込み入った問題を考えるのが苦手な人間がいる。例えば、「あなたがこの問題を解く前に解いた問題を解いたあとで解く問題を解く前に解いた問題が、あなたがこの問題を解く前に解いた問題を解いたあとで解く問題よりも難しかったとしたら、あなたがこの問題を解く前に解いた問題はこの問題よりも難しかったのだろうか?」さて、この答えは如何に?
回りくどいが結局何を言い、何を問うているのかを判別するために、何が書かれているのかを頭で要約する。理解力(読解力)のない人間だと、途中で頭がこんがらがって要約どころではないが、理解できなければ積極的になれず、また、そうした態度は相手に伝わり、この人は伝えられたことを理解しようという気がないと受け取られる。人の事を人が察知するのが人間関係。
同じ言葉や文章であっても、上っ面だけの理解しかできない人もいれば、血や肉の部分にまで理解を及ぼす者、さらには骨の部分(根本)まで理解を深める者もいる。これらを言い換えると、「一を聞いて一を知る」者、「一を聞いて五」を知る者、「一を聞いて十」の者につながってくる。読解力が卓越した人間との会話はさすがに面白いが、ない人との会話は結構疲れる。
話しの中のあることを理解できてないにも関わらず、「分かったフリ」をする人はすぐに判る。気をつかってくれているのか、見栄なのか、「和」を以て尊しか、いろいろだ。理解を得ない知ったかぶりも困るが、もっとも困るのは頭がカチカチの人。これには対処のし様がない。頭の固い人への対処法は、こちらが苦手とするなら無理して関わらないのが一番である。
自分は決して苦手ではないが、無益な意見の押し売りを避けるために、相手の理屈を理解したフリをすることになる。「無益」というのは、人間の生活には何の関係もない、機微も見当たらない理念や概念を論じ合うこと。そんなものは自身が持っていればいいことで、人に聞かせることでも押し売りすることでもない。自分が自己確認のために書くのは構わない。
自分は自己の生き方の理想を描くが、決して人に押し付けない。他人の生き方の理念を聞くのはやぶさかでないが、押し付ける人は困ったちゃんの代表格である。若い頃はムキになって反論したが、無駄と気づいたというより、「あなたはあなたの好きに生きて下さい」という尊重。自分は自分を生き、他人は他人を生きるが、宗教家を嫌う理由は、押し付けにある。
「自身の幸せは(すべて)他人にとっても幸せ」というのが宗教ではないかと。この世で唯一正しい法則を謳うのが宗教ではないかと。雑多な環境や境遇、雑多な文化や人種に共通する普遍法則を真理というなら、真理を模索する旅に出るのが悪いとは思わない。それが宗教であっても、自らの足で歩く行脚であっても、何かを求めるは、求めないに勝るに異論はない。
何もしないのは、多少の問題があったとしても、何かをするのが勝るようにである。「行為」にはいろいろある。「行為に理屈をつけて正しい」とする。「行為に理屈をつけずとも正しい」とする。これらは理屈の後付だが、そうではなく誰かの教え(理屈)に従う行為もあれば、善悪が判らぬままの行為もある。後で自己正当化の理屈をつけようにも、それすら躊躇われる。
自己の行為を「善し」とするか、「悪しき」とみるかの多くは、自らの思念からいずるもの。人間は自身の行為を善く思いがちだが、自己肯定と自己批判の狭間で成長する。将棋の対局後に行われる感想戦というのは、一局の将棋を一つの人生とし、さまざまなチョイスについて自己批判をする。羽生名人クラスであっても、自慢の一手を絶対評価をすることはない。
「あの局面のあの一手は正しい」などを本人の口から聞くことはない。「局面における絶対手」という言い方をするが、正しいといわない理由は、将棋は対話であるからだ一局の将棋は、個人の人生における道程ではなく、相手と共に作って行く道のりである。「正着が実は敗着」というのは矛盾するが、実際に起こり得る。口語的には、「正しいことが間違っていた」である。
正しいものは正しいハズが、「正しきが間違い」とはどういうことか?これまで、「正しいことを正しい」と主張するのは、正しいことだと思っていたが、今は全く思わない。それが経年で得た人間関係の機微という奴だ。「正しい事は実は間違い」というのがいかに多いか、それに気づかなかった若き日々。「正しい」は自己評価に過ぎず、相手には迷惑千万だったりする。
将棋の感想戦に戻る。「その手が正しかった。いい手だったと思います」と、これは相手の評価である。そのように言われても高段棋士は有頂天にならず、「そうですか?そう思われますか?」と応える。謙虚に見えるが、相手から指摘され、評価されてこそに賛同に価するという気持ち。自慢の一手は自賛ではなく、評価とは相手から戴くものといえる。
他者の評価を規範にするではなく、個々の評価は時々に発生する。相手の正しいが真に正しいなら、行為の評価を他人に委ねることになる。それが信念といえるのか?自身の行為の善悪良否が、他人によって判断されていいのか?という問題だが、評価を求め、評価に迎合して生きるのではなく、時として思わぬ評価を戴くこともある、という姿勢でいいのでは?
