「動くものが動物」という定義だけで、動物を定義した事にはならない。動物である前に生物であるべきだ。しかるに、人間は生物であり動物であるが、ロボットが自らの意思で動いたとしても、動物でもなければ生物でもない。アレは単に動く機械である。子どもは、「犬は動物だけど、人間は人間で動物でない」といった。それを、人間も動物と説明し、判らせたことを思い出す。
人間は生物、生物の動物、動物の中の人間。「動物は植物と違って動く。だから人間は動物であるが、アブやハチやアリと人間が徹底的に違うのは、「人間は動物でも、『動く物』の、"動"ではなく、『行動』を意味する、"動"でなければならない」。との記述もあったが、言わんとする意味は分かるが、言葉じりを取れば、アリやハチも、牛や馬や犬も行動する。
主婦がママチャリでスーパーに買出しに行くのも行動である。いずれも生きるための、神聖にして尊く、立派な行動であろう。「立派」は余計なのか?余計と感じる者もいようが、家の中で韓流ドラマを見ながら生協からの食材配達を待つ主婦よりも、底値のチラシを持って遠出の買出しに向かう主婦のほうを好む。「好む」としたのは、「賢い」では御幣があるからだ。
「家に居て配達を待つのも賢いでしょう?交通事故に合わないし…」。「なるほど」。手動の掃除機より、自動掃除機(ロボ掃除)の方が賢いといえなくもない。しかし自分的には、「電気掃除機の主婦の方が好み」と言っておく。世の多くの事は、「愚・劣」より、「好き嫌い」を了とすればいい。と、感じるこの頃だ。主観的な正しいは、普遍的な正しいにあらず。
世界で初の家庭用ロボット掃除機は、スウェーデンのエレクトロラックス社が2001年11月から商品名「トリロバイト」を欧州で売り出した。このプロトタイプ(試作)機はBBCの番組、「en:Tomorrow's World」にて1997年に特集されたが、その15年前の1986年、日本の三洋電機が自律走行できる掃除ロボットの試作機を完成させていた。原型となるのは任天堂のチリトリー。
「ルンバ」といえば知る人ぞ知るお掃除ロボの商品名だが、任天堂はルンバの20年前に自動掃除ロボ、「チリトリー」を発売していた。さらに、さらに…記憶にないくらいの昔に消しゴムカスクリーナーを買った記憶がある。汎用商品となる前のアイデア商品として、面白半分に買ったものだが、おそらく40年くらい前だったろうか?乾電池式で取るには取れるが吸引は弱かった。
そういえば小学低学年の頃、友だちと、「消しゴム」か、「ゴム消し」かで言い合ったことがある。今は、「ゴム消し」とは言わない。「(字を消す)ゴム」、「ゴム(で字を)消す」ということだからどちらでもいいが、商品名としての、「消しゴム」が主流となっている。そいつとは1961年に来日した英国王室の、「アレキサンドラ王女」についても再度言い合いをした。
「アレク」か「アレキ」か、いかにも子ども的言い合いだが、解答を求めて近所中を尋ね歩いたが、誰も適切な答えをくれなかった。最終的に自分の父が、「昔、アレキサンダー大王ってのがいたから、アレキサンドラだろ?」で落ち着いた。アレキサンダーもアレクサンダーというし、父はアレキサンダーと覚えていたのだろう。自分はアレキサンダーだったかも知れない。
近年ネットは、「知識の泉」である。知りたいことは、そこいらの大人に聞く必要もなく、いくらでも入手可能な時代。おかげで百科事典が売れない。家庭の必読書、「平凡社の世界大百科事典 全34巻」(本巻30巻・索引1巻・地図帳2巻・百科便覧1巻)も、2007年以降はCD-ROMに移行しているのかと思いきや紙製事典も廃れていない。書棚を飾るに相応しい代表が百科事典である。
ところでお掃除ロボは出始めは4~5万もしたが、今は通販の目玉として1万弱の商品もある。ルンバの高級品は10万を超えるが、思考が時代遅れの自分には1000円でも買えない代物だ。姉さん被りでハタキをかけ、水バケツで雑巾がけをする時代は過去の遺物でも、せめて掃除のときは、手動掃除機をガーガー鳴らし、"掃除をしている"という気分に浸りたい。
が、今や掃除を機械が勝手にやってくれる時代である。それでいいのか?それでいいのだ。全自動洗濯機があるなら、全自動掃除機があっても良い。確かに洗濯機は便利であったが、あれで洗濯をしている気分に浸れたのか?洗濯といえば、たらいに洗濯板ゴシゴシこそ、洗濯であったが、洗濯機が回ることで、"洗濯している"という気分に慣らされてしまった。慣れとはオソロシイ…
独身時代、よく洗濯をした。汚いものが奇麗になるのはキモチがいい。渦巻きを真上から眺める無駄な時間が好きだった。「何で眺めてるの?」と聞かれれば、「見てるだけ…」と答えるしかない。意外と不器用なのか、ながら族が苦手なタイプ。ラジオや音楽を聴きながら勉強できない、本や新聞読みながら食事できない派で、唯一ながら族になるのはウンチ読書。
洋式に限る。あれほど読書に相応しい時間、静寂、体位はない。携帯が巷に出回ったころ、電話しながら牛丼食ってる奴がバカに見えた。息子に、「お前はクソしながら携帯で人と話すバカじゃないだろうな?」と言ったことがある。隣のトイレで携帯通話をする人に出くわす(聞くわす)が、ウンコ中なのに何で喋らねばならぬのか?後で掛け直すと、なぜいわない?不思議な時代だ。
