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「心にうつりゆくよしなし事」

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「我思う、故に我あり」というのはつくづくよい言葉に思う。「人間は考える葦」もいいが、「我思う~」からどれほどの解釈を、どれほどの啓示を得るかは人によって違うけれども、どのように解釈するのが正しいのか?若い頃は何事も正解ばかりを求めていた。「正しいこと、真実は岩よりも固い」ということだったが、「我思う、故に我あり」とは思うことがすべて…。

思えば通じる。思いは波動であり、波動はエネルギー。エネルギーは仕事である。つまるところ、思いは現象化する。が、思いに正しいはない。初めて彼女の住むアパートに行ったことを思い出す。締め切った窓とカーテンに警戒感が漂う。外国映画の一場面で、恋人を自身のアパートに招待する彼女。玄関ドアの前で、「ちょっと待ってて」と彼氏を待たす。

先に部屋に入った彼女は、部屋のすべての窓を開け、カーテンを引いた。部屋にこもった空気を入れ替え、澱んだ部屋に外光が射し込む。印象的な場面であったが、彼女は窓にもカーテンにも触れなかった。自分は断りもなくカーテンを引き、古い木枠の窓を開けた。白や黄色や緑の木枠に格子の窓は、児童文学にでてくるそのもので、窓辺には花も欠かさない。

寒い冬は花を内側に置き、春には外側におく。庭の風がカーテン越しにサラサラと入ってくる。そのこと自体が恋人たちを演出してくれる。日本の窓は今はアルミサッシ全盛である。日本も外国も文明度は同じだが、レトロな雰囲気の窓を取り付ける。強度や耐久性においてはサッシが勝るが、外国の建築には個性が光る。個性は文化であり、それらを大切にする。

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日本の家屋は人が住めればいい、雨風しのげたらいい、というだけでは無個性は否めない。近年のプレハブアパートは、屋根材、外壁材、玄関仕様など、外観はゴージャス感を漂わせるが、外国の窓の多様なあしらい方に、日本の窓はとてもじゃないがついていけてない。アールコーブをとりいれたオシャレな部屋作りなど、見習いたい要素・技法は満載である。

「アールコーブ」はペンションやホテルなどで見かける洋式建築技法の一種で、壁の一部分をくぼませて作る空間をいい、バロック時代のフランス建築で、ヨーロッパを中心に流行した。壁に埋め込み状態になっていることから、部屋に無駄な出っ張りを作らず、フラットな状態にすることで、デットスペースを作りにくく、結果的に部屋を広く見せることができる。

日本に馴染みが無いのは、現代建築の主流が洋風で、日本の気候や風土にあった在来工法は一部の田舎を除いてほとんど行われない。窓枠の額縁や幅木などの建築資材も、日本の部屋作りにおいては重視されない。文化の違いもあるが家に対する精神の豊かさが根本的に違う。安物の簡素な建材が主流の日本と違い、小さな個所にも心をくばせ、豊かさを実感する。

話が文化や建築様式のほうに流れたが、初めて訪れた彼女の部屋から、初めて観る外の景色はいかなるものであったか。記憶にはないが、その事実は覚えている。自分がそこで眺めた景色は、日々彼女が観慣れた景色と同じだろうか?それより、その景色というのは、必ず窓を開けると目に飛び込んでくる景色なのか?絶対にそこにあるというものなのか?

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悪魔か何かが存在して、窓を開けた瞬間にその景色を作っているという可能性を、絶対的に否定はできない。普通は、「そんなバカな」であろう…。さらには、彼女の観る景色と、自分が観る景色が同一であるとの証明はできない。なぜなら、色や形を言葉で説明しても、色や形の定義自体が自分と彼女とで、同じであるということを証明することができないからだ。

そう考えていくと、この世に存在するもので、絶対に存在を証明することのできるものは一つもない、ということになりはしないか。確かに存在するように見えるが、幻想ではなく本当にあるのかと。デカルトはそこに気づいた。そのように考や思いがあることは確かだ。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、絶対に間違いない事実となる。

となると、この世にあって、存在がハッキリしているのは、今、このことを考えている、「自分自身」のみということになる。このことだけは絶対であり、間違いのないこと。それが、「我思う、故に我あり」である。考えるのは脳ミソという肉体ではない。考えるのは自我である。考える自我=これぞ真理で、この場合の真理とは、真偽の判定を下す真実、事実。

