一人の人間の書くものはそれなりの指向性を持ち、同じ傾向になりやすい。なるのが自然で当然ともいえる。書くたびに主張がバラバラでは、一貫性に欠ける。果たして「一貫性」が自慢できるものか?そうも思わない。人間は長いスパンの中で変わって行くものだからだ。変わるといっても10日前と昨日で言う事が違うと、チグハグと非難もされよう。
思えば母親はいう事がコロコロ変わった。日単位どころか、時間単位で変わるのでやってられない。しまいには、バカ女と見下すしかなくなった。「修身教育」を受けた昔の人間だから、「親を敬わぬ者はろくでなし」とヌケヌケという。「修身」には尊敬できない親でも敬えという直接的な記述はないが、「親孝行」、「長幼の序」は「修身教育」(儒家思想)の根本である。
戦国時代を武力で統一した徳川家康は、近世儒学の祖と称される藤原惺窩(せいか)の講義を受け、儒学(朱子学)を新時代の官学としたが、その惺窩と激しく論争したのが林羅山。惺窩は羅山の英明さに驚き、自身は仕官を好まなかったため、1605年に羅山を徳川家康に推薦した。羅山の学識の高さを大いに評価した家康は、23歳の若き羅山を幕府の相談役として召抱えた。
羅山は、家康居城の駿府城で儒学を教える傍ら、駿府の書物庫をあずかって、のちの紅葉山文庫の整理をした。1616年、家康が死去すると、2代将軍秀忠に仕えた羅山は、学問ばかりでなく、政治にも参加をする。「色を好むは真の情」は、羅山の言葉。歴史に名を残す英雄も、長屋住まいの庶民においても、「真の情」。経営の神様と言われた松下幸之助には7人の妾がいたという。
近年、「妾の子」という差別用語はなくなった。昭和17年民法改正前までは、「非嫡出子」といわず、認知されているか否かで「私生子」、「庶子」と分類されていた。婚姻外の子どもで、父親に認知されない子どもを「私生子」、認知された子は「庶子」と民法上分類されていた。しかし、差別の原因になったために民法改正で、「非嫡出子」に統一された。
田嶋陽子などは、妾(愛人)そのものが女性差別というが、庶民の娘がお殿様に気にいられて大奥で寵愛を受けることは玉の輿であった。資産家の愛人となれば、庶民家庭よりはるかに良い暮らしができた。山崎豊子の『華麗なる一族』では、手切れ金で屋敷から追い出される愛人を映し出しているが、同じ屋敷内に本妻と愛人同居は社会的にも問題がある。
NHK朝ドラ、「あさが来た」においても、史実通りに物語を作る気はなかったようで、新次郎と妾との間に子が生まれる件は隠されている。「妾を持つ」こと自体が視聴者の反発を招きかねないのに、「妻妾同居」というのはタブー中のタブー。時代設定云々いえども、穏健な国民放送局制作の視聴者向け朝ドラにあって、畜生の仕業としか思われかねない。
映画監督マキノ雅弘が憤慨して吐き捨てた言葉を思い出す。「やくざ映画が遺憾いうて、なんで信長や秀吉ならええのや。NHKはあんなもんばかりやっとるが、アレらの方が余っ程ようけ人を殺してるんや。アホやで、ほんま!」。また、城山三郎によって描かれた(『粗にして野だが卑ではない』)元国鉄元総裁の石田禮助は、勝新太郎の座頭市を好んで観たという。
「勧善懲悪だし、最後には必ず勝って、死なないからいい」としたが、同じ筋立ての水戸黄門は、「最後に印籠を出して威張る。権威を振り回すのが好きになれない」といっているところは、いかにも禮助らしい。男はヒーロー物、勧善懲悪物、女は恋愛物が昔も今も好まれている。韓流ドラマは一時のブームは去ったものの、いまだに主婦のハートを焦がしているようだ。
「差別は永遠になくならない」と野坂昭如が生放送(「朝まで生テレビ」1989年7月28日放送)で発言したのには驚いた。彼は、「人間は差別されるのは嫌いだが、差別するのは大好きだから」と持論を唱えた。確かに彼の言う通りかも知れない。差別撤廃が目指すものは、「人を差別するのは大嫌い」という人間を、教育によって作ることだが、おそらく不可能だろう。
政治家や官僚の収賄をなくすために、政治倫理をいくら叫んでも贈収賄が無くなるとはとても思えない。橋本龍太郎が総理だったころ、政治家のスキャンダルが相次ぎ、国会は政治家の倫理を巡って紛糾し、「倫理国会」などと言われた。これを中曽根康弘元首相が、「リンリ、リンリと夏の鈴虫じゃあるまいし」と茶化したことがあったように、政治家に倫理を求めるのはムダ。
倫理は政治家にではなく、人間に備わるもので、そういう人が政治家になるしかない。そうはいっても人に倫理観のあるなしは分らない。だったら、倫理に関する規正法は厳罰にすればいいことだが、自分達の旨みを変えようとしない政治屋が国をダメにする。もっとも、倫理云々を言う前に、政治家には、「お金が嫌いな人を選んだ方がいい」ということになるのだが。
果たしてお金の嫌いな人間が世の中にいるのだろうか?お金好きよりも、「志」を持った人間こそ政治家を天職といえる。先に仕事を「志」といったキャスター小谷真生子が、ニュース番組の娯楽化を憂えるように、志とは情熱であろう。情熱を失わないから志と言える。そういう人間がある仕事において、「天職」といえるのではないか。また、天職だから情熱を傾けられる。
