「牛の糞にも段々がある」と言ったら、女から品がないと蔑視されたことがある。「人糞といったんじゃない、牛の糞は人が野原で目にする共有概念、そんなところに品だの何だをもってくるか?比喩と楽しめよ。」と言ったことがある。「比喩なら何を言ってもいい訳?」と言い返す女に、「自分の常識でしか物事を見聞きしないなら、人を選んだ方がいい」と通告。
隣人と見境無く喧嘩をおこして、騒ぎ立てる女性を中世ヨーロッパでは、「がみがみ女」と言い、水攻めの刑が科せられた。「水攻め刑」を正確にいうと、懲罰椅子に縛り付けて川に沈めるというやり方であった。「がみがみ女」には、革のくつわをはめて公衆の面前を歩かせる恥辱刑を行ったとの説もあり、風刺画も現存するが公式記録がなく創作とする説もある。
くつわも水攻めも、舌禍の元兇者(おしゃべり、暴言)を戒めるもので、慣習に逆らったり、男尊女卑に異論を唱えたりなど、当時の常識に反することを言った場合に用いられる刑罰で対象は女性である。歴史的に当時の女性は、「家の中で奴隷のように扱われた」うえに、「常に妊娠していた」ために、「心神喪失」から血迷ったことを言いだす事件が多くあった。
そう言う女は、「口やかましい女」、「がみがみ女」との謗りを受け、面をかぶらされ晒され苦痛と屈辱を味あうことになる。罰を受けるのは、必ずといっていいほど女性であり、取締りの主旨が「教会では女を黙らせるべし」であった。ここでの「教会」とは「教階制」(キリスト教徒においては、教義的な理解度によって階級がきまっていた)の意味である。
女性が最下層の人間と定義される、「教会制度としての女性蔑視」であり、実際の意味は、「男の前では女は黙らせるべし」である。面をかぶらされた者は、広場の杭に晒された上、人々から仕打を受ける。殴りつけられ、汚物を塗りたくられの大怪我で苦しむ。とくに乳房と恥骨を傷つけることが流行したのか、その場合は死にいたることも多かった。
男であっても女であっても、対論を好む人間は嫌いではないが、感情にかまけた一種のヒステリー状態から、ムチャクチャであり得ないことを言う女がいる。頭に血が昇った本人はまさしく田嶋状態で、他人の言葉を聴こうとしない。聞いて判断して言葉を返すことをせず、自分の感情だけを突きつける女は逃げ出すに限る。これが恋人だの妻だのなら冗談じゃない。
それで妻と離婚になった男は多く、「(そういう女は)最初からわかりそうなものだろ?」としか言いようがない。「最初はやさしくてそんな風には見えなかった」と大概の男はいう。「女のネコ被り」について話していたとき、「ウチの嫁は結婚後5年もネコ被ってていた」と、お披露目の場でこぼした夫がいたが、それが三女が嫁いだ先の義父である。
自分のほうから先に、「娘はネコを被るのが得意なので、額面どおり受け取らないほうがいいですよ」と言った時に、相手の父がそう言ったのには思わず笑った。もちろん、妻が隣にいるにも関わらずだが、まあ、自分も娘の前で言ったわけだ。その時に妻の顔を見ると平然としていた。帰って「何であんなことを言ったのよ!」と言ったかどうかは不明。
三女は「何であんなことをいったのよ」とは言わない。外面のいい娘を「お前は今世紀最大のネコ被り女」としょっちゅう言っていたから、今さら…である。早いもので嫁ついで1年7カ月になるが、娘と姑今年の正月くらいから絶交状態で、口を利くのも嫌だと言う。口喧嘩をした後に、翌日は何事もなかったように擦り寄ってくるから腹が立つという娘。
男でそういうお調子者はあまりいないが、それも女の世界なのか?「そういう子って大嫌い」と娘がいうのなら仕方がない。姑には何を言ってもラチが開かないからと、舅に「何とか言って下さい」と頼んだらしく、「あいつは何を言ってもダメだから、諦めている」とあっさり言われたらしい。近年は嫁と姑が別居だからいいものの、同居でコレはたまらんよ。
昔の嫁は姑との確執でどれほど苦労をしたかと推察する。我が妻においても思うところがある。やっと医療老人ホームに入所したので、苦労から逃れられたようだ。自分は、こんなキチガイ母と同居していたら、それこそキチガイがうつるとさっさと逃げ出した身である。キチガイが伝染する事はないだろうが、キチガイと同居したら間違いなく精神障害をきたす。
嫌な人間と我慢して顔を突き合わす事はないし、それでストレスがたまって体の抵抗力が下がり、様々な疾患の要因になるなどバカげている。自らの健康のためにも別居すべしである。もちろん、修復不可能な夫婦でも同じ事。のっけに記した口減らずでやかましい女には、とっとと失せろというスタンスでいた。もちろん、互いにとっての益にならない。
