Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

勉強し過ぎてバカになる ②

$
0
0

イメージ 1

勉強し過ぎで学力は向上するが、学力外がおろそかになる。当たり前の図式だが、こういうのは親の意向反映か。社会は学力だけで成り立ってないし、勉強できる人間が人間関係をうまくやれる保障はない。学校は勉強の出来不出来で人間を評価するが、「なぜ学校は学力だけで人を評価する?」と、元教師の友人に聞くと、「そうではない」と彼は言った。

確かに学力評価は数字に出るが、点数に置きかえれない人物評価もちゃんとするという。「教師の主観だろ?」と言うと、「客観基準はある」という。数字は具体的だが、果たしてテストの点数で子ども個々の絶対学力を量れるのか?たとえば、同じ問題でテストをする。賢い子が多い学校の平均点は90点。バカが多い学校の平均点が60点とし、自分の点数は75点。

さて、自分は賢いのだろうか、それともバカなのか、どっちだ?答えは、「賢い子の多い学校での評価は下(バカ)。バカな学校だったら上(賢い)」というしかない。絶対評価のようで相対評価となるのが学力。賢い学校の先生は、「お前はダメだ。もっと頑張らなきゃ!」という。バカな学校の先生は、「いいぞ、よく頑張ってる。この調子でもっと上を目指そう」という。

どちらの教師が正しい?答えは「それぞれの学校の、それぞれの教師は正しい」というしかない。賢い学校で平均点以下でも、本人は十分賢く、バカな学校で天狗になっていても社会にでると結構バカだったりする。こういう矛盾を解消するためには、学校間での評価を一定にすればいいが土台無理なこと。数字は具体的といっても、環境が変われば数字の意味も変わる。

イメージ 2

「絶対評価」、「相対評価」というのも実は怪しい。絶対評価は、「目標に対する達成度による評価」。相対評価は、「集団内での相対的な位置による評価」。絶対評価=結果重視。相対評価=過程重視。例えば資格試験は絶対評価である。なぜなら、社会は結果がすべてだから。世間で相対評価の例といえば、現在セ球団のトップを走る我ら広島カープ、ミラクルカープ!

12球団中にあって親会社不在の貧乏球団広島カープがトップを走るのは、絶対的に強いのではなく相対的な結果であり、これら、プロ野球の順位などは相対評価の代表的なものといえる。また、選挙の当落結果も相対評価。現在の公立小学校は絶対評価を取っているが、以前は相対評価だった。「学力とは他人と比べるものではない」ということから、絶対評価となった。

親が気になる子どもの学力だが、個々の子どもの学力差の背後には、親が原因(家庭環境)であるのが分かっている。どんな親でも大事なことは、わが子が将来、どんな高校に入り、そこからどんな大学に入り、どんな会社に入ってどんな仕事に就けるかであろう。ゆとり教育が残したものは、子どもの学力低下という数字を楯にとった、ヒステリックな論争があった。

学力低下論者vsゆとり教育派という構図の論争はしばらく続いた。「ゆとり」の意味は、物事に余裕があり窮屈でないこと。「ゆとり教育」の「ゆとり」は言葉的に適切だったのか?思うところがある。「ゆとり教育」はつめ込み教育の弊害から生まれたもので、詰め込んで分かったふりより、どうしてそうなるかという過程を理解させることが狙いだった。

イメージ 3

つまり、「どうしてそうなったか」を分かって答える子と、機械的に答える子と、同じ答案であっても、賢さという点では前者に分があるが、そういう子は当然にして膨大な過去問訓練をやれるはずがない。機械的に覚える子は意味理解をしない分、多くの問題を経験できる。どちらが「勉強」というものかは、前者であるのは分かっていても、それでは受験の役に立たない。

本当の勉強をし、学力を高めているにも関わらず、試験の結果は芳しくない。受験学力というのは、今、その場で考えて問題を解くというより、経験済みの過去問をこなしているほうが有利である。日本の受験制度というのは、どうしてこうなのか?いつまでこういう制度で、バカを量産するのか?受験制度改革は、なぜに制度を改革できないのか?

国が制度に固執するなら、親が理想を持つしかない。少年犯罪を起こした者の多くは、札付きの不良とか、勉強のできない頭の悪いバカではなく、早くから塾などに行ってそれなりの優秀な成績を取った子が多いのではないか?端的にいえば、したくない事を無理やりやらされたことによる、ストレスの構築ではないのかと、自分はそのように考えている。

勉強すればそれなりに目的も近づくし、勉強して悪い事などあるはずはないと思うが、秋葉原無差別殺人、長崎高1刺殺事件、福岡予備校生刺殺事件、名古屋大女生徒殺人事件、朝霞少女誘拐事件など、他にもあるが、多くは優秀な子どもたちが起こしているのに驚かされる。勉強すれば優秀になり、優秀な人間は殺人などの愚かな犯罪を起こさないハズでは?