信念は大事だが、信念だけで社会を生きている人間は、おそらく仙人ではないだろうか?なぜなら、自身の善、自身の正義を他者が客観的に裁いてくれるなどあり得ない。その意味で人は信念と自問し、葛藤する。理屈だけ書き散らした文章をみるに、なんという味気のなさであろう。ロジックの世界のみで人が真っ当に生きて行けるはずもなく、だから嘘っぽい。
偽善者に思えてならない。槍玉に上がっている舛添都知事のような人間は、真に人間としての体を成していない。その理由は、間違いや過ちを、絶対に認めようとしないし、彼に「謝罪」の意思はない。また、彼が真実を話せないのは、自分が傷つくからというより、役目を追われるからだ。わが良心と言いながら、その実、自らのエゴイズムにしか過ぎない生き方である。
「彼は強い人間。嘘をつきながら、よくも平然としていられる」。というのは間違っている。舛添という人間の本質は、「嘘をつきながら、嘘をついている自分を認められる強さがない人間」である。そういう人間の常套句は、法だの道徳だの良心などと言い出す。「今後は自らの良心に誓って、一生懸命に仕事で評価を出す」などと、悪事を言葉で誤魔化そうとする。
悪知恵の働く人間は、だから絶対に信用できないし、してはならない。橋下は、「舛添は土下座謝罪でギリギリ、それなくば辞職」といったが、彼は人間を理解している。ようするに、舛添に人間になれと言っている。自らの弱さを、弱さと認められないなら、人間の偉大さなどどこにもない。醜いことを醜いというのは勇気がいるが、醜いことを善というのは欺瞞である。
頭で語る人間と心で語る人間がいる。頭で語る人間は、理論武装で身を固め、論理に卒がないが、自分は神か仏かといわんばかりで味気ない人間。心で語る人間は、人間の弱さを隠さない点で共感を持てる。人間は人間に感じるのであって、神や仏は崇める対象である。神や仏ごとき物言いの人間は、崇め奉ってもらいたいのか、「そこまでいうか?」の困ったちゃん。
そんな言い方は嫌味なので、そこまで思わないが、ようするに頭が固い人間は、考え方のクセである。人にはさまざまな思考のクセがある。どんなクセも根底にあるのは、人に認められたい、人に愛されたいという気持ち。それと、頭が固い人は無意識に「ルールを守らなければ、人に愛されない」という思い込みに縛られており、なんとも窮屈なものに思えてならない。
どうしてもそういう人と付き合う必要があるなら、認めてあげることだ。認める=模倣ではないし、自らに取り入れる必要はない。単に人を人として認めてあげること。押し付ける人に対し、「はいはい、あなたの言うとおり」などの投げやりな態度をとると、相手はさらに頑固になるから注意。絶縁するなら茶化すもいいが、そうも行かぬ境遇なら、聞くフリをすればいい。
結局、認めてもらいたいのだから、認めてあげる度量を持つ、それも人生勉強である。「よくもこんなくだらないことを真顔でいうな?」と思っても、それがその人なのだと。それでイッパイイッパイなのだと理解をする。相手を批判したところで、自分が向上するわけでもなく、自分にとって益にならぬ意見であっても、あえて害にせず、「愛ある無視」に止める。
さて、のっけの問題文を要約は、「この問題の前に解いた問題が、この問題より難しかったとしたら、この問題の前に解いた問題は、この問題より難しかったか?」となる。よって答えはイエス!あるブティックの店員が、老齢の経営者からこう言われたという。「自己の個性の没却は、客の個性の尊重」。なるほど、自分の好みを捨てて客の好みに合わす。それが客商売。
ブログをやるものにとって、コメント来訪者は顧客さまという意識のようだ。だから礼を言ったりするが、自分はそのように思ったことはない。威張っている、頭が高い、と誤解も受けても気にしない。相手は相手の都合で来たというのを尊重する。つまり、相手の純粋な意思を尊重するから、礼などの考えにならない。「遠い蒼空」さんは、こんな風に自分を諭した。
「コメ来訪者には、相手のブログに伺って礼をいう」。「ファン登録にも礼をいう」。押し付けではなく、親切で善意の進言と理解したが、実践はしなかったし、従う必要性も感じなかった。意義や必要性を感じたときは心を込めるが、表層的な謝罪と謝礼を好まぬ自分である。それらを人によってしたり、しなかったり、などの恣意性は、公平感という一貫性に反してしまう。
対象には公平であるべきを「善」としたのは、4人の子どもを持ち、彼らの思いや目線を痛切に感じたからだ。時に感情に左右されがちになるが、相手の立場になると、こちらの感情や気分は害悪でしかない。子を持って学んだことだ。自らに課したルールを踏襲することは、リベラルを自認する者の努めである。自由愛好主義だが、時として自由は制限されるべきものだ。