離婚については度々書いてきた。離婚肯定派というより、夫婦は何が何でも我慢し、頑張って添いとげというのが数十年前の美徳であった。考えてみるに、何の、誰に対する美徳なのか?夫婦愛という美徳、時代背景における社会的美徳、プラス双方の両親や肉親、親戚などへの配慮もあったろう。それほどに離婚と言うのは、羞恥の極み、人生の落伍者であった。
周囲への配慮、実より名、中身より表層を大事にした時代であったろう。「美徳」とは字の如く"美しい徳"、「徳」は宗教的意味を排せば、道徳と言う言葉にあるよう、ゆがみのない真っ直ぐな心、道にかなった行いとの意味あり。夫婦はいつまでも仲睦まじくと誰もが認める夫婦の美徳といわれる。また日本人においては、「もったいない」に代表される節約の美徳がある。さらには「我慢」、「辛抱」、「忍耐」と、同じような意味の言葉があり、これも日本人的美意識である。近代になって価値観が大きく変貌した時代にあって、果たして「節約」や「我慢」が美徳なのだろうか?どちらも欲望を抑えるということから派生する言葉であり、美徳とされるが、「節約」、「我慢」いずれも内向きのエネルギーを生じさせており、いわばネガティブな美徳であろう。
美徳にはさまざまある。強い怒りが湧き出るときに、事を荒立てず、静に怒りが去るのをじっと耐えるのも美徳だが、行為する美徳もある。分かりやすい例でいえば、君父の仇を討った赤穂四十七士は美徳に生きた人たちであり、儒学者がまとめた礼に関する書物『礼記』にある「不倶戴天」の美学である。父を殺した人間とは同じ世を生きない、生かしてはならないと諭す。
そうした英雄達をなぜに幕府は切腹を命じたか?これには林大学頭、 荻生徂徠ら幕府お抱えの儒学者の間においても見解が割れた。「主君の仇はとるというのが人の道の大原則であったにも関わらず、「忠義だけでは時世を知らずこれ御政道にあらず」などの解釈から浪士には死罪を降した。子どもの頃には納得できかねたが、後年は山本七平らの解釈に触れることとなった。
山本はこのように述べている。「浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。…違法行為をした、しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動も否定しなければ論理があわない。現代でも『殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。
しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう』などということは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、…理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にはない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だという事になる。」(『現人神の創作者たち』)
美徳から赤穂義士にながれたが、「節約」、「我慢」といったネガティブな美徳とは別に、「別居婚」という新しい行動学がある。「美徳」という形式に比べ、現実的行動スタイルを「美徳」とはいえぬが、籍だけ入れて住まいは別という「別居婚」夫婦は増えている。コレは夫婦がいがみ合い、互いを遠ざける別居と違い、双方のライフスタイルを守るために行われているようだ。
子どもが成長し、自立して家を出たなら、子育てという夫婦にとっての一大事業は終ったと見る。子どもと親が別居するのはいがみ合いからでないように、夫婦が別居して相手に気がねなく好きな生活をするのは何らおかしくない。そのようにすべきであるとは思わないが、そのような別居は夫婦にとってあるまじき形態といえようし、何も「美徳」などと現を抜かすこともない。
働く女性が増え、互いのライフスタイルを崩さないために別居婚を選択するという理由も多く、互いが望むなら新しい夫婦の形である。大人としての互いの自由を認め合うのを、放任というのとは違う。空気のような夫婦関係は、「何をやっていても気にならない」というのを、「それって愛がないし、離婚の前兆では?」と訝る仲良し夫婦もいるが、そういう事ではないだろう。
人の事は、気にすればキリがないし、気にしない努力を続けていたら、気にならなくなったと言うこともある。何にしてもお互いがそれでいいならいいのであって、他人が心配することではない。夫婦喧嘩でもつまらんことで言い合いするくらいなら妻の言い分に従ったほうがいいという夫もいる。口を閉ざしたことで言い合いを避けることで主導権を妻に取られたという夫も多い。
感情でたたみ掛けられ、ヒステリーを起こされたらたまったものじゃないが、どっちにしても女一人に手を焼くなどは男の分際からしてへタレである。そういう夫は、「何をいってもダメだから諦めた」と決まっていう。諦めたなら文句をいわぬことだが、言いたい文句があるなら、鍋の一つくらい飛んできても砦を守ることだ。女は鍋を投げるが、叩かれると「暴力、暴力」と叫ぶ動物。
恐妻家で妻の気の強さに手を焼く中川一郎元農水省に、兄貴と慕った金丸信元副総理が、「女房は思いきり殴りつけてやれ。そしたら亭主の言うことに従うようになる。」と伝授したというが、中川は自殺をしてしまう。自分の近所でも立て続けに夫の首吊り自殺が2件あった。いずれも恐妻家で、仏のようなやさしい夫であった。中川のあだ名は「北海の熊」であったのに…
