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Channel: 死ぬまで生きよう!
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散歩とウォーキング

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    1日 10723歩    7291m   87/分
   2日 10215歩    6946m    89
    3日   22010歩   14966m    91
  4日 16685歩  11345m  86
  6日 22959歩  15612m  92
  7日 26572歩   18068m  92
    8日   24850歩   16898m   89
  9日 11504歩     7822m  87 
  10日 10520歩    7153m    86
  11日  11596歩    7885m     85   
  13日 24459歩  16632m   91
   14日 27112歩   18436m    90
  15日 10945歩   7442m  86
  16日 13233歩    8998m    86  
  17日 11693歩    7951m    88
   18日 15102歩   10269m   87
  19日  5633歩    3830m   81
   20日 26479歩   18005m    92
  21日 16726歩  11373m    90
   22日  9294歩    6319m   91
  23日  9052歩     6155m   86
  24日 16685歩  11279m   88
   25日 12853歩     8740m   87
  27日 27668歩  18814m  94   
  28日 26537歩   18045m   87
  29日  8902歩     6053m  87
   30日  23421歩   15926m    90   
    
           
     total  453428歩   308253m 

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小学校5年、授業でのローマ字文が大哲学者カントとの出会いだった。タイトルは「イマヌエル・カントの話」だったが、イマヌエル・カントがどこの何者かなどの説明もなく、仮に哲学者と聞いても何をする人なのか、おそらく理解はできなかったろう。だからなのか、イマヌエルというのが名であることすら教わってない。思えば精彩のない横着な教師ともいえる。


イマヌエル・カントは、「日本で山田太郎を逆にして、太郎・山田と外国ではいいます」と、それくらいは教えてくれてもいいだろうが、学習をさまざまに楽しく膨らますことのできない教師もいたりする。おかげでイマヌエルの意味をずっと知らずにいた。「今、縫える」だとするならなぜに「今、縫えるカント」なのか…?50年以上も前に抱いたそんな疑問を今も覚えている。

子どもと言うのは世の中の不思議にたくさん出くわし、それらを知識として吸収し、収穫しながら成長していくさまは、何というドラマチックなことであろうか。別の見方をすれば、無垢な子どもがだんだんと汚れて行くさまのようでもある。「知る」というのは大事なことだが、「純真無垢」の対義語があるなら、「不純」ということか?「老齢」という言葉もよさそうだ。

知らない頃は、知らないでも困らないが、多くを知ってしまうと、それはそれで楽しくもある。カントも同様に、多くを知る学者としての自身を自惚れていた。そして、無知の民衆を軽蔑していた。そんなカントを一変させたのがルソーであることは知られている。ルソーの書、なかでも『エミール』に出会ったカントは、自惚れた鼻っぱしらをへし折られてしまった。

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日課の散歩さえ忘れ、すべての人間を尊敬することを教えられた。その体験をカントはこう記している。「私自身は好みからすれば学者である。私は認識に対する非常な渇望と、認識においてさらに先に進みたいという貪欲な不安を感ずるのであるが、また、認識を獲得するごとに満足を感ずる。これだけが人類の栄光となるであろうと、私が信じた時代があった。

そして私は何も知らない民衆を軽蔑した。ルソーが私を正してくれた。この目のくらんだ驕りは消滅し、私は人間を尊敬することを学ぶ。そして、もし私がそのような考察は、他のすべての人びとに人間性の権利を回復するという価値を信じないならば、私は普通の労働者よりもはるかに役に立たぬ者であろう。」(『「美と崇高の感情」に関する覚書』)より。

『エミール』とはここにも書いたが、子どもから大人の発達の過程を通して、教育とは何であり、人間とは何であるかを考えた書物。カントはルソーの著作に熱中するあまり、毎日の決まった時刻に行っていた散歩を忘れるほどだった。いったい何がカントを狂わせたたのか。一言でいえば、ルソーが文学性豊かに描いた生きた人間の姿、人間の限りない可能性と信頼である。

カントは哲学者になる以前は物理学者だった。31歳のときの最初の著作は、『天体の一般自然史と理論』であり、ニュートンの力学理論を拠り所にしながら、宇宙の起源と生成といった問題を研究していた。物理学者であったカントがなぜに、どのようにして哲学者に変貌するにいたったかについて、『ハイネ詩集』でお馴染みのドイツの詩人ハイネはこう述べている。

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「カントの生涯における経歴を書くことは難しい。カントには生活も歴史もなかったのだから…」。つまりハイネはカントが嫌いのようだ。ハイネは晩年、唯物論に深く傾倒することで、詩作者から思索者へと変貌した。彼はその著書『ドイツ古典哲学の本質』でカントを以下のように批判した。「まずい文体といえば、カントほど非難されるべき哲学者はほかにあるまい。

ことにカントがその前(『純粋理性批判』以前)には、もっとりっぱな文体で書いていたことを思いあわせると、なおさらのことである。ところで、なぜカントは『純粋理性批判』をあんな味気ない、ひからびた包装紙のような文体で書いたのだろうか?おそらく、デカルト、ライプニッツ、ヴォルフ流の数学的形式を拒否してしまったカントは恐れを感じていたのだろう。