上に乗ってバッコンバッコンしてるのに、女が松田聖子をハミングしたから萎えたという奴がいた。今どきの10代女なら、その最中にあからさまに携帯通話をするのは、モハメドアリだ。斯くの時代は、相手に合わせる必要もモハメドアリかと。時流に乗らず、あるいは乗れず、「今の若いもんはとんでもない」と思うのもいいが、それで時代が停止するはずがない。
自ら変わるか、孤立するか、選択すべし。自分たちが若いときに、「エレキは不良だ」、「男のくせに長髪なんか」と見下した大人たちがバカに見えたが、大人から見た若者はバカに見えたなら、どっちもどっち。ビートルズが日本に来たのが1966年6月29日であった。なんと、あれからもう50年になるのか…。彼らは、「長髪とエレキギターの伝道師」、という見方もできる。
50年はさまざまに時代を変えた。思えば電気炊飯器や電気洗濯機にも驚いた。電気掃除機が我が家にお目見えしたときも驚いた。が、やたら音がうるさかった。そうして50年経つと、掃除機は勝手に掃除をするまでになった。電気掃除機で十分便利だが、人間はここまで考える必要があるのか?ロボ掃除機の動きについて回るのか?何だか堕落しているようで買う気がしない。
手動掃除機を持って動き回るほうが健康によい(ような気がする)。クルマに乗らずに歩くようにである。まあ、人もいろいろだから、批判は自分に向ければいいのだし、自分は永久にロボ掃除機は買わない気がする。ところが、今や主婦にとって、"欲しい家電"の1つとなった「ロボ掃除機」である。当初は「本当にキレイになるのか?」、「価格が高い」などの問題があった。
それで購入に至らぬ人も多かった。奇麗になっても買わないが、最近では"掃除力"が認められ、市民権を得ている。それもそのはず、2015年10月23日。日本市場を皮切りに、ついにダイソンがロボ掃除機を発売した。サイクロンテクノロジーによって、世界の掃除機市場を席巻するダイソンが、キャニスター型、スティック型に次いで、ついにロボ掃除機市場に参入した。
ダイソンがダイソンたるゆえんは、1998年、ダイソンはロボ掃除機の開発をスタートさせている点にある。さらにダイソンは、「既存のロボットに掃除機を乗せるのではなく、きちんと掃除ができるロボットを、キャニスター型と同じ性能、吸引力の搭載を求めたため、残念ながら非常に重くて高価となり、市場に投入できるまでにはなりませんでした」。(開発担当者)
最初に開発したロボ掃除機「DC06」の画像をみると、いかにも大きく、重くて高価なため、製品化は見送られた。キャニスター型と同等の吸引力を実現するために54個ものバッテリーを搭載したことでこのようになったという。ダイソンは苦悩するが、その間、他社からロボット掃除機が次々に市場投入されるが、ダイソンはダイソン害を被った意識はなかったようだ。
かくして17年の歳月の中、ついにダイソンはダイソンらしいロボ掃除機を商品化した。さらにダイソンは家事の自動化について色々なことを考えているという。自動炊飯器を魁に、洗濯機、掃除機、瞬間湯沸かし器、食洗器、それら以外に手間のかかる家事・炊事に何があるかを考えてみたが浮かばない。自動ケツ洗い機も便利だし、ならば自動オムツ取替え器か?
温水便座は家事・炊事というより生活家電であろう。そこにまで思考を広げても、これ以上に便利な家電機器って何がある?必要は発明の母というが、とりたて必要なものが見当たらない。川にて洗濯、山にて風呂の炊き木取り、釜戸でご飯炊き、ハタキに雑巾がけ、障子・襖の張替えなど、主婦や家族総出の大仕事がほとんどない。七輪でサンマの炭火焼きが懐かしい。
どんどん生活が楽になれば、平均寿命も伸びるばかり。それが介護や老人問題を生んでいる。他人の手を煩わせてまで生きたくないという人は多い。介護の現状や痴呆の実体を知ればそういう気持ちになるだろう。が、生きたくないと言いつつ、逝きたくないのも事実である。となると、介護ケアに関する自動化が求められる。それこそ人の手を煩わさない本命だ。
ベッドに横になったまま、自動用足し洗浄乾燥機や、上記した自動オムツ取替え器は、十分に需要が見込めるだろう。開発のための研究は始まっているのではないか?寝たきり老人は人手を煩わすし、ホンネをいえば厄介ものだ。プロの介護士に委ねるのが賢明とはいえ、費用負担もバカにならない。極めつけの横着家電は、家事・炊事もこなすロボットである。
このようなものが、人間に本当に必要なのだろうか?必要が発明の母といい、だから生まれたのだろう。ところで「SpotMini」と言う家事ロボットだが、こんなものが家のなかを自走するのも、気味が悪いといえなくもない。まあ、これも慣れであろうし、半世紀後には、一家に一台「SpotMini」というキャッチフレーズで売れに売れまくっているかもしれない。
人間がリビングのソファーに坐ったままの時代は、人間が理想とする生活なのだろうか?こうした自走ロボットにつくのは疑問符ばかりである。最近は、めったなことでクルマも乗らず、自転車さえもサビついている自分の生活環境であるせいもあってか、人が植物と化してしまうのを憂慮する。人は動物、動物は行動、それが楽しいことなのら…