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「同情」 是か非か ②

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保険会社2作目CMにも心動かされた。日本の野暮ったいCMばかり見慣れてるせいもあってか、これほど知的水準の高いCMが作られる国に比べて、なんと日本はおバカ国であろうと、率直に感じた。父親が聾唖者であることを題材にしたストーリーだが、こんな深い内容のCMを見る限りにおいて、タイって国は日本より文化的に思えてならない。

聾唖者を父に持つ娘が断続的なイジメの果てに、自殺未遂を起こすというショッキングな設定で、おそらく日本ではこういうCMは作れまい。弱者保護のお題目は、被差別者に対する極度の過保護意識から、むしろ逆差別では?とさえ感じることもあり、それに対する反発も起こり得る。タイのCMに驚かされるも、決して差別の助長でないのが分かる。


「名より実」とは表層より中身であり、揺るがぬ信念から作られたCMは、聾唖者でありながら素敵な父を見せている。作り物であってウソかも知れないが、こういうストーリーを作れるというだけでも、ヘンチクリンな差別意識や、言葉刈りなどに躍起になる日本人より健全である。素敵な親を見事に描いており、こういう父を持った子どもは幸せである。

「聾唖者で本当にすまない。他のお父さんのように話はできないが、お前には私が愛していることをわかって欲しい」と、躊躇うことなく娘と向き合う父親…。理想の親というのがあるなら、間違いなくこういう父親であろう。「完璧な父親はいない…」とナレーションはいうが、『雨にもマケズ』の宮沢賢治風にいえば、「こういう父親にわたしはなりたい」。

数年前に東野英吾の『手紙』という映画を観て以来の感動だった。東野は犯罪被害者から犯罪加害者に視点を変えた。数日前、とある少女が朝霞の少女誘拐について、犯罪被害者の立場から意見を述べたが、東野の小説などを読み、様々な視点・観点から物事を判断したり、いろいろな考えに触れたりで、人は大きく成長すればキャパシティも変わる。

障害などのハンディはプラスに転じて能力にもなる。聾唖者の父も人を愛する(おそらく娘以外においても)能力に長けているようである。身体的弱者に同情を…というのを、"健常者の傲慢"とまでは言わないが、我々は彼らに対して、無意識に「同情」という差別を行っている。身障者に対して、暖かな目を向けるという、"抑圧された優しさ"、もしくは偽善を内包する。

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したがって、乙武氏のように、ひとたび化けの皮が剥がれると、堰を切ったように一丸となって襲い掛かり攻撃する。CMの父親は、「完璧な父親はいない」という自覚をもちながら、ひたむきでいれるのは、有り余る愛情を持っているからだ。乙武氏は、「完璧な障害者はいない」という自覚を持てばよかったのに、「完璧」であろうとしてギャップに潰された。

「人間なんてそれほどすごいものでもない」との自覚があれば、変に気取らず、変な気負いも抱かず、謙虚でいれるが、完璧であろうとする人間は、自ら虚飾に苦しむだろう。人間はいつまでも嘘の自分をやっていることに疲弊し、ちょっとした弾みで本当の自分をさらしてしまう。人間が起こす多くの犯罪は、自制心という箍(たが)が外れたときに起こるのではないか。

人にない何か(技能などの能力)を持つことは身の肥やしになるし、「芸は身を助く」ということわざも嘘ではない。が、問題なのは、人にない何かを持つことを自慢すること。「慢心」とは自慢が引き起こすといってもいい。「持たぬ者の強さ」といわれるように、人間は失うものがないときに強大な力を発揮できるが、「インテリの脆弱」というのはその反語である。

インテリとは持ちすぎた者。舛添氏が退任の挨拶もなく、慣例である都庁での見送り式もないまま後を濁して去った。いかにも、「自分の何処が悪い?」と言わんばかりの驕ったインテリ気質、人に頭を下げることを極度に嫌う彼の特質が見える。自分は有能者であり、優れており、間違いは起こさない。自分を非難する奴こそバカでズレているという感覚のようだ。

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古市憲寿なる社会学者。顔は見る程度で、テレビを見ないので彼についての知識もなければ感想もないが、先の9党首討論番組の司会で、「生活の党」の小沢一郎代表に対し、番組にそぐわないぶしつけな質問をし、ちょっとした騒動になった。彼もインテリである。学問的有能者との世評はあるが、残念ながら世間は学問の優劣だけで生きられない。

