拙者の大腸がんの執刀主治医、広島大学病院のH先生とは、問診の際に世間話が多かった。彼は臨床医でありながら、研究医としての希望を絶やさないでいるというH先生だが、どう考えても臨床医の方が収入面で勝る。H先生との話題で多かったのは、『患者よ、がんと闘うな』などの多くの著書で話題をさらった、当時慶応大学病院講師の近藤誠医師についてである。
大体は自分のほうが話題を振るが、こういう専門的な話になると一家言をもつ臨床医として身を乗り出す。H先生は、「近藤さんは、好き勝手をいって本を売っているけど、我々は医療の責任において、軽はずみなことはいえない。極端なことをいえば本も売れるでしょうが、どうもそういうスタンスのようですね」と、当然ながら近藤医師の発言や著書については批判的だ。
東京都内の開業医の家に生まれた近藤氏は、慶應義塾中等部卒業から高等部を経て、1973年慶應義塾大学医学部を首席で卒業し、同大学放射線科に入局した。在局中からアレだけ得意な反アカデミック発言をしながら、2014年の定年退職まで慶応病院に勤務できたのは、強い精神力と揺るぎなき信念と推察するが、大学病院を始めとする現場の臨床医は近藤氏を非難する。
「命に逆らいて君を利する、之を忠と謂う」『逆命利君』の考えが近藤氏の根底にあるのだろうか?自身の勤務する職場の悪口を公言しながら、その職場にいること自体が不可解であるが、近藤氏は「おかげで万年講師でおわりました」と笑っていう。もっとも、彼の信念と言うのは、いささかも反逆という考えにない。そのあたりについて、近藤医師はこのように言う。
「私が上梓した『医者に殺されない47の心得』(2012年:アスコム)は100万部を超える支持をいただき、『がん放置療法のすすめ 患者150人の証言』(2012年:文春新書)などの反響も大きかった。その影響でしょう、慶應大学病院の私の外来は、がん治療相談を求める新患が殺到してパンクしたので、2013年4月に渋谷にセカンドオピニオン外来を開きました」。
結局、慶応大学病院にしても、コレだけ近藤医師に外来患者が集中することを見過ごせない状況だったのではないか?医療は患者のためのものとするなら、近藤医師の肩を叩くわけにもいかないし、とはいえ、彼の独断的解釈は病院全体のマイナスとなる。そういうジレンマを抱えていたとしても経営的に見れば、近藤医師の存在は病院にとってマイナスとならない。
近藤医師は大学病院内で孤立し、孤独な戦いを続けていたが、病院側と最初に論争を巻き起こしたのは80年代、乳がん患者への乳房温存療法だった。現在では一般的な治療だが、当時は乳房全摘出が標準。近藤医師は、慶応大病院の外科が乳房全摘出するのは、犯罪行為と名指しして雑誌に発表したのだ。それ以降、大学病院の軋轢は続き、大学病院内で孤立状態となる。
佐高信著書になる『逆命利君』の主人公である鈴木朗夫が、東大経済学部を卒業して勤務した住友商事を、入社わずか二ヶ月にして、「ここは自分の居るべき場所ではない」としたのも、彼は本質的に社会に嫌悪を抱く人間であったからだ。1955年3月28日付で東大を卒業した翌日の日記にはこう書かれている。「成績表をもらった。びっくりするほどいい成績がついていた。
べたべたと優が並んでいるので、僕は、しまった、大学院へ行って教授コースに入ればよかった、と思ったくらいだ」。愛知県出身の鈴木は旧姓八高(現名古屋大学)卒で海部俊樹元首相と同い年で友人であった。海部の師であった三木武夫が、石油確保のため中東へ特使として派遣される時に、鈴木は海部に頼まれて三木にレクチャーしている。
鈴木は三木に物怖じせずにこう直言する。「単に『日本が困っているから石油を売ってくれ』と言ってはダメです。『アジアの発展途上の国々は日本を頼っている。日本が中近東の石油を入手できなければ、アジアの国々が窮地に陥る』と言いなさい」とのアドバイスを三木は受け入れた。その甲斐あって日本は石油の入手に成功した。まさに鈴木の直言が巧を奏したことになる。
『海賊とよばれた男』(百田尚樹著)のモデルは、出光興産の創始者出光佐三である。佐三は漁船相手に海の上で軽油を販売する画期的な方法で売り上げを伸ばしたことで知られるが、ライバルからは「海賊」と呼ばれた。佐三も大胆な振る舞いをする人間だが、住友商事の鈴木も世界を舞台にした商戦で、決して卑屈な妥協はせず、外国人バイヤーと対等にわたりあった。
鈴木のスケール感の大きさは以下の問答からも伝わってくる。前日、遅くまで仕事をした鈴木は、意図的に出勤時間をずらすなどし、遅刻の常習犯だった。人事や総務から度々、注意を受けたが、「何か問題ありますか?」と平然と言う。「就業規則違反だ」と言われると、「就業規則には遅参をしたら遅参届を出せと書いてあるので、いつもちゃんと出しています」。
「遅参届を出せ」とあるが、「遅参が悪い」と就業規則のどこにも書かれてない。鈴木はそういう理屈で相手を黙らせる。こんな男が同期のトップを切って常務に昇進したのも、仕事が卓越していたからだ。鉄鋼部門で日本の鉄鋼製品を海外に売りさばいた。上司の伊藤正は総務から鈴木を庇っていたが、「会社に仕事を売るが時間は売らない」という鈴木の主張に理解を示す。
