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「同情」 是か非か

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タイの保険会社のCMを見て、あらためて「同情とは何か?」を考えさせられた。困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人に対する同情は善いことだと思っていた子ども時代。人間が自分を一番大事に考えるのは、誰に教わることなく自然とそうなるが、ある程度の年齢になると、他人のことに目をやり、耳を貸し、手を貸すなど、心をくばせるようになる。


学校という集団生活、社会生活環境から自己を他者の目を通して認識できるようになるからで、それ以外にも童話や児童書などを読んで、善いこと、正しいことを知識として学び、知識はまた実践へと収斂していく。自分の中にうっすらとそういう記憶は残っている。「さるかに合戦」のサルは悪い、カニは可哀想、悪いさるをやっつけるのは正しいことだと学んで行く。

そのためにカニに力を貸したうす、蜂、栗は善い人(人ではないが)である。桃太郎の鬼退治も立派なことで、鬼退治に協力した犬、雉、猿は、善人(同)である。前者の猿は悪いが後者の猿は善く、子どもはこういう矛盾を子どもごころにどう捉えたのか?残念ながら記憶にない。子どもは社会生活のなかで、親や大人に悪い事をされたり、卑劣な言葉を浴びせられたりする。

環境から受ける大人の言動に対し、大人を「悪」と見定めるのは、いつごろからであろう?思い出されるのが、2009年4月に発生した西淀川女児虐待死事件の被害女児松本聖香ちゃん(9)。彼女は自宅のベランダで死亡姿で発見された。彼女を衰弱死させたとして保護責任者遺棄致死と、死体遺棄の罪に問われたのが母親の松本美奈被告(35)で、内縁夫の関与もあった。


「ここで寝る。おやすみなさい」という言葉を、鬼親に対して気を利かせて口にする聖香ちゃんの心情を思うといたたまれない。世の中には、こんな悲惨な目に合わされる子どもがいるのかと、切なくも腹立たしい。どうして親は子どもの気持ちを考えられないのだろう。子どもが一体、親に何の害を与えると言うのか?子どもの言葉にむかつく、イライラするという母親は多い。

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手を出す虐待だけでない。意に添わないと無視するなど、心理的虐待は母親に多い。躾として罰を与えるのは絶対に反対だった。なぜなら、権力者が弱者に罰を与えるのは、簡単で手っ取り早く、都合のよい、横着な、傲慢かつ卑劣な行為で、弱い立場の人間にとってはもどかしく、反発のおそれもある。よって罰より、まずは説得する、話し合うというのが効果としても高い。

罰を与えて反省するか?それは甘い。自分は罰を与えられて反省した記憶は一度もない。罰に反抗し、その罰がどんどんエスカレートすることで、罰を与える母親に憎しみが増すばかりであった。イタズラをしても怒らず、叱らず、ケガをさせた相手宅に詫びに参じ、罵倒される父親を見る方が辛かった。自分のした事なのに、親が詫びる姿を見るのがやるせなかった。

ここに教育の真髄を見た気がする。長男が小6の時にドラゴンボールか何か、流行のカードを万引きし、玩具店から連絡が入ったときに、妻と姉二人を連れて謝罪に行った。「長女はなんで私が行かなければならんの?」と言ったが、「家族だからだよ」と説明し、家族総出で丁寧に詫びると恐縮されたが、長男を叱らなかった。それが父からの無言の教えである。

「もうするな!」の言葉は必要か?言葉は言葉であり、大事なことは言葉外で伝えることはできる。それができるなら言葉に然したる意味はない。坂口安吾は、「言葉は代用の具」と言った。大事なのは行為であり、言葉はそれに変わる具材であると。何事も実践に勝るものはないと常々思っている。「具が大きい」ではないが、口ばかりで行為をしない人間を信用しない。


口は行為の代替ではなく、口は行為の先導であるべきだ。よって、口に出す事は行為できる事で無ければならない。実践主義者の言葉に観念論などはない。自らできないことを口にする意味のなさ、そういう人間は信用できない。あくまで出来ることをいい、出来ないことは言わない。同情に話を戻すが、「同情するなら金をくれ」という言葉があった。これはかなり辛辣である。