もしも軽快な、やさしい明るい文体で述べられたら、哲学はその威厳をいく分損ずるだろうと。だからカントは哲学にしゃちほこばった、抽象的な形式をあたえた」などと、辛辣な表現は、「春を愛する人は心清き人、すみれの花のようなぼくの友だち。夏を愛する人は心強き人、岩をくだく波のようなぼくの父親。秋を愛する人は心深き人…」のハイネとは別人である。

カントは雨が降っても、後から従僕に傘を持たせて散歩に出かけた。一般的にドイツ人は散歩好きといわれる。ベートーベンの散歩が好きも有名で、よほど体調が悪くない限り、雨の日でも散歩を欠かすことはなかった。散歩には必ず五線譜と筆記用具を携帯し、楽想が湧くとメモをとっていた。芸術は「自然の模倣」であり、芸術家は自然との共生で見出すものがあった。

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『田園交響曲』の第2楽章に出てくる(といわれる)小川に沿って、"Beethovengang"(ベートーヴェンの道)という名の歩道がつけられている。ここは日蔭も多く、気持ちのいい散歩道になっている。べートーヴェンの散歩にまつわる逸話は、ゲーテとの散歩であろう。二人の出会いについてはかのロマン・ロランが、「詩と音楽の二つの星の、千年に一度の出会い」と形容している。

ベートーベンとゲーテは、1812年の避暑先のチェコの温泉地、テプリッツで実現した。二人は何度か一緒に散歩に出かけ、多くの逸話を残した。例えば、「二人が腕を組んで、いっしょにシュロツス・ガルテンを散歩していたときのこと、ちょうど向こ
うから皇族や廷臣たちが群れをなしてこちらにやってくるのが見えた。それを見て、べートーベンはゲーテに言う。

『私の腕につかまったままでいらっしゃい。あの人たちの方が道をゆずるべきです。断じて我々の方からではありません』。しかし、ゲーテはべートーベンから腕をはずし、帽子を脱いで道の脇に控えた。これは、官職にある者として当然の振る舞いだ。べートーベンは、両腕をぶらつかせながら真っ直ぐ進み、貴族たちのまん中を通り抜けながら、帽子の緑にちょっと手を触れただけだった。

そんな彼のために貴族たちは道をあけ、皆が丁寧に彼に挨拶した。一行が通り過ぎてからべートーベンは立ち止まって、ゲーテが道端で最敬礼をし終えて戻ってくるのを待っていた。そしてゲーテに向かって、容赦なく教訓をたれたという。『あなたはあの連中にうやうやしくなさりすぎましたよ』と…。うやうやしい(恭しい)とは、相手を敬い、礼儀正しく丁寧の意味。

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ベートーベンの進言を意に介さず、自らの意思で行動したゲーテもさすがである。自分の意に従わなかったゲーテにベートーベンは「ムっ」とし、それが、「うやうやしい」の言葉に表された。さて、どちらが年上であろう?ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)、ベートーヴェン(1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)であるからして、ゲーテが21歳年上だ。

ドイツ人に限らず散歩好きはいる。英国の詩人ワーズワース(1770年4月7日 - 1850年4月23日)は、著書『序曲』(1805年)のなかで、「…毎日毎日私は、さまよい歩いた。安んじてもの思いにふけることのできる道を」と散歩への愛を語っている。彼の生涯における散歩の合計距離は28万kmといわれ、これは地球7周という試算(推定)もある。なぜに散歩?理由は簡単だ。

カントの毎日の散歩も、貴重な思索の時間であったように、ゲーテもベートーベンも、ワーズワースにとっても、思索のための散歩だった。ウォーキングという言葉が定着する前は「散歩」といった。どちらも同じ事だが、ウォーキングは思索というより、健康志向の意味合いが強い。が、歩く以外にする事がないウォーキングは、自分にとって絶好の思索の時間となる。

込み入ったことではない、「もの思い」も思索である。確かにカントの生きた18世紀は、「理性の世紀」と呼ばれた。物事を筋道立てて、合理的、論理的に考えるのが理性であり、これによって世の中のすべてが解決できるとの期待が高まり、理性信仰が絶頂に達し、フランス革命となる。革命政府は宗教のような反理性を廃止、理性に基づく「合理的」な暦を作った。

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しかし、革命はいつしか恐怖政治に移行し、人々は理性に疑いを抱きはじめる。カントにも同じようなことがあった。当時、スウェーデンのボルグという超能力者がいて、彼は遠方で起こる火事などを遠視した。カントは彼に関心を持ち、さまざま調べた結果、ボルグは超能力者であるとも、そうでないとも論証できた。合理的な理性がなぜ一つのことに正反対の結論を得るのか?

『純粋理性批判』を書くにあたって、カントの念頭にあったのはこのことだった。理性万能主義への懐疑と疑問を出発点とし、理性の限界を明らかにするのが目的だった。カントは理性の限界に関連し、「二律背反」を発見する。「二律背反」はもとは法律用語で、法律のある条文が他の条文と矛盾する状態で、このようなことが起こらぬよう、細心の注意を立法者は払う。
 
ボルグの経験から、人間の理性にはそういうことがあり得ることを承知していたカントは、「二律背反」の四つのテーマを発見したのは散歩中であった。詳細は略すが、「正命題」と矛盾する「反命題」を共に証明する四つのエレメント。夜は決まって十時に就寝、朝は五時に起床、そして決まった時間に散歩という一定不変の習慣のカントに、散歩は「発見の母」となる。


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