21日午後3時過ぎ、北海道釧路市昭和中央4丁目のイオンモール釧路昭和店の1階で、女性4人が男に包丁で切りつけられて死傷する事件が発生した。男は警備員に取り押さえられ、駆けつけた警官に逮捕された。包丁で切りつけた男は、釧路市阿寒町の松橋伸幸容疑者(33)で、4人の女性のうち、釧路市の戸沼雅子さん(68)は病院に搬送された後、死亡が確認された。
また、ほかの3人も、首を刺されるなどして、70代の女性が重傷、40代と60代の女性が軽傷を負っている。松橋容疑者は警察の調べに対して容疑を認めており、「人生を終わりにしたかった」などと話しているという。事件は午後3時15分ごろ、商業施設の入り口から30メートルほど入った、時計の売り場の向かって左側で発生し、直後に顧客は締め出された。
刃物を振り回していた松橋伸幸容疑者は警察の調べに対し、「統合失調症で悩んでいた。死刑になってもいいと思い、殺人が一番いいと思った」などと話をしているという。当時、店内にいた女性は、「悲鳴などは聞こえなかった。辺りを見渡したら一気に人だかりができて、騒ぎになっていた」と当時の状況を話し、警察が店内で状況を詳しく調べている。
統合失調症とは、精神障害の一つで、一般的には幻聴、幻覚、異常行動などであるが、日本では2002年まで精神分裂病といい、それ以前はキチガイという言葉を使っていた。まさにキチガイに刃物である。1974年以降一時期、精神障害者の家族らで構成される精神障害者家族会の会の一部から、治癒を妨げる等の医学的根拠を理由に抗議を受け、以降使用自粛につながった。
キチガイも病気なら、正しい病症用語を使うべきだろうが、キチガイは気違い、気狂いなどと表記をした。意味は「気が違う」、「気が狂う」であるが、精神障害者、知的障害者、または理性が欠如した者に対する、蔑称として使われていた。今でも、端的な言葉として使われるが、「端的に使うべからず」との考え方に添うことも、表現の自由も大事である。
多様な解釈をするなら、「気」という言葉の意味は、日本語的に広い解釈があり(たとえば「病気」、「気が弱い」など)、「気」という物の概念の範囲は広く、他の人と違う考えを持っている、あるいは若干ずれた考えを持っているという意味を含んでいる。よく言われる端的言葉には、「バカ」、「アホ」、「ボケ」、「クズ」などがあり、いかにも端的で分かりやすい。
自分は、「端的言葉」が好きだが、「端的」の意味は、はっきりとしているさま。明白。ということで、率直な人間にとって端的言葉は心地いい。遠まわしにいわなければならない場面もあるが、対面する相手に直接的に言わない場合や、文章に書く場合には、くどくどいうより率直がいい。今回の舛添氏にも理性的な文化人が、「クズ」、「ゲス」などの言葉を多用した。
「ケチ」や「セコイ」も端的言葉であり、率直で分かりやすい利点がある。「ケチではない、倹約だ」という奴がいたが、ケチを丁寧語でいうと倹約家・始末家なのか?ケチと倹約はニュアンスが違うようで、調べてみるにケチの語源は、不吉なことをいう、「怪事(けじ)」が訛ったものであると言う。それが、「粗末で貧弱なさま」、「卑しいさま」などにいわれるようになった。
なるほど…、それらからケチと倹約の違いを思考するに、倹約は純粋に世のため、人のため、あるいは国家のため、地球のため(多少はオーバーだが)を考えたうえで節約するという考えなら素敵だが、ケチは、自身の性格的な卑しさから、身銭を切るのを嫌がったり、他人の饗応を望んだり、などのはしたない行為に思える。つまり考えの根本の違いであろう。
端的な、「ケチ」という言葉を言い換えれば、「卑しい」、倹約は、「志」と考える。「質素倹約」というのは、大らかで美しい行為だが、「ケチ」は出すもの(必要なもの)さえ渋る、醜い、しみったれた行為である。「しみったれ」は、「染っ垂れ」と書き、意味は物惜しみすること、こせこせして卑しいこと。水などがじわじわと染みとおることからの表現であるという。
何気に使う言葉も深いが、掘り下げると結構オモシロい。何事も掘り下げたり、追及してオモシロくない物はないし、そういう感性を持った人間には知的なお遊びでもある。学者・研究者というのは基本はそうではないか?突き詰め、追い詰めても徒労に終る研究もあるが、徒労に終ったというのは結果論で、最初から分かったことではない。すべてはプロセスあっての事。
自分は結果をあまり重視しない。だから宝くじも買わないし、ギャンブルも好きではない。ギャンブルは結果がすべて、過程が面白いものではない。「将棋」は勝負事であり、人によっては勝負に辛い人もいたりするが、勝ち負けよりも思考の楽しさである。自分の将棋観を論理でいえば、初手と最終手は存在するが、初手と最終手のピロセスにこそオモシロさがある。