直接的な意味は、「言葉なんか要らない。本当に同情するなら金をくれよ」ということだが、言わんとするのは、「言葉じゃない行為だろ?」であって、同情と言う懐疑に対する辛辣さである。言葉の同情なんか誰でもできる。それで何も目減りしないなら、言葉で誰だって善人気取りでいれる。自分はニーチェの言葉から同情の宗教であるキリスト教を懐疑的にみるようになった。

「同情してあげるから金持って来い!」と直接的に言う宗教はないが、同情されたり、親身になってくれたりすると、人は感謝の意からお返しをしたくなる。ありがたい話を聞いただけで得した気持ちになる。そこを狙った宗教が多いのは事実であろう。宗教は言葉だけで人を動かす力がある。谷中村で足尾銅山鉱毒問題と戦った田中正造は、死の直前の以下の言葉を残す。

「人を動かすには宗教という権威に頼るしかなかったのか」。孤軍奮闘した彼の断末魔の叫びである。自分一人ならいかなる行動もできようが、正造は自分が正しいことをしているという自負と自信があったにも関わらず、多勢を煽動するに「個」はあまりに無力であった。思えばニーチェを読むきっかけとなったのは、ドイツの詩人ゴットフリート・ベンの以下の言葉である。

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「現代人が考え、悩んでいる問題は、すでにニーチェによって検討済みである」。そういえばルソーの『エミール』を読むことになった動機も、誰だかの、「現在出版されているおよそあらゆる教育書は、すべて『エミール』に書かれてある」だった。まさに「枝葉末節」であり、大きな幹を理解すれば枝葉の事は些細なこと。確かに、ゴットフリート・ベンの言葉は誇張ではなかった。

ニーチェに謎の言葉がある。「どのような人物であれ、三つの逸話によって、その本質を描き出すことができる」。残念ながら彼はその実例を示してはいないが、『ツァラトゥストラ』において、「羞恥心」という語句はかなり重要な意味を持つ。「まことに、私は人に同情することで、幸福感をおぼえるような慈悲深い人達を好まない。彼らはあまりに羞恥心が欠けている」。

彼はキリスト教道徳における「同情」について、これらを牧師的偽善を排撃しているが、羞恥の欠如は、こんにちの社会の一般的傾向ではないだろうか。ニーチェは同情を絶対的に戒めているのではないのは以下の文で分かる。「同情せずにはいられないときでも、私は自分が同情しているとは、いわれたくない。たとえ同情するとしても、私は遠くからそれをしたい」。

遠くから同情とはどういうことか。災害被災地の方々に対し、「遠くから応援しております」などというが、遠くから同情は、それとニュアンスは異なる。見せ掛けの、これ見よがしの、表立った応援を羞恥とするのだろう。人は周囲から冷酷だと言われたくないから、べたべたした人間的心情を披瀝するのが、ニーチェはその過剰を、「羞恥」と言っている。

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のっけに提示したタイ国の保険会社のCMだが、間接的なイメージ広告であるから、何のCMだか知らないと分らない。自分が感動したように、このCMを見て多くの人が感動すると思うが、何の何処に感動するのだろうか?尤も、自分が感動したのは、物乞いをしていた母娘の子どもが、制服を着てリュックを背負い、お礼をいうでない照れくさそうな仕草が一切を物語る。

日本ならペコリとお礼でもさせるのだろうが、ないところが自然でいい。子どもらしい。他のシュチエーションにはさほどであったが、母娘は物乞いをする理由を、「教育のため」と書かれてあったけれども、自分はそこの点は疑った。物乞いは同情を得んがために適当にウソも書くし、少女自身のためというより、母親のための物乞いかなと…。つまり食うためにである。

だから、リュックを背負った彼女の微笑ましい顔を見たときに、「教育のため」は本当だったかと感動が増幅。タイの学校制度も日本と同じ6・3・3・4年制を採用し、義務教育ゆえにお金がなくても学校には行けるが、かつて義務教育期間は小学校の6年間であった。それが1999年に新国家教育法が制定されて移行、現在は日本と同じく9年間の義務教育期間となった。

ユネスコによると、2005年のタイの青年識字率は98.1%であり、アジアでは日本、シンガポールと並んで高い水準となっている。日本と同じ義務教育は15歳までとなっているが、知る人ぞ知るタイは学歴社会であり、国民の就学意欲は高い。生命保険会社のCMは、情緒に訴えようとの意図がみえみえの作り物であるが、分かってはいても人間はこの手のものには弱い。

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