その生涯でもっとも長い距離を歩いた日本人では誰?と問えば、伊能忠敬であろうか?彼は1800年から1816年まで、足掛け17年をかけて全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。忠敬は1745年生まれだから、55歳から72歳の17年間ということになる。年齢的にもどれだけ大変であったかが伺える。
忠敬は、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。忠敬は17歳のときに酒造家である伊能家の跡取りミチと婚礼をあげ、正式に伊能家を継いだ。4歳年上の妻ミチは前夫と死別、3歳男児の子連れであった。50歳にして江戸に出た忠敬は、年下で31歳の天文学者高橋至時を師と仰ぎ弟子入り、熱心に勉学に励む。
寝る間を惜しんで天体観測や測量の勉強をしていた忠敬は、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まっていた。寛政4年(1792年)、ロシア特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸事件が起こった。
日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て幕府に願い出た。蝦夷地を測量し、地図を作成する事業の担当として忠敬を当てた。忠敬は高齢が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点でふさわしい人材であった。
寛政12年4月、幕府から蝦夷測量の命令が下りた。忠敬は、「元百姓・浪人」という身分で、1日あたり銀7匁5分が手当として出された。忠敬は出発直前、蝦夷地取締御用掛の松平信濃守忠明に申請書を出すが、そこには自らの思いが綴られている。忠敬一行は同年4月19日、蝦夷へ向けて出発。忠敬55歳、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人の総勢6名だった。
測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は117日。測量データを元に忠敬は地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。測量の手当として1日銀7匁5分の180日分、合計22両2分を幕府から受け取る。忠敬は測量に出発するとき、100両を持参し、戻ってきたときは残金は1分との記述がある。差し引き70両以上を忠敬個人が負担したことになる。
忠敬が負担した金額は現在の金額に換算すると1,200万円程度となる。また忠敬は、この他に測量器具代として70両を支払っている。忠敬が蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は、幕府天文方で編暦・測量を行っていた堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。随時日本全国の測量が行われた。
・第一次測量(蝦夷)
・第二次測量(伊豆・東日本東海岸)
・第三次測量(東北日本海沿岸)
・第四次測量(東海・北陸)
・第五次測量(近畿・中国)
・第六次測量(四国)
・第七次測量(九州第一次)
・第八次測量(九州第二次)
・第九次測量(伊豆諸島)
・第十次測量(江戸府内)
・第二次測量(伊豆・東日本東海岸)
・第三次測量(東北日本海沿岸)
・第四次測量(東海・北陸)
・第五次測量(近畿・中国)
・第六次測量(四国)
・第七次測量(九州第一次)
・第八次測量(九州第二次)
・第九次測量(伊豆諸島)
・第十次測量(江戸府内)
これらの測量データを元に、忠敬らは八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかったが、文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れた。地図作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定だったが、大幅に遅れた。14年秋頃から忠敬は喘息がひどくなり、病床につくようになっていた。
翌年になると喘息はさらに悪化し、急激に体力も衰える。そして文政元年(1818年)4月13日、弟子たちに見守られながら満73歳の生涯を終えた。忠敬の死後、地図は完成していなかったために忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。そうして文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成を見た。
7月10日、景保と忠敬の孫忠誨(ただのり)らは登城し、地図を広げて上程した。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。忠敬の喪が発せられた年、忠誨は15歳で五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許された。伊能忠敬が17年の歳月をかけて作った日本地図、総歩行距離4万km、地球一周分を歩いたことになる。松尾芭蕉が「奥の細道」で歩いた距離は2000km。
本に依れば,千住から大垣までの推定移動距離は1870.5km。それ以外に日光等見物に115km移動したとされている。殆ど徒歩であるが、途中馬や舟で244kmとあり、その分を差し引いた総歩行距離は、1870.5+115-224=1761.5km。総移動距離なら1985.5km。芭蕉が弟子の河合曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発したのが、元禄2年3月27日(1689年5月16日)であった。
芭蕉45歳であった。さて、自分の先月の歩行距離は381.6km、11月からの総歩行距離は2275.6kmで芭蕉を超えた。総歩数は3,338,624歩となる。月間平均歩行距離は、325.1kmだから、12倍した年間平均は約3900kmとなり、この調子でいくと伊能忠敬の総歩行距離40000kmには10年3カ月で到達する。このまま行けば…だが、忠敬の17年で40000kmよりかなりのハイペース。
今後、10年歩くのだろうか?病気もせず、死にもせず、気力も失せず、飽きもせず、トコトコ歩くのか?分らない、先の事は…。1寸先とはいわぬが1年先は分らない。1カ月、2カ月先なら大まかに読めるが、1年先となると、まったくの闇。「来年のことを言うと鬼が笑う」と言う。将来のことなど予測できないし、あれこれ言ってみても始まらないの例えだが、なぜ鬼が笑う?
