二人の女性を表題にしたのは、比較対象としてではなく、時事的にタイムリーであったこと、それぞれに印象深いものがあったことに起因す。女性と言う動物において、また人間の資質においても、二人には差異が感じられた。二人とも特に注視していた人物でもないので、方や夫の覚醒剤所持、方や都知事選出馬表明という一件から受けた印象について述べる。
小池百合子は1952年(昭和27年)7月15日生まれの政治家。カイロ大学卒業後はアラビア語の通訳として活動した後、1979年から日本テレビ『竹村健一の世相講談』でアシスタントキャスターを務めたが、1988年よりテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターを務めた。残念ながらキャスター時代の小池の印象というか、記憶はほとんど残っていない。
同番組は現在も続いており、2014年の時点で、民放各局の最終ニュース番組の中では最長寿番組となっている。また、東京キー局制作の報道番組で、かつ番組名を変えずに現在も放映されているケースにおいても2014年5月の時点で、フジテレビの『FNNスピーク』に次いで2番目に長い。『ワールドビジネスサテライト』は、小谷真生子が16年間勤めた看板番組だった。
小谷は2014年3月28日をもってBSジャパン「BSニュース 日経プラス10」のメインキャスターを担当することになり、変わって2014年3月31日より新メインキャスターとして大江麻理子が就任し大幅にリニューアルされた。番組のエンディング時、初代の小池から先代の小谷まで「ごめんくださいませ」と挨拶していたが、大江は「それでは、また明日お目にかかります」と変えた。
小谷のキャスターとしての一家言は、「ニュース番組の娯楽化」を懸念している点で、彼女はこのように言う。「私にとって、娯楽とは人々を笑わせ、楽しませるものです。でも、ニュース番組は人々の死や悲しみといった事実と向き合い、真剣に取り組むべきものです」。近年のニュース番組は娯楽と報道の中間の傾向があり、娯楽番組の司会者がニュースに行ったりする。
その逆もある。ニューステの久米や古館のことを指している様でもあるが、小谷も局側からそういう要請を受けたこともあるという。彼女はキッパリ断っており、「一旦どちらかに行ってしまったら、もうニュースに戻ることができないと思った」と述べている。小谷は元NHKのアナウンサーであり、父もまたNHKのアナウンサーだったが、今なお小谷はNHK的である。
彼女の以下の言葉は好きだ。「ジャーナリズムは、人の命を守り、権利を守るためにこそ存在していると思います。人を驚かすだけのショッキングな報道をジャーナリズムと言えるのでしょうか。その点において、マスコミで仕事をしている人は、本当に志を高く掲げて仕事をしているのか、常に問われなければならないず、仕事で最も大切なのは志だと思っています。」
初代キャスター小池の記憶はまるでないが、小谷はキャスターとして人気を得ていた2007年、自由民主党から参議院議員選挙への立候補要請を打診されたが、固辞している。小池は、1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、前熊本県知事の細川護煕が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して参議院議員に初当選した。
「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由というが、目立ちたがり屋の小池の当然ともいうべき選択であろう。女性はなりふり構わず目だってこそ女性としての本性であるなら、今回の都知事選を前にしたスタンドプレーも、その後で都議会や都連幹部からクレームがつくのを見越した彼女の採算であるのが分かる。
都知事選に出馬の意思があるなら、立候補の前に協力体制を得るために都連や都議会に強力を仰ぐための意思表明並びに、立候補の挨拶をするのは常識中の常識である。それを無視してなぜ彼女は勝手に立候補したのか?推測するに、まだコレといった候補者の選定が決まらぬ段階にあって、誰でも良いというなら、鳴り物入りで自分を担ぎ出して欲しい!というのがホンネであろう。
いかにも目立ちたがり屋の小池らしい、目立ちたがり屋的な行動である。あのような仁義に劣る行為を男は最も嫌がるという事を知ってか知らずでか、いや、おそらく知ってはいるのだろうが、だから「崖から飛び降りる覚悟!」という比喩で、自身の非礼に免罪符を与えている。話し合いを好まず、話し合いを苦手とするジコチュウ性格にありがちな女のヒステリーと見る。
誰にも相談することなき身勝手行動をしておきながら、「私は自民党員なので自民党から出る」などとよくもいえたものだが、表立っては出ないが裏では、「バカな女の勝手を許すわけには遺憾!」と叱りを受けたようだ。それなら都民を後ろ盾に、「無所属でも出馬する」とここまでは予定の行動であろう。ようするに彼女は、自分が人気があるのを分かった上での採算だ。
とにかく知事になればいい、後は何とかなるという考えで、議会軽視のこうしたスタンドプレーは狭い社会で許されない。日本はまだまだそういった長いものには巻かれろ的な社会である。自由主義的な考えに立てば、誰にお伺いを立てる必要もなく、自分の責任において誰でも立候補をしていいわけだが、話し合いで事を決める寄り合い社会が今なお幅を利かす。
都連が次期候補として櫻井俊氏に奔走している最中に、突然の出馬表明は都連の反対はともかく、都民を味方につけて知事になったとしても、青島知事のように議会からそっぽを向かれて何もできないが、青島と違ってそこは女性である。あまりの女性イジメが表立つとマスコミ叩かれる。彼女はそういう計算も視野に入れた議会運営を模索しているかも…。
男ならビシバシ叩けるが、女性は腫れ物に触らねばならず、男と同じようにはやれない。この点が逆差別的やりにくさである。小保方氏ではないが、女性の涙に世の男は弱い。女の涙を男は許すが、男が男を許すなら、佐村河内のような言い訳ナシの全面謝罪であろう。障害者の彼には失うものもなく、取立て守らねばならぬ自尊心もない。だから出来たのかと。
とかく男は言い訳を嫌うところがある。それで共感を得たのが高知東生の覚醒剤所持で会見に臨んだ高島礼子である。相方の不始末において、アレだけ正直に、且つ明晰に、何かを隠そうともせず、心を露にして話をした人を初めて見たような気がする。以前、勝慎太郎の大麻事件のとき、妻の中村玉緒がやはり同じように、妻としての夫を詫びた会見以来ではないか?
