一見、柔和で優しそう。こういう人が殺人を?年齢的にも孫もいるだろうし、何でまた…?
保育士の寺沢良子容疑者(57)は8日午前1時半ごろ、自宅1階の寝室で寝ていた夫の繁美さん(63)の首をコードで絞めて殺害した。「夫を殺してしまった」と寺沢容疑者から電話を受けた兄が警察に通報して事件が発覚した。付近の住民は、「(良子容疑者は)とても良い感じの方で、びっくりしました。トラブルらしきことは全然感じられなかった」と、驚いたようだった。
周囲にはいい人であれ、夫婦の事情とは無関係。寺沢容疑者の勤務する保育園の園長(56)によると、昨年夏ごろ「夫が躁鬱病になった」と園内で話し、入退院や服薬治療を受けていたが寺沢容疑者は繁美さんの暴言に悩んでいたという。事件前日に会った同僚(49)は、「変わった様子はなかった」と話した。青森地検は30日、寺沢良子容疑者を殺人罪で青森地裁に起訴した。
スマホを買ってもらえないとの理由(いろいろ原因はあろうが引き金になった理由)で、子が親を殺す時代がなんとも痛々しいが、スマホといえどオモチャであり、かつてオモチャを買ってくれないとの理由で、親を殺した子がうあただろうか?親子もいろいろ、夫婦もいろいろだが、殺意は抱いたとしても実行には移さず、気分転換や気持ちの切り替えができないものか?
殺せば憎い相手はこの世から消えるが、人を殺して自分が幸福になれることは絶対にない。不幸になるのは目に見えている。事にはやらず、逮捕後の行き場などしっかり考え、自身の幸せの在り処をしっかり見つめる。不幸になると分かって、それでもいい、それでも殺すというなら仕方がない。人を殺したい人間を前にし、人殺しを阻止する言葉はこれくらいしか浮かばない。
人を殺せる理由は、事の後先を考えないからだ。何十年も刑務所って普通は嫌だろ?
モラルや道徳を持ち出したところで効果はなく、「損か得か」の自己談判をさせるくらいしか自分には出来ない、分らない。人を殺すのを本当に止めさせる方法があるならどういう説得法があるか?血のつながりも何もない、顔見知りでないアカの他人に、殺意を止めさせる事の出来る有能者が吐く言葉はどのようなものなのか、是非とも聞いて見たいものだ。
法は犯罪者を断罪するためだけではない。犯罪者を救うためにも法はある。なぜなら、犯罪加害者というのは、実は被害者によって作られることもあるということ。善良な子どもの多くは、いじめを受ける相手や、家庭における親が加害者となり、その加害者を葬るために凶器を取る。犯罪を犯すような人でない人が犯罪を犯すのは、ジギルとハイドのような心の二重性ではない。
被害者によって加害者となったケースは多い。それさえ「心の弱さ」と一律に言えるのか?ハズミと言うのは実際にあるからハズミであって、やるかやらないか未知で断定できぬ事をハズミという。人の心はその日の気分によって変わるし、そうしたハズミまでも「心の弱さ」と言うのか。自分はたまたまやらなかったに過ぎないが、人はたまたまやってしまった。
「ハズミ」とか、「たまたま」は熟達者にもあるのは、プロ棋士の将棋などを見ても感じる。こういう事例もある。現在は無冠だが、かつて名人・竜王などを取った羽生世代といわれる実力者で永世名人の資格もある森内俊之九段が四段当時の逸話。ある局面で秒を読まれながら指したところで、食事休憩が告げられた。途端、対局者の二人が同時に詰みに気がついた。
子どもたちに言う。「勝って嬉しい、負けて悔しい」でなく、「負けて(も将棋は)楽しい」
森内は負け、勝った相手は、「なんだ、危なかったな」と言ってケタケタ笑った。40歳も年上だからそんな態度も出来るが、それには森内も腐った。そこに入って来た別の棋士が、「あと1分で食事休憩、1時間ゆっくり考えられたのに…」と言い、「そうなんです。(自分の)時計を合わせておかなかったので判らなかった。ひどかったす。死にました。もう投げます。」