諸説あるが、「明日のこと、今年のことも満足に出来ない未熟者が、来年のことを得意になって語るのを聞いて、鬼(超自然的なモノの例え)が彼をあざけ笑っているという様」が、意味としてもわかりやすい。もう一つ、「鬼は人間の寿命を知っているとされる。ある人が、「来年こそは○○するぞ!」と言ったとき、その人の寿命が今年で尽きると知っている鬼が笑った」という。
これもよく出来た話だ。鬼だろうがお多福だろうが、笑いたいなら笑ってくれ。来年のことを言ったくらいでそんなに可笑しいなら、いつまでも笑っていろい。人のちょっとしたことを笑い奴がいるが、そんなことで笑う奴が滑稽に思える最近だ。同じように、ちょっとした事で腹を立てたり、怒ったり、これもバカかと思えてしまう。年を重ねると人間は剛毅になるようだ。
怖いものがなくなるんだろう。物事に動じなくなる。おそらく、大方の事は見たり聞いたり体験したり、あらかたの事は耳目にし、経験もし、原体験を積んだからだろうか?傷つきやすく壊れやすかった若き日は、まるで別人のように思えてならない。それを成長といい、成熟というのか?心理学は、乳幼児心理学に始まり、児童心理学、青年心理学に分類される。
人間の成長について考えるのはここまで、ということだが、近年は老人問題が取り上げられるにつれ、老年心理学も生まれた。しかし、日本の大学で「中年心理学」の講座はないだろう。なぜなら、これまでの考えによると、人間は大人になると安定し、変化もなく、研究対象にならなかったからではないか。心理学で中年を取り上げたのはユングであった。
彼は相談者の中に中年が多いといっているが、その中の三分の一の人は、一般的には何の問題もない、むしろ、「適応が良すぎることが問題と言いたい」と言う。財産、地位、家族などに問題がないどころか、他と比較するとはるかに恵まれていた。それなのに彼らのすべては、「何かが足りない」、「不可解な不安」を背負い、悩まされ、ユングのところに訪れたのだ。
「悩みがないのが悩み」という言い方をするが、半ば冗談であろうが、ある意味本質でもある。単純にいえば、激しく移り変わる社会についていけない、置いてきぼりにされる不安と言うのもあるのではないか?自身の境遇は満たされていても、時代に取り残される不安と不満、それが中年、あるいは老年であるのか。身近な問題でいうなら、夫婦の関係も、親子の在り方も変質する。
そのために適応に困難さを生じることもあろう。何かひとつの考えや方法を確立し、それで一生押し通して行くことはできない。どこかで何らかの転換を必要とするはずである。夫婦も親子も言い争うものだ。争いの主な要因は、原因 - 結果という思考パターンである。夫の酒量が多いから家系が圧迫、ゴルフばかりで家庭を顧みない、妻がアチコチ出かけ過ぎる。
それで子どもがやる気をなくし、成績も上がらない。子どもは子どもで自由を制限されて親はウザイとする。すべては自分が悪くない、相手が悪いという論理が展開される。勝負は力の強いほう、声の大きいほう、口が建つほうが勝つが、問題は片付いていない。中年期は山の尾根に立っているようなもの。左右のどちらに足を踏み外せば、崖の下に転落する。
孔子は、「三十にして立つ。四十にして惑わず」と言った。三十にして立つとは自立で、四十にして惑わずとわざわざ言ったのは、自立して後、四十までは惑ったということ。何に惑ったかはいろいろ。自分の経験で言えば、本当に惑わないのは、六十歳を経てである。四十やそこらで、「惑わず」などあり得ない。が、三十までのふらつきという惑いではない。
「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる」。オカシな歌詞と思ったが、これも迷い、惑いを現しているのだろう。ユングのところに訪れた順風満帆の人たちは、ユングが考えた人生の前半と後半とに分けた、その転換期にある人たちである。前半は自我の確立、社会的地位も得、結婚して子どもを育てるという一般的な尺度によって自分を位置づけていた。
その後半において自分の、「本来的なものは何か?」。一体自分は、「何処から来、何処に行くのか?」という根源的な問いに答えを見出すことに努め、来るべき「死」をどのように受け入れるか、という課題に取り組むべきとユングは考えた。太陽は昇りやがて沈む。上昇から下降に向かう転換点の課題に取り組むことで、下降にあっても何がしかの上昇を見出す。
1日 14258歩 9695m 87/分
2日 31161歩 21189m 90
3日 20999歩 14279m 84
4日 28306歩 19248m 90
5日 28375歩 19295m 89
6日 9681歩 6583m 85
7日 13818歩 9396m 88
9日 27728歩 18855m 89
11日 25402歩 17273m 92
12日 31316歩 21294m 88
13日 16994歩 11555m 87
15日 10146歩 6899m 77
17日 44537歩 30285m 87
18日 34054歩 23156m 90
19日 25494歩 17335m 88
21日 43890歩 29845m 89
22日 6513歩 4428m 76
23日 23023歩 11655m 89
24日 16685歩 11345m 86
25日 14063歩 9562m 79
26日 17411歩 11839m 85
27日 16553歩 11256m 87
28日 22401歩 15232m 88
30日 29392歩 19986m 91
31日 14893歩 10127m 87
2日 31161歩 21189m 90
3日 20999歩 14279m 84
4日 28306歩 19248m 90
5日 28375歩 19295m 89
6日 9681歩 6583m 85
7日 13818歩 9396m 88
9日 27728歩 18855m 89
11日 25402歩 17273m 92
12日 31316歩 21294m 88
13日 16994歩 11555m 87
15日 10146歩 6899m 77
17日 44537歩 30285m 87
18日 34054歩 23156m 90
19日 25494歩 17335m 88
21日 43890歩 29845m 89
22日 6513歩 4428m 76
23日 23023歩 11655m 89
24日 16685歩 11345m 86
25日 14063歩 9562m 79
26日 17411歩 11839m 85
27日 16553歩 11256m 87
28日 22401歩 15232m 88
30日 29392歩 19986m 91
31日 14893歩 10127m 87
total 567095歩 381612m