イメージ 4

と思いたいが、どこかに歪みがでてくるのか?あまりに勉強というジャンルに傾倒すれば、他のジャンルがおろそかになるのは当然かもしれない。今回、舛添要一における一連の対応で、どれだけ頭が良くてもああいう人間は尊敬はできない。金銭問題で途中退任した猪瀬前知事の後任として、颯爽と登場したまではいいが、他人の金を平気で使う人間であった。

もうひとり、勉強ばかりして他の面で弊害の見える人物として、若者の代表が古市憲寿である。社会学者が、社会的オンチではシャレにならないが、学者というのは勉強さえ出来たら成れる職業である。勉強ばかりでは会社で偉くなれるなら、これほど楽なことはないだろう。勉強オタク古市の今回の失態を見て思ったのは、とてもじゃないが彼は企業人には不向きである。

会社に役に立たないばかりか、害を及ぼす人間であろう。だから学者をやっているのは身の程を知ってのことだからいいものを、アレが学者でいいのか?という気もないではない。もっとも学者に変人が多いというのは世間の常識である。そういえば舛添氏も東大助教授という学者であったが、政界進出前から彼をよく知るビートたけしは、彼の上昇志向を以下述べている。

「あの人は、最初から権力者になりたくて、人の上に立ちたくて、政治家になるために政治学者になったような人だからね」。吐き捨てるような冷たい口調が物語るように、TVタックルで共演していた二人には溝ができているのだろう。「舛添はテレビで名を馳せた人」と田原総一郎はいったが、ここにいたって舛添は、田原、たけしという二人の恩人にも見捨てられた。

イメージ 5

「高い地位を得たり、偉くなった途端に人(性格)が変わる」という人間はよく聞くことだが、そう言う風に見えるだけで、「変わる」のではなく、それまで抑えていたものを出せるチャンスを得たということだ。「クルマのハンドルを握ると人が変わる」と同じ論理。都庁を退任する姿を見ながら、かつて北九州一の秀才少年の末路を、我々も彼の周囲と共有する。

「勉強し過ぎてバカになる」という表題について、勉強することでバカにならない多くの人を揶揄するのではない。勉強し過ぎてもバカにならないように育てる親も多い。また、そういう風にならないよう自ら手綱を引き締める人も大勢いる。勉強ばかりに多くを取られ過ぎて、人間として備えておくべき大切な点がおろそかになったということだ。勉強がよくないのではない。

好きな物ばかりを食べ、嫌いな物は一切食べないで、身体に良い訳がないのと同じこと。美味しいものと身体に必要なものは別である。同じように勉強ばかりやっていてはダメで、人間として必要なものは身につけなければならない。人と自分が言葉で触れ合う目的は、心で触れ合うためである。心で触れ合えない関係というのは、自分もしくは相手のいずれかに理由がある。

双方の場合もあるが、いずれかにある場合はもどかしい。こちらが心を開いているのに相手が開かない、相手が開いているのにこちらが開けない。こういうのは、勉強が出来る、出来ない以上に大事なことに思う。所詮、人間関係は学問の出来、不出来で成り立つものではないからだ。学問が必要なところでは発揮し、人間関係に必要なものは同様に習得すべし。

イメージ 7

人と自分が触れ合えないのは、心に歪みがあるからで、会話は言葉を使うが、相手の心に触れるためには、言葉を超えたハートで話すことが重要。なのに、それが出来ないタイプがいる。古市憲寿を見たときに、どうしてこれほど虚無的になれるのか、自分には驚きだった。彼は、言葉だけで会話をする人に思えた。情緒がない、つまり心の琴線に触れるものがない。

学問で身につけることのできない「人間性」という暖かい心は、どのように身につけるのだろうか?何十年も前にしきりに言われた「情操教育」という言葉を、近年はほとんど耳にする事がなくなった。その原因は学習塾の乱立にあるように思う。かつて隆盛を極めた、ピアノ教室・エレクトーン教室の看板が少なくなったのに気づく。少なく産んで大事に育てるという少子化の影響か。

いつだったか「ヤマハ音楽教室」の看板に、「ヤマハ英語教室」という文字が加えられていた。公文教室や幼児英語教室という流れに、ヤマハやカワイという楽器メーカーもシフトを余儀なくされたのだろう。ピアノは情操教育によいとされていたが、そもそも情操教育とは、感情や情緒を育み、創造的で個性的な心の働きを豊かにする教育、道徳意識や価値観を養う目的もある。

と記されているが、自分はもっと単純に、「美しいものを美しいと感じる心」と捉えていた。「美しいものを美しい、ブサイクなものはブサイク」も素直な感じ方だが、口に出さないのが道徳意識であり、感じる事は悪いことではない。公民館で将棋をする6年生が、公文で高校の英語をやっているという。他にも微分・積分が出来る小学生が週刊誌で話題になることもあった。

イメージ 6

学問には答えがある。それを探すのが勉強であるが、世の中で起こる答えのない問題に正答を出していけるのか?小学生が高校の数学を解いたからと言って、彼がどうして世の中で正しい答えを出せるんだ?先日の古市の失態を見ながら、社会で正しい答えを出せない人間は、早くから公文などで勉強し過ぎて、バカになったのではないか?自分はそう実感した。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>