これまでの9時出社を、9時半にするよう伊藤は人事・総務に掛け合ったりした。それでも鈴木は早くて10時過ぎ、たいていは昼から出社したという。遅くまで仕事をし、翌朝ムリして早く来ても、いい仕事は出来ないという理由で、フレックス制が採用されることになった。日本企業で最初のフレックス制度を住友商事が採用したのは、まさに鈴木のおかげであった。
「規則を守りましょう」などのこせこせした人間に大事はやれない。鈴木には伊藤という上司も幸いした。以下は伊藤の持論である。「下から上にものが言えず、下が上のイエスマンなら風通しが悪くなる。上に立つものは部下からの進言、忠告を受け入れる雰囲気を作ること。もっと言えば上に逆らっても言ってこられるような上下関係にすべきである。」
「常識やコンプライアンスなんか吹っ飛ばせ!」。かつて日本には大事の前の小事を軽やかに飛び越えて「仕事」をする豪胆社員がいた。渥美俊一もその一人。今では当たり前であるチェーンストアを日本に根付かせたのは、読売新聞の一記者だった、2010年に83歳で亡くなった渥美は、1962年にチェーンストア経営研究団体「ペガサスクラブ」を設立・主宰する。
商業に関心を寄せていた渥美は、当時、日本でも台頭し始めていたスーパーマーケットを丹念に取材して回る一方で、横浜支局時代に輸出入の現場を取材し、アメリカの流通業の先進性を痛感した渥美は、1962年、チェーンストア経営研究団体「ペガサスクラブ」を設立、翌1963年にチェーンストア経営専門コンサルティング機関である「日本リテイリングセンター」を設立。
設立当初のペガサスクラブの主なメンバーは、ダイエーの中内功、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊、ジャスコの岡田卓也、マイカルの西端行雄・岡本常男、ヨークベニマルの大高善兵衛、ユニーの西川俊男、イズミヤの和田満治など30代の若手経営者が中心となり、会員企業数は急速に伸びて行く。1969年に1,000社を超えたのを機に新聞社を退職した渥美は、コンサルタント専業となる。
先駆者言えば聞こえはいいが、言葉は結果論に過ぎない。新しいことを始めるその時は「先駆者」でもなんでもない、失敗と隣り合わせの勇気ある人間である。昔、VANというブランドに触れたときに、VANとは何かを調べたら「先駆者」とあった。なるほど、VANの創業者石津謙介もまた、先駆者であった。今でこそボタンダウンの襟は当たり前であるが、最初は違った。
近所の中1の頃に、近所の兄ちゃんたちが、ボタンダウンのマドラスチェックのシャツに、カーキ色のコットンパンツが何ともカッコよくて、制服の白いカッターシャツの襟を針と糸でボタンダウンに変えた自分だ。ボタンダウン様の小さいボタンがなく、普通のシャツのボタンだったし、可笑しくて仕方のない代物だが、自分的には列記としたカッコいいボタンダウンであった。
石津がこのシャツを売り出そうとデパートなどの仕入れ担当に見せると、「何ですかコレは?襟にボタンなんてこんなもの売れるハズがない」とあしらわれたという。石津はその時どう思ったかの感想はないが、想像するにおそらく、「こいつは何もわかっちゃないんだよ。アメリカの大学生ではボタンダウンにあらずはワイシャツにあらずってことなんだよ」ではないかと。
当時の日本にブランドはなく、あるといえば福助足袋うあ、グンゼのズロースくらいだろうが、あれをブランドとは言わない。たんなる社名、商標であった。VANは日本で始めての男性用ブランドであり、それもすべては男性ファッションであった。女性物は当時、「わんさか娘」のレナウンであった。VANの先導によるアイビーファッションは、日本の男を変革した。
石津はレナウンに勤務していたこともあり、当時はなかった男性ファッションブランドを画いていた。鈴木が住友商事、近藤は大学病院、石津はデパートの仕入れ担当と戦ったように、問題意識を持つ者は戦士となり、派生する軋轢は人間関係の法則である。鈴木の日記には辛い時間と我慢の日々が綴られている。以下は入社後1年目のある3月の日曜日。
「明日からまたしても仕事。ガヤガヤと無目的に集合して、後生大事にノンセンスを守りつづける人々の間で退屈。とりわけ、あのベタベタした身ごなしの、我慢ならないA子の隣に坐らなければならないと思うと、ぞっとする」。入社1年経っても、こうした嫌悪感に満ちた内面を綴っていること自体驚異だが、鈴木が自己を見失わないための自己再生というものだろう。
「僕の昂然としたポーズは、人々の注意をひき、攻撃的で偽悪的な言動は珍しがられるのだが、それも諸君と総称する、僕が軽蔑する人達の間では満足すべき結果をもたらすのだが、どうやら近頃、そのポーズが膨れ上がりすぎたようだ。少年時代のような、内も外も変わらない自然の姿勢を失ってしまったのだ。女性に対する僕の態度に一番ハッキリ現れる」。鈴木のイライラや不機嫌は日増しにつのった。
以下は同年夏の日記。「サラリーマン生活はもう分かった。後はコレを止す時機を選ぶだけだ。男といわず女といわず、これはまったく異質な世界だ。(中略)僕のレベルが高いのだ、などということではない。つまり異質なのだ。これは偏頭痛のもとだ。僕は日毎に沈うつになる。大変な青春の浪費だ。意味のない事の為に自分の時間の殆どの全てを費やす苦痛が僕を疲れさせる」。