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勉強し過ぎるとバカになる

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刺激的な表題のようだが一理ある。関連記事があるかどうか検索するとそれなりにある。「yahoo知恵袋」には、「勉強し過ぎると馬鹿になるって本当ですか?」という問いに対して勉強否定派は、「勉強をしていけば少なからずできるようになります。ただ、参考書の暗記に偏ったりすると、自分の考えがなくなってアイデンティティが欠ける可能性もある」と回答する。

こういう意見もある。「本当です。勉強すればするほど他人の考えが入ってきてそれに支配、左右されるようになります。つまり、自分の頭で考える、ということがお留守になるのです。その典型が、マニアルに無いモノは出来ない、という人達です」。ユニークな意見は、「勉強しないと、私のように愚かな人間になる!此れは立派に証明されました」。後に続く言葉が傑作だ。

「お利口に見える馬鹿も、馬鹿に見えるお利口も、人間、たいして違いはありません。私に馬鹿と云う女房を見てそう思います」。文は人也。記事主はユニークな人に見受けられる。答えは自分で探すのがよい。ある設問における肯定・否定意見はさまざまあり、それらを元に自分の考えを構築するが、持論とするに大事なのは論拠で、表層的な否定・肯定は無意味。

「勉強し過ぎるとバカに…」といっても、「し過ぎる」とはどの程度の、「し過ぎる」なのか、また勉強といっても、テストで100点をとる勉強であるのか、入試や資格などの受験勉強なのか、学問を究めるための真摯な勉強をいうのか、様態はさまざまだ。また、「バカになる」の、「バカ」とはどういうバカをいうのか?それらからして、断定が難しいテーマであろう。

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比喩的に使うのは、様々な事例もあって問題ない。「学者バカ」という言葉もある。バカを単に勉強ができない人間とするか、自分で思考するアイデンティティ能力と考えるかにもよるだろう。「そんな馬鹿なことはありませんよ!たくさん勉強してたくさんの知識を身に付けて土台を構築して参りましょう!」と考える人もいたりで、言わんとする意味も理解できる。

これらから、「勉強し過ぎるとバカになる」、「勉強しなさ過ぎるとバカになる」という二つの考えが成立する。いずれも否定はできないかわり、いずれも肯定できるとまでいえない。いろいろな意見を目にしても自分的には、「勉強し過ぎるとバカになる」を実感する点はある。今回、古市憲寿の事例に言及したように、ああいう時のああいう態度は、誰がみてもバカである。

「一事が万事」などというが、彼がすべてにおいてバカではないにしろ、あの日にバカをやったのは間違いないし、彼のバカな部分は露呈した。彼が勉強し過ぎたのか、普通程度の勉強量だったか、あまりしなかったのか、その点は分らない。世の多くは判然不可能なことがほとんどだから、想像したり類推するしかないが、そういう事を嫌悪する人間もいたりする。

「分らないことをアレコレいうのはよくない」などと、クラス委員みたいなことをいう。そういう奴に、「分らないことをあれこれ考えるから脳のシワも増えるんで、気に入らないならあっち行ってろ」と、言ったことがある。社会のことに関して、的確な情報だけを元に話さなければならないなら、話すことなど何もなくなる。だからこういうう奴は嫌われ、孤立する。

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分かったことだけ、確信あることだけを語り合うのではないことくらい分かりそうなものだが…。おそらく本人は善意のつもりだろうが、こういう善意の隣人には困ったもので、悪意の隣人の方がずっと付き合いやすい。意に添わぬことは遮断すればいいからだ。善意の人間は、善意を押し通そうとするところが迷惑。そんなのが家庭内にいたら追い出すしかないだろう。

社会に生息する以上困る事は少なくない。ある程度自己防衛できる知恵のある人ならなんとか凌げたり、防ぐことはできるが、善意の人間にはなかなか、「NO!」がいいづらいと耳にする。随分と前だが、『NO!といえない日本人』がベストセラーになった。日本人には自己規定できない判断基準がある。他人の顔色を伺う民族であり、これを「曖昧な日本人」という。

日本人社会は平等主義を謳っている。が、平等主義であるからには、自分自身を教育する能力があることを証明しなければならない。平等はじっとしていて他から与えられるものではなく、自ら率先して発露させる必要がある。世のバカも利口も平等である以上、バカは利口に対峙すべきで、そのために自己教育力が必要となる。それなくば対等どころか相手にされない。

能力差がありながらの平等というのは、実体として難しい。不平等を平等とする社会は、平等を謳うあまりに個々の能力差による階級を作る必要がいる。東大出と高卒では、その能力差から必然的に階級が生まれるが、それでも平等を言い張る以上、能力のない階級は自己教育力を奮発せねばならない。しかし、それもしんどく難しいなら、平等はもういいと諦めるか?

