いつだったか、ずいぶんと前と記憶する。30年、50年もずいぶん前だが、そこまじゃない。ある女性と親しくなる前の会話だ。「好きなものって何ですか?」と問われ、「女子アナかな」と答える。「へ~、意外ですね」と女は驚き、「そういうの興味なさそうに見えます」というので、「そんなことない、男はみんな女子アナ好きだよ」といえば、「誰がすき?」と絡む。
「特に誰ってことないな~、普通に女子アナが好きだから。あなたの女子アナも好きですよ」、「えっ、わたし??どういう意味?」、「だから、女子のアナが好きなんですよ、略して女子アナ」、「……」、「判った?」、「そういうことですか…」、「男はいろんな言い方をするけど、上品な言い方でしょう?」、「そうですか?でも、ちょっとびっくりです」。真と、面目な女である。
問いに対する女性の答えは千差万別で、真面目な女性ほど面白い。そういえば、「千差万別」を、「万差億別」と言ったことがある。四字熟語の変形はよく使う自分で、「日進月歩」を「秒進分歩」、「不言実行」を「不倫実行」、「品行方正」を「品性方向」、「大器晩成」を「性器晩生」、「公平無私」を「公平無理」、「初志貫徹」を「処女貫徹」などなど…
文字なら説明は不要だが、言葉の場合は注釈がいる。注釈つけても分らないのは、熟語本来の意味が分かってない。ある種知的な遊びなので、人を選ぶ必要もある。四字熟語しりとりをよくやったので、結構知っているが、そもそも四字熟語ってどれくらいあるかといえば、岩波四字熟語辞典で約4000語で、結構オモシロい。四時塾GO!より楽しいかも知れん…
ところで女子アナウンサーだが、知ってる名前をあげろといわれたらどうだろうか?顔は分かるが名前の出ないのもいたり、顔が分かって名前が言えるのは一致するのは小宮悦子、安藤優子、長野智子の3名しか浮かばない。退職者なら、近藤サト、内田恭子、木佐彩子、中井美穂、有賀さつき、滝川クリステルらの名は出る。さらには宮崎緑、頼近美津子の美人アナは格別か。
頼近美津子は広島出身で、フジサンケイグループ創業家に嫁いだ玉の輿婚でも知られたが、夫の鹿内春雄氏が42歳で急死の不幸もあって、わずか3年8か月の夫婦生活だ。頼近は県内トップの広島大附属高校から東京外大に進み、卒業後はNHKに勤務、アナウンサーとして人気を得るも、フジテレビに移籍した。フジテレビでは同局史上初の女性正社員として話題となった。
それまでフジテレビは、女性は全員契約社員でのみ採用する方針を貫いていたが、頼近の2000万とも3000万とも言われた高額の移籍金に加え、年収もNHK時代の300万から1200万に跳ね上がった。彼女はNHK時代にも、1980年(昭和55年)4月から放送開始となる早朝ニュースショー、『NHKニュースワイド』で、森本毅郎とコンビでNHK初代女性キャスターを務めた。
これらは彼女に天が二物を与えたことによる待遇だが、多少ハナにかけたところもあり、NHKから移籍する際、「私はジャーナリスト」とミエを切ったこともあってゴタゴタが起きた。しかしながら「人生一寸先は闇」というか、夫の死後、フジテレビは春雄の後継問題と社内抗争で揺れ、そのゴタゴタから逃げるように彼女は1990年(平成2年)、2人の息子とともに渡米した。
春雄氏はフジテレビの親会社ニッポン放送株を大量に所有し、その株のほとんどを未亡人である頼近が相続することになる。その場合、フジテレビは実質的に美津子の支配下に置かることとなる。これに慌てた春雄の父・鹿内信隆は、なりふり構わずニッポン放送株を取り戻そうと画策、美津子が相続した時価100億円のニッポン放送株は、鹿内家に6,600万で買い戻された。
これら一連のゴタゴタもあって、彼女は悲劇のヒロインと言われた。1993年に古巣NHKで復帰、1996年には、NHK大河ドラマ『秀吉』にも出演した。同年12年ぶりにフジテレビ、『来日直前!三大テノール』の司会者として復帰するなど、節操がないように見えるが、それほど彼女はメディアに必要とされる人物ということだった。しかし、2007年に食道がんを宣告される。
通院のため世田谷から千葉・流山に転居し、癌治療を受けたが2009年5月17日に他界。53歳の薄命だった。頼近が結婚する3カ月前に、音楽誌『ショパン』で、同じフジテレビ『おはよう!ナイスデイ』の中村洋子アナとの対談で、こんなことを言ってる。「私、高校時代からレコードは『トスカ』ばかり聴いてたから、近所の人が『お宅、あれしかないんですか?』って」。
「ピアノは3歳で始めたの。ヤマハ音楽教室が広島にできて、親が『世の中に遅れちゃいかんから』って。教則本一冊終えると親がぬいぐるみを買ってくれる。だからあと4分の1くらいになると必死でやった。ぬいぐるみ欲しさに…。ヤマハの後は『桐朋子供のための音楽教室』に入ったの。チェロも弾いた。面白かったよ。テクニックはともかく、音楽の心はわかったみたい」。
頼近は、桐朋学園の総帥齋藤秀雄に才能を見込まれ、東京に出て本格的にチェロを学ぶことを勧められたが、家族会議の末に断念した経緯からして、それなりの才があったようだ。懐かしい29歳の頼近である。対談当時、彼女も自分も、その後の彼女の人生など想像もできず、ましてや53歳で世を去るとは…。フジテレビで頼近と田丸美寿々は、双璧の看板女子アナだった。