彼がいかに学問的に有能であっても、社会的にズレた人間であるのは先の一件で露になったように、それがインテリ気質からの発露なら舛添氏と何ら変わらない。つまり、賢い自分が何か間違ったことなどするハズがないという強靭な自己肯定感に支えられている。「人間は愚かで間違いを犯すもの」という認識が、まるでないのが、二人の特質である。

社会生活のなかで、人はその言動から無意識に人を傷つけることもあるという、真っ当な社会人であるなら、相手の機嫌や態度から喜怒哀楽は察知できる。察知できるならその原因を考える。それが支障のない人間関係を行うための機微である。舛添にも古市にもそれがまったく欠けており、いかに秀才といえど、それでは世間の反発を食うであろう。

彼らは、人が怒る理由が自分にあるなど考えもしない人間のようだ。主宰者側は小沢代表の怒りを察知、古市の非礼に対する謝罪を指示するメモが彼のところに回ってきた。普通ならばそういう裏方の指示は隠し、つまり、言われたからではなく、自らの主体的意思で謝罪を述べるように振舞う。ところが彼は、ワザとマイクに入るような声で…

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「(回ってきたメモを前に)コレ読むの?」と、いかにも自分の自発的な謝罪ではないことを強調した。この行為だけみても、彼は普通の人間感覚を持っていないのが分かる。謝罪が強要されたものであることを示すために、ワザと棒読み風にコメントを読む姿は、呆れを超えて、ここまで人間は無機質になれるものかと憐れすら抱いた。他人の気持ちが洞察できない人間である。

オカシイとか変人とかのレベルではない。自分の失態を認められない不遇な人間である。彼は人から叱られた経験がないまま大人になったのだろう。人は叱られて反省や謝罪を学んで行く。彼は謝罪というものの意味さえ理解していないようだ。謝罪文の棒読みをこう理解した。「彼はインテリになったことで、人間としてバカになってしまった」である。

CMの聾唖者である父と、古市とを比べて、どちらが人間的に素晴らしいか、言うまでもないが。なぜ、この世は勉強できるとか、地位とか、学歴とか、富裕であるとかだけで人を判断するのだろう。自分が思うにそれが、人の人に対する羨望であるからだ。ようするに「名より実」に視点が行かない。人への評価は自らの欲望という基準で成されている。

なんともバカバカしい限りだ。こういう事をいえば、「そんなにいうなら、お前は金持ちより貧乏がいいのか?」、「健常者より身障者の方がいいのか?」、「有名より無名がいいのか?」、「大卒より高卒(中卒)がいいのか?」という反論を浮かべる人間は、精神年齢的に思春期前の子どもと同等であろう。そういう時期の子どもはこういう理屈をいいたがる。

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そうしか思わぬならそれでいい。諭す気にもならない。昨今の若者には「人間性」とくくった言い方を嫌うものもいる。嫌う理由は簡単で、人間性とは何かを理解できないからだ。そんなに難しいことではないが、考えようとしないし、耳を傾けようともしない。いろいろ定義はあるが、端的に分かりやすく定義すれば、「喜怒哀楽」を持つ人間と考える。

自らが喜怒哀楽を持つからこそ、相手の喜怒哀楽を察知でき、共に笑い、共に喜び、共に哀しみ共に嘆く。中でも自分がもっとも重要とするのは、相手の怒りに対する洞察であろう。そんなものは誰にだってあるというが、有る無しではなく、磨くということか。それらはどうすれば養われるのか?専門家でも学者でもないから確信的な事は分らない。

が、経験から言えることは、利他的な心を育むことではないか?そういった読書であったり、映画でも芝居でもなんでもいい。疑似体験から共感する感性を磨く。「勉強ばかりするとバカになる」との意味は、勉強は自分のためにするもので、つまり利己的なこと。利己的なことにのみ邁進すれば、利他性は養われないばかりか、無用になるのでは?

自分のことばかりを優先すると、他人のことなど関係なくなる。というのは論理としても成り立つように、そこに勉強の弊害がある。勉強がダメというより、左脳(論理脳)の練磨と同時に右脳(感性脳)を刺激し、他者の痛みの分かる人間に育てることも親に課せられている。灘高⇒東大に惑わされず、人が人である事の大事な教育を親は努めるべきかなと…。

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「喜・哀・楽」という「他者の中の自己認識」(共感)も大事だが、他者の怒りの察知も大事である。自分は失敗はしないし、失敗を認めない。繕う、誤魔化す、はたまた相手のせいにする。これでは他人を怒らせるが、他人の怒りなど知ったことではない。己の自尊心が傷つかぬことが何より大事。こういう人間はおそらく孤立し、孤独の生を選択するしかあるまい。


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