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平等とは階級差(学歴)も、格付けも、専門的能力差もないことを言うなら、平等であるのは大変なことだ。自分は無神論者だが、男女の性差は神が作ったものであり、男女は補完し合って人間として完成する。なのに人間の手で勝手に公平としたり、性差を無くしたりはなどは許されず、よって男女分裂を意図するジェンダーフリーや、フェミニズムが支持される道理がない。

レディースデイや女性限定サービスはあるが、なぜにメンズデイはない?それを差別といわないのか?男は言わないが、そんなのオカシイという女性ならリベラルである。平等主義というのは、つまるところ、教育主義、能力主義にならざるを得ない。人間が社会的動物である以上、必ずや社会は分業となり、これを統御、調整する者も必要になるが、有能者を差別といわず区別という。

有能者と無能者の区分けは、能力差であるなら差別であろう。したがって、いかなる平等社会においても組織には必ず、上・中・下がある。うるさ型には、差別を区別と言い換えて、納得してもらっている現状のようだ。上・中・下が、血統や身分や階級で決められるならともかく、「教養」や「知識」や「技能」という能力で定められていることに何ら問題は見出せない。

学歴社会に「異」を唱える者もいれば、学歴社会の恩恵を「幸」とし、下に居るのが安泰という者も少なからずいる。管理職なんかとてもじゃない、自分には向かないという人たちだ。戦時中の士官学校のように、最初からエリート人材輩出を目的とする学校もある。優れた者が勝ち残って手厚い教育を受けないエリート教育は、広い意味での競争原理が働かない。

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戦前の士官学校制度はエリート教育が失敗の最たる例であろう。士官学校を出ればエリートの座が約束され、とんとん拍子に出世していく。机上で学んだ作戦立案能力を実戦で向上させることもないから、何度も同じ過ちを繰り返し、責任も取る必要がなかった。これが机上で学んだ秀才の末路である。これらの教訓からか、日本の企業も現場主義でエリートを育成する。

エリートに不足するものは多だあるが、少子化の昨今にあって、エリート教育を信奉する親は少なくない。子どもに遠慮して叱らない親も多く、叱らないというより、叱れない。つまり、子どもに服従する奴隷のような親は、子どもに高い目標を掲げ、幼少時期から子どもを勉強漬けにする。目指すはエリート、子どもの機嫌を損ねない配慮、それが叱らないこと。

子どもに勉強をお願いするためには少々の我が侭に目をつむる親。もうひとつ、エリート教育推進を目論む際の弊害として、子どもに「負け」を経験させない配慮をする親がいる。「負け」て傷つくのは可哀想とばかりに気づかう親は、木を見て森を見ずである。以下はアメリカの教育改革レポートの事例。ニューヨークにIQ160以上の子どもばかり集めた幼稚園がある。

そこで大事にされているのが、「負ける」ということ。負け方を教えないと、敗北感を知らないままに大人になってしまうという懸念から、教材にチェスを使って、「負け」の大事さを教えているという。失敗した時に味わう敗北感は、失敗を乗り越えることの重要性を教えてくれる。古市憲寿を見て感じたのは、失敗して怒られたりの敗北感経験がなかったのでは?

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誰の人生においても、順風満帆だけと言うのはあり得ない。どこでどうつまづくか、つまづいたときの挫折感、敗北感をどのように処理し、次のステップに生かしていくか、こういう試練を過保護で育った子どもが学べるはずがない。そういえばSTAP細胞問題で自殺した理研の笹井芳樹氏は、過去に挫折経験がなかったのでは?彼は敗北感の鍛錬が出来ていたのか?

想定外の問題解決に弱いエリートは打たれ弱いとされ、そういった脆弱気質は、過保護の恩恵かも知れない。常に自己保身を念頭に置いているエリートは、なにより失敗を怖れ。失敗は自己の恥とするが、人間に失敗はつきものだ。笹井は失敗から最も遠きところに逃げ、舛添は自らの失敗に気づくことなく、古市は失敗の指摘を受けてなお、平然としていられた。

世界的に有名な成功者の多くは失敗をし、失敗を認め、失敗を謝罪し、再挑戦した。スティーブ・ジョブズをエリートと称するにはあまりに稚拙な肩書きだが、ジョブズは自らのミスを認めて信頼度を増した人でもある。彼がiPhone4の通話が切れる不具合で会見を行った際、不具合の理由を説明する前にミスであることを認めた。そして以下のメッセージを伝えた。

「われわれは完璧ではない。電話も完璧ではない。それでも私たちは、すべてのユーザーをハッピーにしたいと思っている」。それから、iPhone4のすべてのユーザーに不具合を緩和するケースを無償で配布する対応を行った。それでも不満がある者には全額の払い戻しに応じた。ジョブズのこの対応は、iPhone4の評判を下げるどころか、さらなる信頼に繋がった。

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情報過多の時代にあって、ニセモノは生き残れない。舛添は知事を追われ、まともな謝罪できない古市は、小沢に許された。舛添も古市も自らを完璧と自認する人間であろう。が、成功するのにも、信頼を得るのにも、完璧さはいらない。聾唖者の父親のように完璧な父もいない。大事なのは完璧さより、間違いを認める勇気、己の至らなさを告白する優しさである。


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