夫は夫、私は私というように、妻と夫は言わずもがな他人である。親と息子(娘)というような血のつながりはない。夫婦が子どもの不祥事で、「お前が甘やかすから」、「あなたが子どもに何かしたの?」という無様な言い合いは耳目にした。責任回避のためのくだらない擦り合いと、目くそが鼻くそを笑うようなくだらない言い合いを公然と人前でするバカ夫婦としかいいようがない。
それに比べて夫の責任を妻が、妻の不祥事を夫が(事例は少ないが)、我が事のように感じるのは見ていて気持ちがいい。擦り合いがそれほどに醜く見苦しいということだ。いろいろな見方、感じ方はできるが、高島の言葉の端々から見える、夫婦関係の実体の無さ。記者が、「最近東生氏にいつ会われました?」と利かれた高島は、「思い出せません」と述べた。
これが何を意味するかは、実体として夫婦関係は成り立っていない。別の言い方でいえば、生活の中に相手が不在であるのが、双方にとっての日常である。籍は抜いていないだけでお互いが独身という事でもある。高島は夫について隠すこともないというほどに、夫のことに無知であったということ。もちろん、庇う事柄もない。アレがあの会見の実体であったといえる。
つまり、実体のない夫婦が、夫婦の実体についても、実態についても語りようがない。実体の無いままで何ら支障がなかったものの、脱法行為で逮捕とあきらかに不倫と言う不法行為があからさまになった以上、夫婦関係をどうにかしなければならないという社会問題が浮上してきた。それさえなければ、互いが自由に野放しでいれた夫婦である。それについて高島は…
「今後はそういうこと(離婚)についても考えなければ…」という言葉を発せざるをえなかったようだ。夫婦関係が破綻していても、顔を合わさねばとりたてどういうこともない。ストレスもない。腹の立つこともない。そういう夫婦も夫婦である。そんなの夫婦じゃない、一緒にいる意味がない。というが、一緒に居ないのだから問題がない。別に夫婦に限らずである。
どうしようもない不詳の息子(娘)でも、離れて暮らし、会う機会もないならどうということはない。嫌な友人でも会わなければいいしそれと同じこと。それでも親子であり、それでも友人である。同じように、それでも夫婦である。かつては共に力を合わせて子育てもし、お金を貯めて家も建ち、そういう過去も立派な夫婦の履歴である。今は空気のような存在にあってもだ…
外国人の言う「愛」の表現は、「空気のような夫婦」を否定するが、日本人の理想とされる経年夫的婦観は「空気」である。50歳、60歳になって、いちゃいちゃべったりを好まぬ日本人文化とも定義できよう。と、そのように考えれば、高島夫婦は理想の夫婦であった。「そんなの嫌」という夫婦には理想とならないが、「それでいい」という他人に口を挟むのはお節介と言える。
とかく日本人は他人の生活には口を挟むのが多いが、周囲を見て暮らさず、自分を見つめて暮らせばいいだろに。高島礼子が、薄化粧で美しかったのと、記者連中をまるで知人、友人と会話するように、それこそ肌と肌が触れ合うような至近距離で、切実に自分の思いを語ったのは素敵だった。こういう質問にはこう答えるのがいいとか、そういう作為は微塵も感じられなかった。
小池百合子と高島礼子の最も大きな違いは厚化粧&薄化粧である。女性の化粧は、化けるといわれるように、顔の印象を良い風に変えるし、自身の魅力度や美人度を上げることもできる。エレガントなイメージ、デキる女、可愛い女のイメージを纏うことによって、本人の意識にも多かれ少なかれ変わるし、自信を与え、気持ちが強くなるといった影響を与えるといわれる。
男の化粧の意味は分らないが、ブサイクで劣等感を持った男は女性など顔負けのメークをするようだ。男が化粧を施して美しくなるためには、オカマでいるほうが自然、という観点であろう。つまり、男の容姿や身なりで派手な化粧をするには限界があり、それほど派手な化粧を施さないことには、ブサイク男を変えられないという苦心の判断ではないかと感じる。
カルチャークラブのボーイ・ジョージを始めて観たとき、「こいつはデカイ顔のブサイク男だろう」と感じた。Ⅹjapanのメンバーもそう見えた。昔、容姿コンプレックスの男はサングラスが必須であり、野末陳平、寺尾聡、井上陽水、宇崎竜童、鈴木雅之などが初期にサングラスで顔を隠していた。グラスを取った宇崎竜童の違い過ぎるイメージに引いたのを覚えている。
唯一グラスを離さない浜田省吾は、棺おけで眠るときもつけたまま?さて、女性の薄化粧派、厚化粧派の性格的特質も言われるが、小池氏は目立ちたがり屋、高島は素朴で飾らない派という一面は覗けた。高島の言葉や返答には頭の良さを感じたが、人間は創らず飾らず、臆することなく、自らに正直になれたら、誰でも知的になれるのでは?そういう感慨もあった。