どちらが先でも後でも、情熱と天職は表裏である。その仕事に惜しみなく努力をし続けられる人の事でもある。政治にも理想が大事なように、教育もまた理想を欠かさない。理想を掲げるからこそ高みに到達する。それをいうなら野球人としてのイチローもその部類であろう。教育界に林竹二という巨人がいた。彼の伝記を『天の仕事』というタイトルで著したのが日向康。
彼の、「生の意味は制作ではなく(目的獲得のものではなく)、行為にある」という独自の哲学。つまるところ、「すべては結果ではなく、行為の過程にある」というのは、結果重視社会に対する警鐘である。林は、人間の「生」を自己に課された任務の遂行と受け止め、片時も、それを実行するための、「行為」から離れることがなかった。日向は林を、『天の仕事』の従事者と解す。
長らく宮城教育大学学長にあった林は、その在任期間を振り返り、「結局、何もやれなかった、否、やらなかった」、「何もできなかったというよりは、何もやらなかったというほかない」と振り返っている。「しなかった」ことを、「できなかった」と言い訳する人間の多い中において、「できなかった」を、「しなかった」と受け止める人間の歴然とした責任感である。
「できなかった」は、「できなかった」と結論したいのだろうが、「できなかった」は、「できるであろう種々の方法を見つけられ得なかった」という、真摯な自己責任感である。もっと、「できる」何かがあったのではないのか?「できなかった」のは自分が無能であったからだと、言い訳を排して悔いる自己肯定感。自分を信じ、信頼するから辿り着く考えであろう。
己に自信のないがゆえに、「最善の努力をしたが、及ばなかった」と自らを慰める。これではイチローのようにはなれない。さっさと自己の能力を見切って諦めているからだ。「もっと何かないのか?きっと何かがあるはずだ!」こういう姿勢の人は、いつまでも向上し続けられるだろう。自分を信じることは、たとえ上手く行かない時でも、投げ出さないでいれる。
「こんなに頑張ったのに…でもできなかった」という言葉で自分を慰めたいだろうが、自分を慰めて何になる?それで自分が生かされるのか?昨今は、「癒し」の時代といわれる。人間は自分を癒すものを求めて躍起になる。何と言う脆弱さであろう。自分を癒さなければ身がもたないのか?誰がそんなに人を弱く教育し、自分もそれに嵌まってしまったのか?
ニーチェの言葉にはほとばしる男らしさが現れている。だから、彼を好きだし、同じように坂口安吾もである。ニーチェは他人に同情なんかしては、自らの足で立ち上がれなくするといった。「彼にとっての居心地のいい柔らかいベッドよりも、固いベッドになれ!」と諌めた。同じく安吾も、「他人に親切にして裏切られたと文句をいうくらいなら、最初から親切などするな!」と言った。
「親切とは相手から裏切られ、殺されてもいいつもりでやれ!」といった。これを理解できる人間は、軟弱な親切とは、相手のためと言いながら所詮は見返りを求めた利己的な行為であることに気づく。「人のため」と言いながら、「自分のため」にするのが悪いと思わない。なぜなら、それも人のためになっている。問題なのは「人のため」という詭弁である。いわずに黙ってやればいい。
自分は相手のために何かをしたい衝動に囚われたとき、それでも自分のためだと言い聞かす。これをやる事は自分の何がしかにプラスになると思って行為する。相手のためなどは、そうであってもなくても自分にとって意味はない。自分の行為は自分のためにやればいい。だから理屈抜きに突き詰められる。イチローを見ていて感じるのは、他者の評価を意に介さぬこと。
礼としてのお辞儀などの対応をするが、それは形式的なものである。彼は自分のために何かをし、目指す何かがある。そしてそれは自分を誇るためというより、あくなき自分への挑戦であろう。目先の評価に殉じているよりは、常に可能性を求めてやまない。評価も喝采に興じないのは、それらを目的としていないからで、そういうものが自身の枷になっていない。
すごいモチベーションの持ち主である。確かに他者の評価や喝采を拠り所とするなら、人間はある時点において自らを驕るだけだが、イチローは猛烈なる求道者である。自分と他者を相対評価をしないところがそれを感じさせる。将棋が多少指せる人がよく言うのは、「あいつは弱い」。もしくは「あいつより自分の方が強い」。こういう言葉を聞くだけで器の小ささを感じる。
向上心の強い人は他者から、「強いですね」と言われても意に介さない。「ありがとうございます」という社交辞令、もしくは、「そんなことはないです」という嫌味にならない程度の謙遜。後者は人間関係の中で大事なもので、本心でいってるかどうかは意外と察知される。だから、こういう言葉を本心で言わないなら、言わぬ方がいい。自分を驕っている人は態度に現れる。
そもそも自分を「強い」といい、他者を「弱い」という人は、強い人への敬愛心や視点がない。自分より弱い者とだけ比較し、「自分は強い」と言っている。批判はしないが、そういう人だと思って付き合える情報になれば、それでいいこと。いわゆる、「お山の大将」だから、そのように接してあげるといい。人はいろいろの、分かりて此の世、楽しきにありていとをかし…