文句が面倒だからと黙って従った最初に問題があり夫の責任だろう。そういえば若き頃の父も母を縛ったり、柱にくくりつけたり(SMプレイではない)していたが、後年は何をいわれてもダンマリを通した。エネルギーが喪失したのか、達観したのか、その両方だろう。若き日の父は女遊びが過ぎたる人で、親の喧嘩の理由は分からぬが、おそらくそれも火種と察する。
女遊びも何事も、やり尽くせば飽きも来ようし、男として理解する。そういえば高島礼子と高知東生夫妻も放任夫婦だったようだが、これだけ騒ぎになると、然したる離婚理由はないにしろ、体面的に考えざるを得なくなる。覗かれなくても良かった私生活を覗かれてしまったようだ。離婚経験者に言わせると、離婚とは結婚以上にエネルギーを要するものらしい。
にもかかわらず、日本の離婚率は上昇気味だ。厚労省発表データによると、2000年代の離婚率は高度経済成長期の約2倍。自分の周辺を見渡しても、離婚経験者はゴロゴロいる。かつては珍しく、世間は白い目で見たものだが、昨今の離婚経験者は、離婚歴を隠そうともせず、どこか堂々としている。女性が虐げられた時代に比べ、離婚は恥ではなくなった。
他にも離婚を恥と感じない人が増えたのは、「離婚が必ずしも悪とは限らない」と考えになったことも一因。確かに事情と経緯によっては、「離婚やむなし」の場合もあれば、離婚したほうが互いにとって最善と肯定的に考えるケースもある。「バツイチ」ならぬ「プライチ」という言葉までいわれている。「プライチ」とは、離婚によって人生経験がプラスされたとの意味。
離婚に至った理由は個々によるが、近年は意外な理由で離婚する夫婦もいる。最も裁判所が扱う離婚理由のダントツは、「性格の不一致」である。これは夫にも妻にも多い理由となっている。抽象的だが、恋人期間中は分からなかったこと、見えなかった部分が、結婚生活を続けていくうちに、考え方や価値観などの違いが見え、我慢できなくなったということだ。
当初は食べ物や洋服、音楽やレジャーの好みや、ちょっとした習慣など、どちらかが譲ることで離婚は避けられる可能性はあったが、根底の性格が合わないと、互いに共感できることが少なくなる。「合わない」と感じながら夫婦を続けていくことは困難と考える夫婦は多い。親子関係は止められないが、断絶親子はある。断絶夫婦は止めることが可能で、その方がいいと考える。
断絶親子も夫婦の離婚もあるのが普通。反抗のエネルギーも離婚のエネルギーも甚大であれど、日々ストレスを溜めながらの生活よりはマシである。会社に嫌な同僚や上司がいるのも相当に辛いらしい。折り合いをつける方法を模索し、試してみるのもいいが、あっさり辞めたほうがスッキリの場合がある。会社には能力差という歴然とした差別がある。
が、これは業務上区別と分類されるもので仕方がない。いや、能力差による区別は、差別と捉えるべきではないが、当事者は「差別感」を抱いている。区別を差別と感じれば差別となり、差別と区別は人間が生身である以上、普遍的な命題である。家庭内における親子の差別感を感じる子も多いが、最も多いのが兄弟・姉妹を差別する親。これは子どもにとって耐え難い。
兄弟を比較するのを親は絶対やってはいけない。如何に能力に差があろうと、同じ親を持つ身として同じ質と量の愛情を授からなければならないし、それなくば差別である。「姉に比べてお前はダメだ」と言われてどう思うか?「お前はダメ」と言わないように親は配慮するも、姉を褒めるだけで、下は貶されていると同じ気持ちを抱く。親はその微妙さに気づかない。
AとBを比べ、単純にAを褒めただけなのに、Bは貶されていると感じる。一人っ子を褒めるのは何も問題ないが、二人兄弟の一方だけを褒めるのはダメである。BよりAのある部分を褒めるなら、AにはないBのいい部分を褒めることを忘れないように。ところが親が勉強だけ、スポーツだけ、芸事などに特化した価値観を持つような場合、兄弟間の嫉妬が起こりやすい。
嫉妬はやがて軋轢に移行する可能性も大きい。以前、妹が万引きで捕まり、親から厳しく叱られたことを苦悩した妹思いの姉が、ワザと万引きをして捕まったという。この話を聞いたとき、妹を思う姉の苦悩は心情としては理解できるが、実際に行動に移したというのは凄いことだと感じた。親に叱られる妹の心に同化しないでは、とても出来ることではない。なんという優しい姉であろうか?
不出来な妹を親が叱るのを、「いい気味だ」と姉は思ったのは聞いた事があるが、それとは真逆。妹の心痛に同化するあまり、自ら悪い子になろうとした姉の心理理解は並大抵ではなかった。妹には長年の姉に対する嫉妬はあったろうし、姉もそれを感じたはずだ。そんな姉が同じように万引きで捕まったとき、妹はどう思ったろうか?故意にとは絶対に思ってない。
「姉だってやってることは同じじゃない」と気持ちが晴れたのか、差別する親に対し腹いせ感を抱いたか、その辺判らないし、聞いていない。利口な姉は故意である事を妹につげなかった。もし、口に出したとしたら妹はさらに侮辱感を抱いたろう。「万引きした私に同情してしたっていうの?そういうのって正義ぶってない?バカにしないで!」と思って可笑しくない。
姉の行為の真実は分らないが、感傷的な同情なら故意を妹に告げたかもしれない。それによってますます姉妹の距離感は遠のいた。姉は「妹が可哀想だったから」ということだったが、姉妹を差別する親に対し、水平感を訴えたいとの捨て身の行動と自分は理解したが、こういうことが出来るものなのか?との疑念は消えなかった。姉妹にしかわからない関係であろう。