相手は終局後、「君は詰みが読めなかったの?」と慈悲ない言葉を言う。普通は行われる局後の感想戦もせず帰った。森内は対局終了後、自らを痛めつけるかのように、横浜の自宅まで走った。鉄道経路で27kmの距離だが、一般道を走ったので実際には30kmくらいになろう。彼は5時間走り続けたという。記録によれば、この日の最高気温は10.2度、最低気温は5度。
家に着いた時には、背広の上着と靴がドロドロになって使い物にならなくなっていたと、森内は名人になって当時のことを語っている。相手棋士は目立った戦歴もなく、生涯成績389勝513敗で、本対局から3年後に引退した。他方森内は、886勝523敗と、相手棋士と負け数は同じだが、勝ちは300も多い大棋士である。駆け出し四段時の悔しさが彼をまた精進させたのだ。
プロ棋士は我々素人が1秒で読める盤上この一手という局面でさえ、数分の時間を使うが、それはこうした悔しさを身に染みて味わっているからだろう。彼らには「ハズミ」も「たまたま」も言い訳にできない。アマチュアがよく言う、「考えればあんな手を指さなかったのに」などのいい訳だが、「だったら考えろ。考えるなと誰が言った?」と言われたことがある。
おっさんに一句! 「クソオヤジ鍛えてくれてありがとう」
中学のときに近所のオヤジにである。剛毅な土建屋のオヤジは、自分が勝つまで一度も平手(正規の対局)で指してくれなかった。二枚落ち(飛車と角を下す)で、「勝つまではこれだ!」と言って、自分を鍛えてくれた。子どもだろうが容赦しない、その態度は今なら愛情と理解できるが、その時は悔しく、泣きそうになったことも何度かあるが、奥歯をグッと噛んでこらえる。
子どもに対してキツイ物言い、「負けて強くなるなら女が名人になる。勝たなきゃ強くはならん、ワッハッハ!」と、子どもだからと遠慮はしない。あんなオヤジは近頃いないな。公民館で子どもと将棋をするが、どこに行くにも親が付き添う時代。自分たちが子どもの頃に遊びの場に親などいない。監視といえば監視、過保護といえば過保護、社会が逞しい子ども作りを担わない。
親が暇ということもあろう。全身全霊で子どもに入れ込んでいる。放任がいいとは思わないが、愛ある放任と、面倒だからの放任と、そこの見極めが難しい。昔はただ放って置くしかなかったが、社会全体の教育力が子どもを監視し、保護していた時代である。今は公園で親の監視の元で遊ばせる時代にあっては、過保護・過干渉が近年の子育ての代名詞のようだ。
児童期の子どもに「躾」と称して、「ごめんなさいわ?」、「ちゃんと謝らなきゃダメでしょ?」などと急き立てる親は多い。素直に謝る事はいいこととばかりに無意味な謝罪を子どもに強要するのは「躾」というより、親の自己満足では?それらを嫌と言うほど味わった子ども時代を顧み、子どもにプラスになるとは思えない。大人は自分の子ども時代を思い出してみるといい。
善悪の分らぬ子どもに型式的な詫びを強要するより、善悪の意味を教えることが大事だろ
「ごめんなさい」と言わせて満足そうにする親の顔に腹が立った。「謝らなければ食事を抜き!」、「謝るまで家には入れないから!」それがどうして教育なのか?北海道七飯町の林道で、両親に置き去りにされた小2の男児しかりだ。自衛隊も出動して大掛かりな捜索を続けているが、この男児は何処でどうしているのか?心配を超えて不思議という気もしている。
躾と虐待を履き違える親は多い。親としての母親の特権は違和感があったし、だからバカだと思っていた。子どもは親をバカと思ったら言う事を聞くはずがない。聞かない方が正解である。バカの言いなりになったら間違いなくバカになる。自分は小学高学年で親を見切ったが、その年でバカをバカと見切る賢い子どもだったのかも。自賛というより、辛い部分はあった。
同じ家屋に住み、ファミリーの一員である子どもが、親と敵対するなど憐れとしか言いようがない。客観的にみれば、だが。当時は主観しかなかったし、バカな親にひれ伏さないことが絶対に大事だと思っていた。それくらいにバカに見えたのだ。子どもは親の指示どおり動くのが一般的だが、「あんたのいう事は絶対に聞かない」という言葉を母親に吐いたくらいだ。