考えるということは、たとえ空想であっても意義はある。団塊の世代に代表されるかつて若者多くは、社会主義の「幻想」を持てた。エンゲルスが、「空想から科学へ」と言ったように、社会主義というのは、まさにその空想性ゆえに意義があったのだ。つまり、夢や可能性がそこにある、存在すると考えることができた。ところが、それが崩壊してしまった。

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そこで新たな希望が生まれてくればいいが、そのための革命は起こらなかった。ソ連は崩壊し、中国に至っては、共産党独裁政権下の自由主義経済みたいな訳の分からないことになっている。天安門事件以降、中国の少数民族や、下積みの労働者や農民には、「革命」という選択肢すら許されない。革命は許されてやるものではないが、革命は失敗から学ぶものではない。

よって、革命は二度と起こせないものである。そうなると、何の幻想も持ち得ない世界になってしまった。吉本隆明の『共同幻想論』に触発され、栗本慎一郎は『幻想としての文明』を書いた。二人が対談した本が『相対幻論』。いずれも「幻想」という言葉がお好きのようだ。窓から観る景色も幻想なら、高速道路の高架も、軌道を走る新幹線も、幻想のせいということになる。

「恋愛」も幻想である。恋愛は精神活動ゆえ、思いは通じる。思いは波動、波動はエネルギー、エネルギーは仕事であるなら、恋愛は仕事である。ドン・ファンは恋愛仕事人。石川淳は、『恋愛について』のなか、「恋愛生活では、それが精神に依って貫かれる限り、そして肉体がくたばらない限り、情熱の過度は女性遍歴という形式を取らざるを得ない」とする。

有為の男子はどうしてもドン・ファン足らざるを得ない。ドン・ファンのエネルギーは、女性遍歴において集中するがゆえに、個々の女性ついて散乱することがない。恋愛は結婚ほど社会的抑制と管理下にないが、恋愛は性と社会がぶつかり合う戦場ゆえに、いろいろなことがある。ストーカーもあれば殺人もある。恋愛は情緒に身を委ねる一つの病気であろう。

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アイドル刺傷事件と言われた女子大生の被害者は、なぜあんな目にあったのか?セキュリティとか夢追い女とかいろんな論評があるが、加害者は被害者に本気の恋愛感を抱いていたのだろう。本気の恋愛は怖いし、爆発物を持ち、それがいろんな形で爆発する。家庭内においても、思春期の性の成熟が、親に対する独立戦争と重なると、同じように爆発するようだ。

女子大生刺傷事件の加害者は、被害者に対する愛情がホンモノだから、あんなことができる。「本当にわたしのこと好き?遊びじゃないよね?」などという女はいた。「本当の恋愛」とは何?と問えば、恋愛の目的は結婚であるという。結婚を前提に女と付き合わなければ遊びなのか?バカな策略を考える女もいるもんだ。こういう女に「自由」という発想はない。

恋愛は幻想でいいのよ。本気だと、どれだけ人の命が奪われることか。ドン・ファンは女を殺したりはしない。殺すのと逃げて行くのとどっちが大事かを考えてみればいい。愛の終わりはあってもいいし、逃げて行った男が悪いのではない。自分とは別の他人という個人に対し、自己愛的な同一視を行うのなら、対象喪失(失恋)は自己喪失ということになる。

そもそも対象選択が自己愛的であるから、あのような事件が起こる。アイドルや芸能人を自己愛対象するファンは多いが、理性を失ったときが怖い。アイドルでなく、一般人の恋愛であっても、恋愛関係が自然に解消に向かうならいいが、一方的にふられ、しかも相手が別の恋人といちゃいちゃヨロシクやってるとなら、すさまじい復讐心が湧きだつこともある。

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自己愛的な恋は破滅する。なぜなら、自己愛者は依存心が強く、いつまでも相手に固執する。だから、「この恨みは忘れない。必ず復讐する」と自らに誓う。失恋の結果、刃傷沙汰になるケースは、恋そのものが自己愛的なものだからだ。相手を愛すと言うより、愛してやまなぬは自身の依存心。恋愛は幻想でいいが、結婚が何かはさまざまだが、異性の目から見ると?

倉橋由美子はこう述べている。「わたしの見るかぎりでは、結婚した男とは、罠に落ちているのに幻の愛に酔いたがっている夢想家か、無気力な模範囚か、一夫一婦制に従いながら、その抜け道を研究している技術者か、そのいずれかです。いずれにしろ、結婚とは男の本性と相反するものではないでしょうか。(倉橋由美子著『愛と結婚に関する六つの手紙』より)


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