「牛の糞にも段々がある」を品がないというなら、同じ意味の、「ピラミッドは頂上から作られない」という比喩を言う相手を探してくれ。誰からも好かれるなどあり得ないし、自分が嫌だと思う相手から気にいられるほど不幸なことはない。大事な事はこちらが正直な態度を示せば、相手もそれ相応の対処をするだろうが、態度や言葉が伝わらない相手もいる。
これを通称、「にぶい」といい、「鈍い」と表記することから、「鈍感」ともいう。それにしても「鈍感」はなぜに、「鈍感」なのか?「鈍感人間」は、対人関係の七不思議といわれるように、女性はよくこういう言い方をする。「こちらがそれとなくアプローチしてるのに、ぜんぜん気づかないのよ。鈍感でしょう!」。ふむふむ…、よく聞くし、言われたことでもある。
確かに感性の鈍い男はいる。が、一般的に男の鈍感の多くはタヌキ。鈍感の素振りを楽しんでおり、興味のない女に仕掛けられて、ワザと気づかないフリをする。コレは女にもあるが、なぜそうするか、した事のある人間なら分かるだろう。また、好意を抱く相手でさえ、気づかぬ素振りもある。舛添流にいえば、人間関係の機微、普通にいえば、恋愛ゲームの一事象。
ゲームは遊び、男は危険な遊びを好むもの。「男が本当に好きなものは二つ。危険と遊びである。そしてまた、男は女を愛するが、それは遊びのなかで最も危険なものであるからだ」とニーチェはいっている。「恋は危険」という歌詞の楽曲は多いが、恋はなぜ危険なのか?漠然とではなく考えてみよう。まず浮かぶのが不倫の恋。のめりこむと家庭破綻の危険がある。
「よこしまな恋」というよこしまは「邪」と書いてよこしまという。漢字の「邪」の「牙の文字は、日本の柱に切り込みをいれて噛み合せて繋いださまを描いた象形文字で、チグハグに噛み合う歯を現す。歯科医に「噛み合わせが悪いようですね」と強勢されてしかり…。チグハグな食い違いの意味から「邪」が「よこしま」という文字に宛てられたという。
よこしまは道理にはずれたことだが、漢字も奥が深い。拙者はボーダー柄と格子柄をこよなく愛す「よこしまな男」である。さするにシマウマもよこしまな馬なのだろう。ファンションコーディネーターによると、ボーダー柄は水平線で落ち着き、それに縦のストライプ向上心。つまり格子柄は落ち着きと向上心などといっているが、ま、確かに目指したいもの。
別のサイトによる心理分析によると、チェック柄好きは、一般的に「常識人」だと。あと、チェック柄スキは「オタク系」とある。「オタク系の人はチェック柄を外出しに着る」とある。自分がオタクだなんてあり得んし、単に若い頃にチェックが流行った名残り。欲しくても買えなかったあの時代の憧れを再現したい、それがチェック柄が必然的に増えていく理由。
ボーダー柄好きの「よこしま男」を自認するが、ボーダー柄の批評がオモシロい。「夏になるとマリンルックのボーダー女が増殖する。ボーダーを選ぶ理由は"さわやかさと清潔感"をアピール。マリンテイストには、ユニセックスなイメージもあえい、異性を意識させないさらりとした軽やかさと清涼感を演出したいその心は、"実はモテたい!"の下心いっぱい。
けれど、ガツガツしていると思われたくないので、下心を隠すためにさわやかさを装うのです。ボーダーを着ると彼氏ができないと言われていますが、下心を無意識に押し込めていると素直に自己アピールできず、やはり不利。たまには女の子らしい花柄やドットを選んでみては…」。どう思うのもその人の自由だが、生地の柄で人の心理が分かるなんて甘い甘い。
たまに「囚人服みたい」などといわれるが、バカいっちゃいかんよ。水兵さんのマリルックも陸軍の戦闘服も、トップガンルックも今やファンションである。ボーダーの発祥地はイギリス・ロンドン北部にある「ボー・ダ・ボー」と言う刑務所があり、そこの囚人は皆太い横線の服を着ていた。セーラー服も今や憧れであるように、囚人服も立派なファッションでございやす。
「囚人服みたい」と見下げ、蔑むやつのオツムも社会的認知度が幼稚ということだ。と、口に出さず腹で笑っておこう。今どきそんな風に思うか?と訝しいが、今どきいるのは事実。本日は、牛の糞の段々が、ボーダーにて終結す。「風が吹いたら桶屋が儲かる」理由は定義されているが、「牛の糞はボーダーになる」は即興であり、ことわざにはなり得ない。