性こそ知的であり、人間を自然界の中で独自な存在にしている。
「この部分は協力できるが、○○については譲れない」とハッキリ言えばいい。自分のスタンスや方針を表す言葉に遠慮してはダメだ。それはむしろ双方の関係を続ける要因であって、我慢は限度を超えると折れて崩壊する。恋人との関係を上手く長くやろうと思ったら、調子がいい時だけを選んで会い、気分が乗らないときは会わなければいい。夫婦と違ってそれができる。
が、しつこく誘われ、断るとすねる。相手の気持ちを汲まない幼児気質か、女のわがままか、そういう場合に無理に同意して会っても負担を残す。無理を強要され、無理をし、無理がたたれば気持ちは離れていく。愛情とは相手の気持ちを優先することだが、自分を優先させたいエゴ女。もちろん、男にもそういうのはいるだろうが、聞き分けないのは感情気質の女に多い。
「自分のわがままを聞いてくれる男は、自分を愛してくれている」。などの勝手な判断をする。それで遣り合ったこともある。「相手の事情や気持ちを汲むのが愛情だろう?」、「…わかってるんだけど、ダメなの」。「それを分かっているとは言わないんだな」。「でもダメなの」。感情重視、感情主体生きるのはいいが、相手を自身の感情の虜にするなら、人は去る。
傷を乗り越え、内面が成長することで大人になるなら、内面が成長することで傷つかない大人になって行く。人から言われた言葉が、「自分が傷つくに価しない」と思えるようになれば、なんにも傷つかない。少しくらい傷ついたからと自殺するのは、将来成長して傷つかぬ自分にはお目にかかれない。可能性を求め、可能性に期待して、人間は大いに傷つけばいいよ。