その論理は人生にもたとえられる。オギャーと生まれたのが最初の一手なら、ご臨終を最後の一手とするなら、人生とはその過程である。様々な局面があるのも将棋と同じで、様々な局面を乗り越えて指し継いでいく。将棋も人生も同じように、辛い場面も苦しい場面もあるが、苦しい局面を諦めずに耐えることで光を見出すこともある。将棋を指していると辛抱を学ぶ。
人生もそうかも知れない。が、人生が試練や苦しいのは当たり前と思っていた節がある。人生が順風満帆だけなどあり得ない。苦しさにどう耐え凌ぐかが将棋にも人生にも共通する。将棋はゲームだが、人生もゲームではないのか?「人生ゲーム」というスゴロクのようなボードゲームがある。アレはアメリカで1960年に考案されたもので、発案者は24歳の若者である。
日本版は、「人生ゲーム」の名称で1968年に株式会社タカラ(現タカラトミー)から発売された。タカラトミーの発表によると、日本版の累計出荷数は1000万個を超えるというが、自分は見たこともやったこともない。「人生ゲーム」というくらいなのだから、俯瞰してみれば人生はゲームなのだろうが、我々は自分の人生を俯瞰したり、客観的に見れないし、だから苦しい。
苦しさのあまり命を絶つこともあるが、「人生ゲーム」に自殺はあるのか?実際の人生も「ゲーム」だと思えば、多少は命を捨てる歯止めになるのかも知れない。人には楽観的、悲観的という分け方があり、楽観主義者(オプティミズム)、悲観主義者(ペシミズム)というの分類でもある。哲学的には難しい注釈がつくが、世間では端的に楽観的、悲観的という言い方をする。
「彼は楽観的だな」、「彼女は凄まじい悲観主義だ」などと使うが、的を得ているかどうかはともかく、個々の主観であろう。グラスに半分残った水を、「まだ半分もある」と言うのは楽天主義者、「もう半分しかない」は悲観主義者という有名な性格判断法がある。英語で、「Glass Half Empty or Half Full?」という定番の言い回しで、バーナード・ショーの格言による。
故井上ひさしは楽観主義者を、「ドーナツの輪を眺める人」、悲観主義者を「ドーナツの穴を眺める人」と比喩し、井上は前者だといった。井上には百年の不作と称される元妻西舘好子がいた。彼女は井上と婚姻中に、男と浮気をし、駆け落ちまでした後に男に捨てられ、金に困ったあげくにデタラメ本を書き、メディアに取り上げられようと画策したバカ女である。
井上ひさしは西館と離婚後、米原ユリと結婚し、幸福な家庭を築いていた。三女の麻矢も前妻も、これに怒りを感じて、何とか井上夫妻にケチを付けようと、『激突家族』、『修羅の棲む家』という暴露本を出版、井上の評判を落すことに躍起になったが、娘と前妻の攻撃を浴びながら、井上は文筆家にも関わらず、反論することなく一切を黙殺する大人の対応だった。
マスコミも同様に、被害者意識丸出しで吠えまくる西館を黙殺して、井上の家庭内暴力について追求することはなかった。理由はといえば、西館好子の身勝手で気ままな行動に愛想を尽かしていたからだろう。好き勝手した人間が被害者面をたところで、周囲はそっぽを向くという好例だ。母に同情して父を非難していた三女も、後に父と和解し、小松座の代表に就任した。
巷でいうところの楽観主義、悲観主義という分類の詳細や定義はよく分らないが、自分はどちらに属するのかを考えたこともある。物事はなかなか二元論に分類するのは難しく、楽天的な部分も、悲観的な部分もある。すべては時と場合ではなかろうか。ただ、自分流に「事」を分類すれば、将棋もそうだが、人間には、「得をしたい」タイプと、「損をしたくない」タイプがいる。
自分は明らかに後者である。得をするより、損をしないことを優先するから、上手い話には乗らない。お金目当てのギャンブルはしない。宝くじで3億円より、3000円の損が問題。「無料○○」キャンペーンは信じない。将棋も駒損を躊躇う。コレは楽観、悲観というよりも、堅実ということなのか?そうはいっても、結果重視の堅実的行動はしないで、今を楽しむ傾向が強い。
「得をするより、損をしないこと」をどういう風に考えるかだが、「上手い話には絶対に裏がある」、「ただより高いものはない」という格言を信じているからであろう。つまり、世の中の善人などそうそう居るものではなく、まして善人から得を得るというより、善人には損をさせないよう配慮すべきである。人のいい善人には、人の良さをなだめてあげるべきかと…