二人とも広島出身、二人とも東京外大卒である。田丸は現在63歳、早稲田大学大学院政治学研究科非常勤講師の肩書きがある。田丸と頼近は共通点が多く、二人とも夫が三度目の結婚で、田丸の夫ジャーナリスト美里泰伸とは不倫だった。美里の妻は当時妊娠中であり、不倫発覚後の翌年二人は結婚する。田丸は、「奪ったのではなく譲ってもらった」と意味深な発言をした。
おそらく、相当の慰謝料を支払っての略奪婚と推察する。田丸は不倫発覚後にフジテレビを電撃的退職した。不倫略奪愛の汚名に耐え切れなかったのだろう。二人とも才媛・美人であり、和田アキ子は自著、『和田アキ子だ 文句あっか!』で、女性アナウンサーの美人化、タレント化について、田丸をその嚆矢(かぶらや=物事の始まりの意味)であると言及した。
田丸は1983年にフジテレビを退社独立すると、退社翌日にゲスト出演したTBS『モーニングジャンボ奥さま8時半です』からは、結婚後の本名である美里美寿々の名でフリーランスのアナウンサーとしての活動を開始した。1985年には客員研究員(国際関係論)として、アメリカ・プリンストン大学に約1年間留学、これには夫・美里氏も付き添って同地に滞在した。
田丸は翌年帰国、テレビ朝日と専属契約を締結する。以後、同局の番組、『モーニングショー』、『ザ・スクープ』、『ナイトライン』、『朝まで生テレビ!』、『ザ・ニュースキャスター』などに出演。これらの活動を通して田丸は女性フリーキャスターの草分けとなる。1991年美里氏と離婚。美里は、「10年経ったら離婚しても良い」とした手記を発表、田丸は沈黙を通す。
今や女子アナといえばタレントである。ブサイクより美人が好まれるのは当然にして、いわゆる女子アナブームは、1988~94年に起こり、TV業界では革新的な出来事であった。番組アシスタントという枠を飛び越え、この時代から芸能人のような活躍を見せるようになった才色兼備の女子アナ人気が沸騰した。頼近美津子がNHKからフジテレビに移籍したのは1981年。
まだ女子アナブームはなく、ブーム到来は、1988年にフジテレビに入社した八木亜希子、有賀さつき、河野景子の3人が契機となる。「フジテレビが局を挙げて、3人を"花の3人娘"として売り出した。それまで女子アナはバラエティ番組に出演してもアシスタントに徹し、タレントのように脚光を浴びる事はほとんどなかったです。」と、女子アナ評論家の戸部哲也氏。
彼女たちはその枠を超えて活躍、女子アナの概念を変えていった。ある30年のベテランカメラマンA氏はいう。「フジが東京・河田町に社屋があった1992年、野外イベント『フジテレビまつり』で、女子アナ出演のファッションショーを開催。最初は普通の衣装を着こなしていましたが、ステージ中盤に有賀さつきがビキニ姿で登場!夢中でシャッターを押しました」。
局主催のイベントで女子アナが水着姿になるなど当時は珍しくなかった。「八木亜希子は新人アナ時代、『ゴルフコンペのプレゼンターとしてバニーガールになってくれ』と上司に言われたといい、近藤サトは温泉中継でバスタオル一枚でリポートした。日本テレビの薮本雅子アナは、『スーパーJOCKY』の熱湯コマーシャルに挑戦、スタジオで水着に生着替えした」(戸部氏)
フジが先導し、日テレ他の各局も便乗し、かくして女子アナブームが起こる。タレントさながらの活躍を見せるようになった女子アナだが、本人たちは、"自分は会社員"という意識が強かったという。次々と人気アナが誕生していった第1次女子アナブームを牽引していたのはフジ、日テレ、TBSの3局、正統派を地で行くテレビ朝日はブームを冷ややかに見ていたようだ。
フジ「花の3人娘」のその後、河野景子は1995年横綱に昇進したばかりの貴乃花と婚約、既に妊娠6カ月であった。有賀さつきはフジテレビ報道局政治部編集委員和田圭と2002年に結婚したが、「私生活でも上司でした」と2006年離婚、八木亜希子は外資系金融機関の一般男性と2002年に結婚した。上記したように小宮悦子、安藤優子らおばさんアナしか知らない自分だ。
ところで八木亜希子。1965年6月24日生まれの彼女は、明日で51歳になる。彼女においては離婚寸前、10年近く仮面夫婦を続けている、などの記事が目に入るが詳細は不明だ。3人娘の有賀や河野のようなゴージャスな顔立ちはなく、庶民的な感じが好感を持てるが、最近の彼女の話題はもっぱら女優業である。
今回、以下の記事が目に入る。「とある平日の正午前、フジテレビの最寄り駅である東京テレポート駅に、ひとりの美女の姿があった。『めざましテレビ』でメインキャスターを務める永島優美アナである。彼女のこの日の服装はなんとも意外な、薄い紫色のパンツに白いシャツ、足元はアディダスのスニーカーという、花の女子アナとは思えない地味なファッション」。
彼女は父親が元サッカー日本代表の永島昭浩ということもあってか、男勝りな性格らしく、動きづらいヒールを嫌い、「収録や女性らしく振る舞わないといけない時しか履かないらしい」とか同局の中堅局員。もう一つ、彼女がラフな服装を好む理由は、『めざまし…』のメインになってから街で声をかけられる機会が増え、それに辟易して、あえて地味な恰好をするという。
女子アナらしくない(?)地味で質素でカジュアルな着こなしが、美人をスポーティーに引き立てる。自分の好みもあって、彼女の画像に触発されて今回、「女子アナ」の記事を書いた。「○○らしい」というより、「○○らしくない」の方が、インパクトがあるが、街をこの格好で歩く彼女を、女子アナらしくないというより、いかにも永島昭浩の娘らしいといえなくもない。