そんな言葉を吐いているのだから聞くわけがないし、本当に母親の指示で動いた事はない。親子がそれでいいのか?それで良かったと思う。強い気持ちがあれば子どもはそのように出来ると思うがどうだろう。北海道の児童は、「言う事を聞かない」との理由で置き去りにされたというが、自分ならどうしたろう?何とか頑張ってうろうろし、あげく補導されたかもしれない。
父への批判は子どもが消えたからで、それより「なぜいない」を考えろ
男の子の意地と気概として、降ろされてヌケヌケと家には帰らない。親の言う事を聞かない子は、ある意味覚悟の反抗をしているハズだ。覚悟とは、(親に)嫌われてもいいとの覚悟で、だから嫌ってる親の言う事を聞かない。親に嫌われたくないがために、悔しいけど我慢して親の言う事を聞く子は多い。自分は物心がついて以降、我慢して聞いた記憶がない。
証言者としての児童の親の言い分はこうだ。28日は午後から一家4人で鹿部町の公園に車で出掛けた。水遊びなどをした後、大和君(児童)が車道に向かって石を投げていたためしかったという。大和君は以前にも車に石で傷を付けたことがあり、「父親としての威厳を示さなければ」と感じ、自宅へ帰る途中、林道に寄り「反省しなさい」と車から降ろしたという。
大和君が泣きながら車を追い掛けてきたため、一度は車内に入れたが、約500メートル先の三差路で再び大和君を降ろしたという。父親は車を止め、5分ほど歩いて大和君を迎えに行ったが、姿は見えなかった。家族で周辺を約30分捜しても見つからず、それで警察に通報した。とのことだが、父親の言い分が本当だとしたら、大和君が見つからないのは大和君の問題か?
車から降ろしたことの是非より、これほど探しても見つからない理由(問題)を大和君が握っているなら、彼は何処かに隠れているのか?誰かが自分探してるようだが、「意地でも出てやるか!」くらいの推理はできるが、にしても5日経っている。いくらなんでも7歳児にして根性あり過ぎだが可能性はある。親のヒドイ仕打ちに究極の怒りで頑張る子はいてもいい。
何処にいる?どうして見つからない?「出てやるもんか!」なら威勢がいいが…
出動要請を受けた自衛隊員は、おそらく大和君の死骸も含めた捜索であろうが、親の言い分が事実との前提で言うなら、あんなクソ親に徹底反抗して、頑張って欲しい。死骸というなら自殺だろうが、それは負けだ。親の暴挙に屈したことになる。明日くらいには出て来いよ。お前を凄過ぎる男として誰もが認めるから。だから、もういい、明日くらいに出て来い、大和君!
―― 追記 ――
大和君が発見された。鹿部町の陸上自衛隊駒ケ岳演習場内で保護された。見つかったのは演習場内で陸自隊員が雨宿りに使う小屋の中。見つけた関係者が、「大和君か」と聞くと、「はい」と答えたという。彼は行方不明になった28日当日から駒ケ岳演習場に居たという。彼の立場で考えれば、親が去ったならしょうがない、そこに留まって迎えを待つ意味もない。
折角与えられた自由なら、とっとこ、とっとこ行きたいところに行くよ。周囲が大騒ぎしてるなど、知ることもないし、知ったことでもない。じっとしてるのが嫌なやんちゃ坊主の普通の行動だ。周囲も評論かもつまらんことを言うのだろうが、大和君にすれば、なんでもない行動であっただけだ。大騒ぎせず、このやんちゃ坊主を普通の目で見ていればいいだけのこと。
彼にとってすべての行動は普通だっただけだから。周囲は騒がぬほうがいいよ。やんちゃは彼の資質であって、当たり前に逞しさでもある。7歳にして、「親が親なら、自分は自分」という独立心がいい。自分は10歳くらいに芽生えたが、同じように親とのバトルの結果だった。親は考えるべきかも。手放せば、手放すほどに子は独立心が増すということを…
好奇心は岩をも砕く?一人寝など怖い訳がない。大事にしすぎるから依存心坊やとなる。かくれんぼ気分かと思ったが、それは女々しい。好奇心の塊りのやんちゃ坊主は演習場に行ってみたかったんだろう。だから、自然とそこに足が向いた。普通は入れない演習場に行ってみたかった。親は絶対ダメというし、やれるいいチャンスだったし、周囲の騒ぎをよそにいい冒険したよ!